第10話 矜持
三人は、後宮監の執務室の前に立った。
扉を叩くと、落ち着いた声が返る。
「入りなさい」
書き物机の前に、ナヴァリス・エフェンディがいた。
笑みだけを残して、こちらを見た。
「姫様……お忙しい身で、
わざわざ私のところへとは」
「後宮監。お忙しいところ申し訳ありません。
ですが――緊急事態です」
セレナは一歩踏み出し、隣の侍女を軽く促した。
袖が上がり、紫色の痣が顕になる。
「こちらの侍女が、正妃候補サーヒ様から
暴行を受けたと証言しました。
直ちに保護し、サーヒ様への処置をお求めします」
ナヴァリスは一瞬動きを止め、
それから机上の文書を軽く叩いた。
「姫様……後宮の秩序は繊細です。
事実確認のない裁断は、
最終的に“姫様ご自身の責”となりましょう」
セレナは、切り込むように言い切った。
「かまいません。
侍女を守ることも、正妃候補の務めですから」
ナヴァリスから笑みが引いた。
室内の空気が、わずかに沈む。
「……承知しました。まずは事情を聞きましょう。
姫様もご同席を」
小さな鐘が鳴り、宦官や書記官が入ってくる。
「この侍女を医務室へ。治療の後、
別棟の客間にて保護せよ」
侍女は振り返りながら連れられていく。
リサが小さく頷き、そっと侍女に寄り添った。
セレナは、その姿が扉の向こうに消えるまで見送った。
「……女官長にも処置をお願いします」
セレナは静かに言葉を継いだ。
「侍女が怪我を訴えても、
女官長はそれを黙殺しました。
女官長としての責を果たしていません」
セレナはじっとナヴァリスを見つめる。
逃げ道を与えない目だった。
ナヴァリスは、机上の文書を指先で端を揃える。
「……ご安心を。
処すべきものを、曖昧に終わらせるつもりはありません」
ナヴァリスは続けた。
「ただし――“順”があります。
今すぐの処遇は、いたしません」
セレナの眉が、わずかに動く。
「順、ですか……?」
「ええ。
証言を固め、医務の記録を押さえ、
誰の判断で、誰の黙認のもとに起きたことなのかを洗います。
女官長ひとりの独断なのか、
それとも“上”の意向があったのか――」
淡々とした口調で話す。
「責を曖昧にしたまま処せば、
これは不始末では済まず――派閥争いになります。
その火は、姫様にも及ぶ」
セレナは扇をわずかに握り直した。
「――すべてが揃ったうえで、
女官長には相応の処置を」
「……サーヒ様は?」
「名を出すには、刃が足りません。
証言ひとつで正妃候補を切れば、
後宮そのものが揺れます」
ナヴァリスは声を落とした。
「糸を引く者は、いずれ必ず、
自分の身を守るために糸を手放します」
視線を上げ、静かに言い切る。
「ですから――
まずは女官長からです。
その先は、私の役目になります」
断定的な声音だった。
「理屈はわかりますが……」
内に残る焦りを押さえ、
セレナは一度黙し、問いを投げる。
「後宮には、勤務中の怪我や病に対する
明確な救済の定めはあるのですか?」
「……規定はございますが、
必ずしも徹底されてはおりません」
「では、徹底してください。
後宮に仕える者が、
怪我を恐れず働けるように」
ナヴァリスは、指を組んだまま一拍置いた。
「……承知しました」
その短い返答を聞いて、
セレナは、そっと息を吐いた。
「……姫様」
ナヴァリスは手を組んだまま続ける。
「あなたは、ご自身の立場や安全よりも、
侍女を選ばれるのですね」
セレナは、はっとして顔を上げた。
「……なぜ、そこまでなさるのです?」
切れ長の瞳が、わずかに細められる。
「姫様。
そこまで身を削ってまで、なさる必要がございますか?」
セレナは扇の要を、指先でなぞった。
「それは……」
言葉が、途切れる。
遠い記憶が、思いがけず立ち上がった。
――悪魔祓いをしていた頃の私。
悪魔を通して、人の悪を知り、
悪魔祓いで、人の意地汚さを見た。
人を憎み、軽蔑した。
その感情を、否定しようともしなかった。
それでも神父たちは、
何も言わず、ただ信念に従って人を守り続けた。
誰に感謝されなくとも。
報われなくとも――
……そうだ。
私も、あの人たちに恥じない生き方をしたい。
いつしか、そう願うようになっていた。
