第7話 自分の物語
第7話 自分の物語
保健室に静寂が戻っていた。
雪村くんの問いだけが、まだ胸の中に残っている。
その中で、僕は呼吸を思い出した。
雪村くんが出て行ってから、誰も口を開かない。時計の秒針だけが、規則正しく鳴っている。カーテンが窓の隙間から入る風に、静かに揺れた。
僕はまだ、自分の手を見ていた。
胸の奥に、まだ残っている。
男の孤独、恐怖——
自分のものではないはずの感情が、まだそこにある。
静かに、霧ヶ峰さんが声をかけてくれた。
「……まだ苦しい?」
頷くしかなかった。
霧ヶ峰さんは何も言わず、少し目を伏せた。
しばらくして檜山くんが、眼鏡を押し上げた。その仕草で、沈黙の終わりを確信する。
「穢れというのは——」
檜山くんが口を開く。
「人の負の感情が、形を持ったものです」
僕は、路地裏での会話を思い出す。
「怒り、悲しみ、嫉妬、後悔——誰の中にもある感情だよね……」
「そうです。それらが積み重なると、あなたが見たものになる」
路地裏での空気の重さ。人混みの気持ち悪さ。
それが全部……
「それを感じてしまうのは、あなたの才能です」
檜山くんは続ける。
「感じすぎてしまう……と、言った方が正確かもしれません」
胸の奥の澱みが、ふいに重くなった気がした。
「あなた自身が、穢れに引き寄せられているんですよ」
「僕が……穢れに引き寄せられている……」
「それがあなたの——力です」
その言葉で、足先から冷えていくのを感じた。
「真田くん、大丈夫? 顔が真っ青だよ……」
霧ヶ峰さんの声は遠く、僕の意識には届かない。
「僕は、どうすれば……」
「そのために、この学園があります」
檜山くんの声に少し力がこもる。
「だから——この学園に集められているんです」
「……集める?」
「保護、という意味もあります」
保護……僕は護られる対象だったのか。肩の力が抜けていく。
「なんか……監視されているみたいだね」
「もちろん、その側面も否定できません」
檜山くんは、わずかに間を置いた。
「あなたの才能は素晴らしい。それを潰してしまうのは……惜しいと思います」
雪村くんの言葉が蘇る。
——優しい監獄みたいなもんだな。
霧ヶ峰さんが、噛み締めるように呟いた。
「放っておくと、壊れちゃう人もいるから……」
その声には、知っている人間の実感が滲んでいた。
「みんなは……何をしているの?」
僕は聞かずにはいられなかった。
「穢れへの対処です」
檜山くんは淡々と答えてくれる。
「被害を受けた人の保護や祓い、様々です」
「それを、他の人たちは知ってるの?」
「いいえ……知っても、どうにもできませんから」
その言葉は冷たくはなかった。ただ、事実を言っていた。
そして——
「そのために、僕たちがいます」
檜山くんも霧ヶ峰さんも、僕をまっすぐ見ていた。その重さを、僕はまだ受け止めきれない。
「この学園も……私たちの組織も、みんなを護るためにあるわ」
霧ヶ峰さんの言葉が、ようやく意識まで届いた。
まだ意味は分からない。だけど、息をするのが少し楽になった。
しばらく沈黙が続いた。二人とも僕を待ってくれている。
口の中が乾いている。
それでも、答えを聞かずにはいられない。
「……怖くないの?」
僕はやっとの思いで口にすることができた。
二人は何も言わない。
わずかな沈黙。
その時——保健室のドアが開く。
そこには、雪村くんが立っていた。
紙パックのジュースを持って、何事もなかったように入ってくる。
二人にジュースを投げ、最後に僕へ差し出す。
「大祐、飲め」
それだけ言って、さっきのベッドに腰を下ろした。そして、紙パックにストローを刺しながら、言葉を放つ。
「怖ぇよ」
短い言葉が、保健室の沈黙を揺らした。
「……えっ?」
「痛ぇ時もあるし、面倒くせぇし……死ぬやつだっている」
雪村くんはジュースを一口飲んだ。
「お前だって、しんどかったろ?」
霧ヶ峰さんが小さく息を吐いた。檜山くんは窓の外に視線を向けている。
「けどな、みんな自分の物語を背負ってんだ」
雪村くんが、初めてこちらを向いた。
「だから、立っていられる」
その目は、真っ直ぐに僕から動かない。
「お前が決めることだ」
雪村くんがそっけなく言った。強制でも、命令でもない。
「今すぐ答えを出す必要はありませんよ」
檜山くんが続けた。
少し俯いていた霧ヶ峰さんが、ゆっくりと立ち上がる。
「でも……知っちゃったからね」
その声色は、どこか暖かい響きを持っていた。
保健室を出ると、廊下は随分と薄暗くなっていた。
窓の外には、まだ生徒たちの姿が見える。
笑い声が聞こえる。部活が終わり、友達と並んで歩く姿。
普通の学校に見えた。
ガラス一枚で隔てられた、見えているのに届かない世界。
だけど、今は……
二人組の女子生徒が、向こうから歩いてくる。お喋りに夢中で、笑顔が溢れている。
僕たちとすれ違った時、彼女たちの肩に、一瞬だけ黒い靄が視えた。
足が止まる。
息が詰まる。
靄はすぐに消え、何事もなかったように彼女たちは歩いていく。
僕だけが立ち止まっていた。
「大祐、帰るぞ」
雪村くんの声で、我に返る。廊下の先で三人が振り向いていた。
僕を待っている。
——ずっと、一人だった僕を。
三人の背中を追うように、僕は大きく足を踏み出した——




