第28話 小さなてのひら
28.小さなてのひら
防衛省特別事象防衛対策局——特事の訓練室は静かだった。
壁一面が白く、床には薄く文字が刻まれている。空気はどこか張り詰めていて、呼吸を意識しないと浅くなる。
百合さんは、五寸釘を持ち中央に立っている。
「……無理。これ、ホントに無理!」
ぽつりと零れた声は、思った以上に弱々しかった。
「昨日よりは、ずいぶん安定してるわよ」
端の方で腕を組んでいたはるかさんが、淡々と告げる。
「……昨日できたからって、今日もできるとは限らないじゃん」
百合さんは、胸の前で自分の手を見つめた。指先が、わずかに震えている。
穢れは見える。感じる。引き寄せられる。だが、制御するとなると話は別だ。そのため、最近は毎日のように百合さんは訓練している。
「勝手にきちゃうし。うちは呼んでないのにー」
百合さんの足元に、穢れがにじむ。床の文字が、淡く光ってそれを抑え込んだ。
「それは、あなたの感受性が高いからよ」
「それ、褒めてないよね?」
「どちらでもいいわ。事実よ」
百合は、むすっとした顔で息を吐いた。
「あなたの能力は影響が大きいわ、ちゃんと制御して」
「わかってるし!」
確かに百合さんの能力は凄まじい。ところ構わず落雷されたら、たまらない。
「祓うのも、出すのも……難しすぎ。ダーリンが平気でやってるの意味わかんないよ……」
壁際で見守っていた雪村くんは、肩をすくめる。
「普通のことだろ?」
「……さすが、うちのダーリンだわ」
「あなたは特別よ」はるかさんが突っ込む。
百合さんは、五寸釘を両手を握りしめて目を閉じた。
「……もう一回やる」
床の文字が反応する。穢れが百合さんの周囲に集まってくる。彼女は、すぐに祓おうとしなかった。逃げも拒否もしない。
「……落ち着け……大丈夫……」
声が、少しだけ震える。
やがて、彼女の周りにいくつもの小さな光が現れた。そして、光の塊から雷が疾る。
その瞬間——穢れが霧散した。完全ではない。だが、暴走もしなかった。穢れが収まると同時に、五寸釘も霧のように消えていた。
光が消えると百合さんは、へなへなとその場に座り込む。
「……しんど……」
「今のは、合格点ね」
「マジで? うち的には赤点だけど」
「それでいいのよ」
はるかさんは、少しだけ表情を緩めた。
「自分を過信しないのは、長く生き残る才能ね」
百合さんは、その言葉を噛みしめるように黙った。
「おつかれさま」
僕は訓練を終えた百合さんに、言葉と飲み物を渡す。
「ありがと、大ちゃん!」
額の汗を拭いながら、百合さんは笑顔で受け取ってくれた。
「ところで百合、おまえのSBに名前は付けたのか?」
「まだだよ……やっぱ、それ必要?」
「あった方がいい、結び付きが強くなる」
「ダーリンがそう言うなら、そうなんだね!」と言いながら、雪村くんに抱き着く。
今日、桜さんがここにいなくて良かった。百合さんの行動はますます激しさを増している。その様子を見かねたのか、はるかさんが口をはさむ。
「言霊ってやつよ」
「言霊?」
「口にすることにより、強く認識できる」
「ふーん……何となく、わかるかも」
今日の訓練はお開きとなり、雪村くんと恭介くんは特事に残るらしい。百合さんも残りたいと駄々をこねたが、帰れと言われしぶしぶ帰途につく。僕も一緒に帰ることにした。
夕方の空は、まだ明るかった。特事を出てしばらく歩くと、街はいつもの顔を取り戻す。スーパーの前を通り過ぎ、住宅街に入る。僕らは並んで歩いていた。
「大ちゃん……今日さ」
「うん?」
「訓練、全然できてないような気がしたんだよね……」
「そんなことないよ」
僕は今日の様子を思い出しながら、少し考えてから続ける。正直に言って、僕からみたら百合さんのコントロールはちゃんとできているように感じる。
「ちゃんと抑えてたよ。前より、ずっと」
「……前より、って言われるのが一番きついんだよね……」
「なんで?」
