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シウアルマ(転生姫はお飾り正妃候補?愛されないので自力で幸せ掴みます)  作者: 福嶋莉佳
二章

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第2話 虚伽

「セレナ様、王妃様がお呼びです」


侍女の声に、セレナは筆を止め、胸の奥がひやりと冷えた。


「王妃殿下が直々に?……何の御用かしら」


入宮の儀で拝謁して以来の召しの声。歩むほど鼓動は速く、足取りは重くなる。


……もしかして、国へ帰れと言われるんじゃ……。


外様の姫、殿下の寝所にも呼ばれたことがない。

正妃候補として、目に見える形で選ばれていないのは事実――そう思うと、背筋が冷たくなった。


やがて王妃の間。

香煙の奥に、玉座に凭れたザリーナ王妃がいた。   


……相変わらず美魔女。

この母あってこその殿下、か……似てないけど。

青い瞳は大王様由来なのね。


セレナが深く一礼し、顔を上げた瞬間、澄んだ声が場を支配する。


「――今宵は殿下の御寝所へお渡りなさい」


端正な声音が空気を震わせた。


「……えっ」


声にならぬ息が喉に零れる。胸の底に沈む意味はただ一つ。


……夜伽の命令……。





夕暮れの訓練場では、砂が風に舞っていた。

カリムが水袋を肩にかけ、片手で剣をくるりと回す。


「……おいサフィア。最近お前、殿下に甘えてばかりじゃないか?」


幼馴染の軽口に、サフィアは眉をひそめる。


「な、何を言う」


「以前は“殿下を支える剣”だってばかり言ってたろ。

 なのにこの頃は……女の顔をしすぎてるんじゃないのか?」


からかいに胸が熱くなる。

だがサフィアは琥珀の瞳を真っ直ぐ向けた。


「……私は変わらない。殿下を守る剣、それが務めだ。

 殿下の名誉を汚す者があれば、誰であれ斬る」


カリムは肩をすくめ、口端を吊り上げる。


「ならいい。……幼馴染として言ってみただけさ」


風が二人の間を抜けた。

小さなざわめきは残ったまま、サフィアは己に刻み直す。


そのとき、柱の陰から侍女たちの囁きが漏れた。


「……見た? ルナワの姫様の支度部屋に、特別な香炉が運ばれていたわ」


「ええ。それに殿下の御寝所では寝具の入れ替えまで。

 あんな支度、滅多にないでしょう」


囁きは風に流れた。

だが、サフィアの胸には冷たいものが落ちた。


香……寝具……そんな支度、まさか。


拳に爪が食い込み、呼吸が乱れかける。

カリムが怪訝そうに眉をひそめた。


「どうした、サフィア」


「……なんでもない。ただの準備の話だ」


無理に整えた声の奥で、胸がきゅっと縮む。

カリムは視線を細め、低く呟いた。


「……ただの準備にしては、大げさだな」


違う。噂や影に惑わされてどうする……私は、アルシオンを信じる。


サフィアはまっすぐな誓いを、

掌に残る痛みとともに、深く刻み込んだ。





政務室では、夜半の灯が卓上を照らし、粘土板と葦紙の影が長く伸びていた。

封泥を割った欠片が小皿に残り、油皿の火がぱちりと弾ける。


ラシードは脇卓に葦筆を置き、口角だけをわずかに上げた。


「……殿下。どうしてセレナ様をお呼びに?」


薄い皮肉の奥に、探る色が滲む。

アルシオンは短く息を吐き、窓外の闇へ視線を逸らした。


「……理由は単純だ。帳簿に向かっていた。

 政務を語るなら、通じる相手のほうがいい」


声音は淡々としていたが、膝の上で結ばれた拳は固い。

ラシードは肩をすくめ、卓上の葦紙の端を指で、こつりと弾いた。


「なるほど。異国の姫が泥をかぶってくださるおかげで、

 殿下は“政務を語れる相手”を得た――そういうことで」


灰の眼が半ば伏せられ、思案が静かに沈む。


ようやく、あの姫君から目を逸らせなくなりましたな。

 最初から“芽”には見えておりましたが……さて、殿下は。


油皿の火が、また小さく弾けた。

沈黙はそのまま、石壁の奥へ沈んでいった。





夜気が帷の隙から忍び込み、薄く張られた絹を冷やしていた。

侍女たちは声を潜め、香炉を整え、衣と飾りを手早く準備していく。

御料庫から選りすぐりの品が運ばれるたび、部屋の空気は静かに熱を帯びていった。


磨き上げられた青銅鏡に映る自分を見つめながら、セレナの胸で疑問が泡立つ。


どうして……私なの?