セレナはゆっくりとナヴァリスを見据え、
苦笑を浮かべて答えた。
「自分に……幻滅したくないから、ですかね」
静かに答えた。
「見て見ぬふりをする自分を、
見たくないだけです」
鏡に映る自分を――嫌いになりたくない。
それだけ……。
ナヴァリスは、しばし何も言わなかった。
やがて、わずかに口角を緩める。
「……なるほど」
机に置いた指先が、静かにほどかれる。
「姫様。
それは、正妃候補である前に――
ひとりの“人”としての答えですな」
ナヴァリスは、ゆっくりと姿勢を正した。
「……覚えておきましょう。
その覚悟を」
◆
扉が静かに閉じられた。
その音が完全に消えるのを待ってから、
ナヴァリスは机上の書物に触れた。
「証言ひとつで正妃候補を切る。
それがどれほど愚かなことか……」
一人の侍女を守る代わりに、
後宮全体を敵に回す。
それは正義ではない。ただの無謀だ。
名を出せば、派閥が騒き、元老院が動く。
その先で、殿下の名が削られる。
姫様は、まだそこに立つべきではない。
――だが。
姫様は、一線を踏み越えられた。
しかも、感情では動かず、
守るために、制度に手を伸ばした。
派閥も名も、正義も掲げず、
ただ「当然あるべき形」を差し出す。
……あれは“反論しづらい”。
声高に誰かを責めれば敵が増える。
だが制度を整えれば、
敵は文句を言いにくくなる。
姫様はまだ気づいていないだろうが――
あの一言で、後宮の力関係は
静かに動き始めている。
ナヴァリスは、机上の書板を静かに伏せた。
「……厄介なお方だ」
◆
夜更けの執務室に、灯りがひとつ残っていた。
アルシオンは書簡から目を離さぬまま、手を組んだ。
「……遅いな」
独り言のような呟きに応えるように、
扉の外から足音が響いた。
「失礼いたします、殿下」
「入れ」
扉を押し開けて姿を現したのは、ラシードだった。
外套を脱ぎながら一礼し、静かに室内へと進む。
「後宮の件か」
アルシオンは顔を上げずに言った。
「はい。ルナワの姫君が動かれました」
その一言で、アルシオンの手が止まる。
「……何をした」
「侍女への暴行を巡り、
後宮監へ直訴なさいました。
正妃候補の名も――出ています」
アルシオンの眉が、わずかに動く。
「セレナが、そこまで踏み込んだか」
「ええ。感情に任せて、ではありません」
ラシードは歩み寄り、卓の端に立つ。
「個人を罰せよとは言わず、
『怪我を恐れず働ける仕組みを整えろ』と
要求なさいました」
ラシードは、わずかに言葉を切った。
「制度を、です」
アルシオンは、ようやく顔を上げた。
蒼い瞳が鋭く光る。
「……面倒なことを始めたな」
「はい。実に」
ラシードは肩をすくめる。
「派閥を正面から切らず、
しかし放置もせず、
逃げ道のない形で動かれました」
「それで?」
「後宮は、静かに揺れています。
声を上げる者はいませんが――
皆、様子を見ています」
アルシオンは椅子に深く腰を下ろし、
腕を組んだ。
「……セレナは、
自分が何をしているか分かっていると思うか」
「半分は。
残り半分は――
ご自身でも、まだ測りかねておられるでしょう」
「危ういな」
「はい。
ですが――」
ラシードは視線を真っすぐに上げる。
「愚かではありません」
沈黙が落ちる。
やがて、アルシオンは低く答えた。
「……そうか」
◆
執務室に残された静けさの中。
書簡を手に取っても、頭に入らない。
ラシードの報告が、離れなかった。
セレナは……
あの後宮で、異質な存在ではあった。
弱き者を守り、秩序を問いただす。
普通なら誰も踏み込まぬ領域に、
迷いなく足を入れている。
軽率なのか。
それとも確固たる意志によるものか――。
ただ、その一挙一動が、
空洞と化していた後宮に
確かなざわめきを呼び戻していた。
アルシオンは眉をひそめる。
だが、そこに浮かぶのは別の想いだった。
「……俺が隣に望むのは、サフィアだ」
たとえ後宮が荒れ果てようとも、
彼女が傍にいれば、それでよかった。
だからこそ、
王妃の政略を突っぱねてきたのだ。
――なのに。
ふと脳裏に浮かぶのは、
退かぬ、あの眼差し。
なぜ俺は……
あの眼差しを、切り離せない……?