「成長してるってことは……前の自分がダメってことじゃん」
百合さんは、視線を落としたまま歩く。意外だった。いつも明るい彼女の、素の部分に触れている気がした。
「ダメじゃないと思うよ」熟考して僕は言った。
「……じゃあ、何?」
「知らなかっただけだと思う」
百合さんは、少しだけ顔を上げた。僕は彼女の目をまっすぐに見た。本気でそう思っているという気持ちを込めて。
その時、百合さんがふと視線を外した。
その視線を辿ると、路地の角で小さな男の子がしゃがみ込んでいるのが見えた。ランドセルを抱え、膝を擦りむいて泣いている。
そして——僅かだが、男の子の背中から穢れが出ている。
ほんの、かすかなもの。痛みと、不安と、怖さが混ざった薄い靄。
「……出てる」
百合さんが、足を止める。
「大ちゃん」
「うん、見えてる」
僕たちは、ゆっくり近づいた。
「だいじょーぶ?」百合さんが優しく声をかける。
「……いたい……」
百合さんは、しゃがみ込んで目線を合わせる。
「ちょっとだけ、じっとしてて」
彼女は深く息を吸った。両腕で男の子を包み込むように抱きしめ、穢れを覆う。穏やかな表情で静かに。
「……大丈夫だよ」
「……うん」
「痛みも、ちゃんと消えるから」
そう言って、穢れを撫でるように祓った。穢れは、すぐに霧散した。
「さぁ、大ちゃん。よろしくね」
「うん、まかせて」
次は僕の番だ。いつものように手のひらに意識を集中し、男の子の膝に手をかざした。
すると——男の子は、きょとんとした顔で涙を止めた。
「あれ……いたくない」
「よかったね」
百合さんは優しい笑顔だ。そのままの表情で問いかける。
「おうち、もうすぐ?」
「うん!」
「ひとりで帰れるの?」
「大丈夫だよ、お姉ちゃん」
百合さんは立ち上がり、手を伸ばす。男の子も、その手を掴んで立ち上がった。
「ありがとう、お姉ちゃんたち!」
無垢な笑顔で言った。僕たちは、手を振りながら男の子が走っていくのを見送る。嬉しそうな姿をみて、心が温かくなった。
百合さんも笑顔で手を振っていたが、男の子の姿が見えなくなった瞬間——彼女の手が震えだした。
「……っ」
百合さんは、自分の手を見つめる。指先の震えが止まらない。
「……怖かった」
声が素直だった。これもまた百合さんの正直な気持ちなのだろう。
「できていたのに?」
「できるからだよ……」
百合さんは、苦笑した。悲しそうな笑顔に見えた。
「ちゃんと見えたし、感じたし……失敗したら、って考えたら……」
大祐は、少し間を置いて言う。慰めではない、本心を伝えようと思った。
「それ、普通だと思う」
「……そ?」
「うん。怖くなくなったら……危ないよ」
百合さんは、安心したようにゆっくり息を吐いた。
「成長したらさ、不安も消えると思ってた」
「たぶん……消えないよ。それだけの力だからね」
「……やっぱり」
「でも、抱えたまま、進めるようにはなるんじゃないかな?」
百合さんは、しばらく黙っていた。やがて、小さく笑う。
「……それなら、まぁ……いいか」
まだ震える手を、ぎゅっと握りしめる。突然得た大きな力、不安があって当然だろう。僕も自分の力を持て余した。
「あんな、小さなてのひら……護ってあげないとね」
「うん……そうだね!」
あんなに強いと思っていた百合さんの本心を知り、僕は彼女との距離が近くなったような気がした。怖くなったら、辛くなったら、仲間に頼ればいい。そんな当たり前のことを、僕は嬉しく思った。
「そういえば、うちの五寸釘ちゃんの名前決めたよ」
「えっ、何にしたの?」
僕は期待しながら、その答えを待つ。すると——
「ラブニードル!」
「……へっ?」僕は瞬時に反応できなかった。
「どう? かわいいでしょー」
「う、うん……百合さんらしいよ」
夕焼けの中、僕たちはまた歩き出した。彼女のおかげで、僕たちは笑顔だ。
もう百合さんの手は震えていない。だが怖さは残る。
それでも——僕たちは前に進む。