正妃候補は他にもいる。

しかも自分は属国ルナワの姫――この国では“外様”。

序列は最も後ろのはずなのに、王妃様の直命のあと、封泥付きの呼び札まで届いた。

行き先は“殿下の寝所”。支度は急ぎ――そう、簡潔に記されて。


 ――つまり、認められた……の?


胸の奥を、冷たいざわめきが撫でる。


……殿下は、どうお思いになるのかしら。


夜伽は王太子の義務。

だが彼の心は別の人にある。


あんなにサフィア一途なのに。夜伽だなんて……。


それは――彼にとっても、決して楽なことではないはずだ。


「姫様、少し首を……そう、こちらへ」


リサが震える指で青銅の櫛を操る。

落ち着かぬ瞳が、必死に行き場を探していた。


……リサの方が怯えているじゃない。私が、しっかりしなくちゃ。


背後では、立ち会い役として控える年長の女官たちが視線を交わし、

囁きが香煙に紛れて落ちる。


「……殿下の寝所まで、支度が運ばれるのは久しいわね」

「ええ。王妃様の直命とあらば……」


言葉はすぐに煙に飲まれたが、刃のように耳に刺さる。

香が満ち、セレナはそっと瞼を伏せた。


たとえ正妃になれなくとも――

夜伽とは、女が王家と国の手に差し出される儀。


その一歩で、立場も未来も揺らぐ。


そうよ……私はルナワの姫。ここで退くわけにはいかない。


油皿の火がわずかに揺れ、香煙が髪の先を撫でた。

控えの侍女が合図の小鈴を一度だけ鳴らす。


――支度、整いました。


夜の気配が、しんと部屋を満たしていく。


……なんだかんだ言って、私、姫様らしく振る舞っているじゃない。


かすかに失笑し、その裏に寂しさを抱えたまま、息を整えた。





王太子の寝所の卓上には、政務の書簡と粘土板が積まれていた。

アルシオンはそれらに目も通さず脇へ押しやり、手で額を覆う。


「……呼んだのは俺だ。王妃の命を“借りた”だけ。あの娘を駒として使うために……」


外交の圧力は現実で、正妃の空席は情熱で覆せない。政務を語れる相手が要る――理屈はそれで足りるはずだった。


だが理屈だけなら、もっと穏やかでいられる。拳が机縁を音もなく叩く。


「駒に過ぎぬはず、なぜだ……」


藍の目が灯を掬い、睫の影が揺れる。


剣ではなく、墨と言葉で後宮を支えようとする眼差し。

サフィアとは異なる形で、確かに責務の方角を向いていた。


……いつから、心が二つに割れていたのか――


近衛が音もなく膝をついた。


「殿下。すべて整っております」


アルシオンは短く頷く。抑えるつもりの声が、低く漏れた。


「……来るか、あの娘が」


呟きは闇に溶け、誰にも届かない。





回廊の灯が一つずつ点る。セレナは侍女に伴われ、静かな石畳を進んだ。


……姫として夜伽に呼ばれるのは名誉。だけど――まったく興味もなく、嫌々に伽われるのは……いやだなぁ。


自分では打算的に考えているくせに、相手に心を求めてしまう。


だって……殿下が苦手なんだもの。


そう思っていなければ、折れてしまいそうで。毛足の長い敷物に、足音は吸い込まれていった。


でも……今世の私は一国の姫。祖国の顔として、この場から逃げるわけにはいかない。


歩を進めるほど香は濃く、重い扉が近づく。

その向こうに王太子の寝所。


侍女が静かに膝をつき、取手へ指を添えた。


……殿下のお顔を、ちゃんと見られるかしら。


セレナは深く息を吸い、踏み出す。扉が低く軋み、香煙がふわりと流れ込んだ。


侍女に背を押されるように、一歩を進める。


……まさか、殿下の寝室に入る日が来るなんて。


入内まもなく「お飾りの正妃候補」と突きつけられて以来、呼ばれることはないと思っていた。だから、殿下を想うようなことは二度としない――そう誓っていた。


視線を落としたまま、歩は自然と小さくなる。油皿の炎が揺れ、卓上に残された書簡の影が壁に長く伸びていた。


部屋の奥、椅子に腰掛けるアルシオン。藍の視線が射抜いた瞬間、セレナの背筋は強張る。


「……」


