第6話 放課後オーバーフロウ
06.放課後オーバーフロウ
その瞬間——雪村くんの目が変わった。
普段の軽い笑顔がすっと消え、底の見えない深い静けさだけがそこに残る。
「……恭介、桜。俺がいく」
「はい」と2人の声が重なる。
僕は理解した。さっきまでの穏やかな放課後とは違う。これから何かが起こる。
なぜなら——
僕には見えている。
男から黒い靄のようなものが漂っているのが見える。僕を悩ませる誰にも言えない秘密。それが何なのか分からず、この靄のせいでずっと苦しんできた。
靄に近づくと気分が悪くなる。見えているだけでも嫌な気持ちになる。みんなには見えているのだろうか?
ただの直感だが、この3人はただの中学生じゃないと思う。いや、そう思いたい。だれとも分かち合えなかった秘密を、ようやく吐き出せるかもしれない。心臓が静かに跳ね、耳の奥で、微かな脈動が響く。
あたりの空気が、急に冷たくなった気がした。
路地裏で言い争う二人の声は、まるで風が荒ぶる前の前兆のように激しさを増してきた。
「だからもうやめてって言ってるでしょ……っ!!」
「やめられるわけねぇだろ!?お前は俺じゃなきゃ駄目なんだ!!他の奴なんか絶対認めねぇ!!」
女子高生の手首をつかむ男の力は明らかに強すぎた。彼女の肌が痛々しく赤くなっている。
その様子を見た瞬間——
男のまわりを漂っている黒い靄が、急激に濃くなった。
(……こんなに濃くなるのか……?)
僕は息を呑む。
これまでにも靄を見たことはあった。街中で、人混みで、学校で。けれど――ここまで濃いものは初めてだ。
黒というより、沼の底から這い上がってきたような、重く濁った色。生臭い何かを予感させる。胸の奥がぎゅっと締め付けられ、呼吸が浅くなる。
(気持ち悪い……)
本能が警告している。あれには触れてはいけない、と。
そんな僕とは対照的に、雪村くんはいつも通りの軽い足取りで前へ進んだ。
「おい、やめとけ」
静かで、それなのに驚くほどよく通る声。まるでそこに立つだけで空気が切り替わるような感覚があった。
男がすごい勢いで振り返る。
「……は?なんだてめぇ」
「それ以上やったら、マジで後悔することになるぞ」
声は淡々としている。怒鳴るわけでも、脅すわけでもない。
ただ静かに、事実を述べているだけ——なのに、その言葉には奇妙な迫力があった。
「はぁ!?てめぇに何が分かんだよ、このクソガキがぁ!関係ねぇだろ!?」
男の声が荒れ、黒い靄がまた少し大きくなった。
(まずい……本当にまずい……)
僕の胸が早鐘を打つ。
雪村くんは動きを止めず、男のすぐ目の前まで近づいた。その歩みは教室内を軽やかに進むときと何ら変わらない、自然体そのものだった。
「その子、嫌がってるだろ。それに女に暴力を振るう男はホントのクソ野郎だぞ」
女子高生は震える声で言った。
「も、もういい……やめて……!」
「お前は黙ってろよッ!!」
男が女子高生へ腕を振り上げた、その瞬間——
空気が凍りついた。目を背けたくなる場面を前にして、背中にぞわりと鳥肌が立つ。だが僕が想像していたような結末にはならなかった。
「ストップ」
その言葉は軽い。けれど、そこに込められた圧は尋常じゃなかった。
雪村くんの右手が、男の振りかぶった腕を軽く掴む。本当に軽く。子どものじゃれ合いを止めるみたいに、まるで力が入っていないようだ。
しかし——男の腕はそこから一ミリも動かなくなった。
「なっ……」
男の顔がみるみる青ざめていく。
「やめろって言ったよな?」
雪村くんは、にこりともせず、ただ静かに言った。
普段の軽薄さは消え、そこには別人が立っているようだった。怒りでもなく、殺気でもなく——ただ、動かない意志だけがあった。
「離せよッ!!」
男は無理やり腕を振りほどこうとし、そのまま雪村くんへ殴りかかる。
(やばい!雪村くん!!)
僕が声を出すより早く——
雪村くんの体が、風に揺れる草のように僅かに傾いた。男の拳が虚しく空を切る。
そしてそのまま男の胸を軽く押した。まるで風を押すような、そんな触れ方。
それだけで——
男の身体は後ろに吹き飛んで、尻もちをついた。
「……っ、なんだ……こいつ……!」
体は無事のようだが、震えながら雪村くんを見上げている。恐れの色が明らかだ。
男が吹き飛ばされたと同時に、黒い靄のようなものもいつのまにか消えている。
雪村くんはポケットに手を入れ、肩をすくめながら言った。
「いいから帰れ。これ以上やると——戻れなくなるぞ」
どこまでも口調は穏やかだが、その言葉には何かを見通している深い色が滲む。
僕は悟った。
(……この人は、本当にただの中学生じゃない)
寒気と、安心感と、憧れにも似た何かが胸の奥に広がる。
「テメェ、次会ったらおぼえてろ!」と見本のような台詞を残して、男は路地裏を出て行った。
「あ、ありがとう……」と、女子高生が小さく息をつき、震える声で言った。
恐怖から解放されて、安心した様な表情を見せる。けれどその目は、まだ少し震えていた。
「お姉さん、大丈夫?可愛いんだから、気をつけなよ」
雪村くんの言葉に、女子高生は少しだけ微笑みながら「……ありがとう」と再びつぶやいた。




