第6話 放課後オーバーフロウ
第6話 放課後オーバーフロウ
目が覚めた瞬間、胸の奥が泣いていた——
白い天井、消毒液の匂い。
……保健室、なのか。
身体が重い。鉛でも詰め込まれたように、ベッドに沈んでいる。息を吸うたびに、肺の奥で何かが軋む。
明らかに、ただの疲労じゃない。
僕の内側が騒いでいる。
孤独。
恐怖。
縋るような執着。
壊してしまいたくなる衝動。
男から流れ込んできたものが、胸の奥に澱んでいる。僕のものではない感情が、ずっと居座っている。
(……出て行ってよ)
そう思っても消えない。
僕は身震いした。
「大丈夫? 真田くん……」
優しげな声が聞こえて、横を向いた。
霧ヶ峰さんが、ベッドの隣の椅子に座っている。膝の上に手を重ねて、心配そうにこちらをじっと見ていた。
その隣には、檜山くんが静かに座っていた。眼鏡の奥にある目が、僕を観察するように光る。
そして、二人の後ろのベッドに、雪村くんが寝転がっていた。
そこにいるだけで、その場所が中心になる。何をするでもなく、天井を見上げている。
「目が覚めましたか?」
檜山くんの穏やかな声。でも、今は少しだけ低い。
「……うん」
霧ヶ峰さんが、身を乗り出した。声がいつもより柔らかい。
「無理に起きなくていいんだよ」
だけど、僕は身体を起こす。頭が重く揺れた。
雪村くんは天井を見上げたまま動かない。
その代わりに、檜山くんが静かに口を開いた。
「まだ……残ってますね。あの男の感情が」
「……!」
なぜ、それを。顔に出ていたのか、檜山くんは小さく頷いた。
「そうだと思っていました」
檜山くんは、僕の方に向き直る。
「真田くん、一つ聞いてもいいですか?」
「な、何?」
「あの男に触れた時、何をしようとしていましたか?」
答えに詰まった。
手を伸ばしたのは、ほとんど無意識だ。それは止められなかった。
だが、その理由は……
「助けたかった……」
それは嘘じゃない。でも、檜山くんはそれで十分だというように、静かに息を吐いた。
「おそらく——」
眼鏡に指を添えながら、檜山くんは言う。
「真田くん、あなたは穢れを祓ったわけではない」
「……え?」
「受け取ったんですよ、あの男の感情を」
受け取った——
胸の奥にある澱んだものが、現実的な響きを持つ。
「感情を受け取り、男から穢れを引き剥がした。結果として祓いになっていますが……」
檜山くんは続ける。
「雪村は穢れを消し、あなたは受け取る。根本から違うんです」
自分の中の他人の存在が、確かに脈打っている。
「穢れの根にある感情に触れ、あなたは引き受けた。だから男の苦しみは消えた……いえ、移った」
頭で理解するより先に、胸の痛みが証明している。そして、檜山くんは口に出して、僕に突きつけた。
「それは……治癒に近い」
その言葉を聞いた瞬間、身体が強張った。
霧ヶ峰さんの表情が曇る。
檜山くんが僕の反応を見ていた。何かに気づいたのか、目を細める。
「……心当たりがありますね?」
僕自身が触れられたくない心の隙間。
それは、忘れられない記憶——
言葉にするほど、過去が鮮明になる。
転んで膝を擦りむいた友達。
血を流して泣いていた。痛そうで、見ていられなくて、手を伸ばした。
次の日、その友達は僕を避けるようになった……
風邪で高熱を出した友達。
苦しそうで、どうしていいか分からなくて、また手を伸ばした。
次の日から、口を聞いてもらえなくなった……
僕にとっては普通のことが……特別だった。
何度も同じことを繰り返し、ようやく理解できた。
僕は普通じゃない——
「化け物だ」と言う人もいた。
——それは、最初の記憶。
まだ幼かった頃に出会った、小さくて真っ白な子犬。捨てられた命。
僕と一緒……そう思った。
車道に飛び出して、目の前で吹き飛ばされた命。
頭が真っ白になる。
泣きながら抱きしめた。感じる温もりが、どんどん失われていく。
僕はそれに耐えられない。
死なないで……それだけを祈った。僕の手のひらが熱を帯びる。
そして——
消えかけていた小さな命は、僕の手の温度を選んだ。
僕はその子犬に、名前を付けた。
——ローラ。
助けた命——それに救われたのは自分だった。
だけど……
命を失う運命だった子犬。助けた少年。そこにいた人たちの目が、僕から離れなかった。
噂はすぐに広まる。それが転校を繰り返す理由になった。
ただ助けたかった。でも助ける度に、何かを失う。
「……治るんだ。触れれば、時間を巻き戻すように……」
声が詰まる。
「だけど……もう誰にも言えなくなった……」
僕は次の言葉を紡ぐことが出来なくなった。
檜山くんは何も言わない。ただ耳を傾けている。
霧ヶ峰さんは、微笑んでいる。
「……優しい力だね」
その一言で、胸の奥が震えた。
その時、雪村くんが口を開いた。
「なるほどな」
天井を見たまま、ポツリと言う。
「お前は、昔から人の痛みを拾ってきたんだな」
「……僕は、助けたかっただけだよ……」
「それでいい」
「けど……怖いんだ……あの視線が」
雪村くんは、まだ天井を見ている。こちらを向かない。だけど、声だけが、真っ直ぐに届く。
「……治したいなら、強くなれ」
雪村くんが立ち上がり、ドアに向かった。振り返りはしない。
でも、ドアを開ける直前、一瞬だけ止まった。
「お前が助けたかったのは、何だ?」
僕への問いかけだけ残して、雪村くんは出ていった。
自分の手を見た。
小さい頃に、子犬に触れた手。
友達を治した手。
今日、あの男に伸ばした手——
同じ手だ。
力を使う度に、何かを失ってきた。
友達を、居場所を。普通でいられる場所を——
窓の外、夕暮れの光が保健室の床を赤く染める。その色は、彼が放つ炎に似ていると思った。
それでも、この手を止めたくない。
僕が助けたかったのは——