声は出ない。絨毯の上に膝を折り、深く一礼した。


こんなに緊張するのは、久しぶり……。


瞼を伏せたまま息を詰める。返答を待つ時間は、やけに長かった。





アルシオンは椅子に深く腰をかけ、跪くセレナを見据えた。


伏せられた睫毛、こわばる肩の線。

隠しきれない緊張が、その姿勢から滲み出ている。


灯の明かりが絹の裾を撫で、淡い金糸がほのかに光を返した。

髪には真珠飾りがひとつだけ静かに光る。


セレナがわずかに動いた拍子に、清らかな香がふっと広がった。

その気配に触れたせいか、アルシオンの手が一瞬だけ止まった。


藍の瞳を細め、低く声を落とす。

「……顔を上げろ、セレナ」


おずおずと顔が上がる。

藍の視線が、真正面から彼女を捉えた。


セレナは息を呑む。


……明らかに嫌悪している顔ではない?


沈黙ののち、アルシオンは微かに眉を寄せた。


「……怖じているのか。だが、お前の目は逃げていないな」


冷たさを装った声音の底に、かすかな驚きが滲む。

セレナは瞼を伏せ、静かに一礼した。


「殿下にお呼びいただき、光栄に存じます」


「……礼は要らぬ。これは務めだ」


セレナは少し、顔を伏せる。

沈黙が、重く二人の間に落ちる。


「……セレナ。お前は“正妃”という座を、どう思う」


一瞬、セレナの膝の上の手が、ぴたりと止まった。


また、急に難題を言う……。


指先が、わずかに白くなる。


――正直に答えちゃお……どうせ、私になど関心はないのだから。


「……殿下。申し訳ございません。“正妃”は思案の途上で、いまここで定義を言い切れません」


言い終えた瞬間、部屋に静けさが落ちた。

セレナは床の模様をじっと見つめる。


……でも、もしこの人が私の言葉を拾ってくれたなら――


顔を上げ、まっすぐ見据えた。


「ですが……殿下を一途にお想いする方が正妃であれば、殿下はきっとお幸せになられると存じます。

 そして殿下の幸せはやがて民へ広がり、国を満たす――私は、そう信じております」


アルシオンは無言で見据えた。

言葉に収まらぬざわめきが、その奥で渦を巻く。


“殿下を一途に想う方が正妃”――

この娘は、俺の幸いを“国”へ渡すと言ったのだ。

駒として呼んだはずが……。


喉で言葉がつかえ、吐息だけがこぼれた。


「……お前は飾りを望まぬのだな」


……まったく、夜伽の空気じゃない。


セレナは静かに口を開いた。


「私は、殿下のお心を踏みにじってまで伽を求めようとは思いません」


藍の瞳がわずかに見開かれた。


……なんだと? するつもりはなかった。だが――勝手に退くのか?


胸の底を、細い苛立ちが走る。指が肘掛けを硬く叩いた。


「……勝手に決めるな。もうよい、下がれ」


セレナは深く一礼し、立ち上がった。


唇がかすかに震え、言葉にならなかった想いだけが胸に沈んだ。

胸の澱を抱えたまま、セレナは扉の向こうへ消えた。





自室に戻ると、リサが慌ただしく駆け寄り、深く頭を下げる。


「お帰りなさいませ、セレナ様……!」


心配に曇る瞳が、揺れる。


「……殿下とのお渡り、いかがでしたか?」


セレナは静かに首を振り、肩から外套を解いた。


「……何もなかったわ」


リサは目を丸くし、それから息を呑む。


「……そう、でございましたか」


セレナは寝台に腰を下ろし、鏡の中の自分を見つめた。

頬には紅が残っているのに、瞳の奥は冴えない。


一国の姫として、伽は務め。

いつかは向き合わなければならない――。

だけど……気持ちのない相手となんて、やっぱり嫌――!

 

セレナは、薄衣の裾を握りしめた。


「セレナ様……」


リサは声を落とし、そっと距離を保つ。


セレナの胸には、すでに揺るがぬものがあった。

祖国のためであっても、自分を失う選択だけはしない。


燭台の炎が静かに揺れ、

沈黙が、二人を包み込んだ。

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