サフィアは誠実で、
己のために身を投げ出す。
それ以上を望む理由など、
本来どこにもないはずだ。
それでも。
理性の奥に、
セレナの影が消えずに残る。
振り払おうとしても、
なお、離れなかった。
◆
灯火の影が、長机の上で揺れている。
硯を片付けたばかりのナヴァリスの前に、
ラシードが静かに入ってきた。
宰相は机の前に立ち、くす、と笑む。
「驚きますな。あの年若い娘が、
あれほどの胆力を見せるとは」
「胆力、というより愚直さです。
秩序より情を優先すれば、後宮の均衡を乱す」
「“見捨てられたと思わせる秩序”に、
誰が心から従います?」
ナヴァリスは羊皮紙を揃える。
「……形式としては、見捨ててはいません。
保護し、処分もした。
ただ――
派閥を壊すわけにはいかない」
宰相は顎髭を撫でながら、声を低める。
「皮肉なものですな。
処分の重さより、“誰が守ったか”が広まる。
侍女たちの心に残るのは、姫様の姿です」
ナヴァリスの手が止まる。
「……評判は、武器にも足枷にもなる」
「無論。しかし一歩踏み出した火は、もう消せません。
殿下も……“無視できぬもの”とは、ご認識でしょう」
「……あなたは、彼女を推すと?」
「推す? 私は流れを読むだけです。
沈む舟は、放っておいても沈む」
「……本当に、扱いづらい方だ」
「お褒めにあずかり光栄です」
宰相は立ち上がり、去り際に囁く。
「忘れぬことですな。
姫様は己が納得できぬ選択は、なさらぬお方だ。
ああいう者こそ、
予想外の場で均衡を破る」
灯火が揺れる。
残されたナヴァリスは眉間に手を当て、
沈静を旨とする思考の奥に、
消えぬざわめきを覚えていた。
◆
夕刻、軍営の訓練場の片隅。
木槍を磨いていた手を止め、気配に振り向けば――。
「……殿下」
背筋を伸ばす。
だが彼は、張りつめた空気を振り払うように、ふっと口元をゆるめた。
「お前に会いたかった」
唐突な一言に、心臓がひとつ跳ねた。
「また急にそんな事を……」
耳まで赤くなりながら顔を背ける。
「……私も、ですけど……」
すると手首を取られ、あっさりと距離を詰められた。
「槍より俺を見ろ」
「な、なんですかそれ!」
思わず噴き出す。
笑い声が混じると、肩の力も抜けていく。
アルシオンは、そんな彼女の頬に手を添えた。
真剣な眼差しに、先ほどの軽さはない。
「……覚悟は、揺らいでいないか」
静かな問い。
だが、サフィアはもう迷わなかった。
「はい。学ぶことも、身に付けることも、まだまだたくさんあります。
でも……私は、殿下の隣に立ちたい」
言いながら、自分でも驚くほど素直だった。
「武官としてじゃなく――
一人の女として。ずっと」
青い瞳がわずかに潤み、
次の瞬間、彼に強く抱き寄せられていた。
「……ありがとう。俺には、お前だけだ」
苦しいほどの抱擁なのに、不思議と心地いい。
頬が彼の胸板に押しつけられ、声がくぐもる。
「ちょ、苦しいです……」
「我慢しろ」
「バカ殿下!」
堪えきれず、二人して笑う。
さっきまでの重さなんて、どこかへ吹き飛んでしまったみたいに。
「殿下、槍と私、どっちが大事です?」
わざと拗ねて聞いてみる。
彼は一瞬、本気で考え込んでから、にやりと答えた。
「……お前が槍を振るう姿が一番大事だな」
「なっ……!」
真っ赤になって、拳で軽く彼の胸を叩く。
その仕草さえ愛おしそうに受け止められる。
……ずるい人。本当に。
夕暮れの光が二人を包み、
声にならない幸福が、いっぱいに満ちていた。




