第26話 ダーリン
26.ダーリン
全ての穢れが消え去った。もう、この空間には人に害を成すものは何もない。
先ほどまで、確かにここには濃密な悪意が渦巻いていた。息を吸うだけで胸が重くなるほどの、あの不快な感覚。だが今は、それが嘘だったかのように静かだ。
穢場封界が役目を終える。歪んだ床が、割れていたガラスが、天井すら自然な状態に戻っていた。
「……現実なんて、こうしてあっさり書き換えられるんですよ」
恭介くんが、眼鏡を直しながら呟く。その声には何の感情もなく、ただ事実を述べただけの響きしかなかった。
ほどなくして、ビルの外から足音が増える。規則正しい足取り。迷いのない動線。特事の人たちが入ってくると、空間の空気がまた変わった。彼らは武装はしていないが、その佇まいには、現場を制圧するだけの慣れがあった。
「穢れの痕跡は無いな」
「監視用カメラ、回収完了」
「目撃者、全員意識不明状態。搬送します」
短いやりとりにプロの仕事を見た。まるで災害現場の後処理のようだ。こうやって、雪村くんたちのフォローを、裏で行ってくれていたんだと感心した。
その中心にいたのは、綾瀬川さんだった。スーツの袖を軽くまくり、タブレット端末に目を落としている。現場を見回す視線は鋭いが、決して冷たいわけではない。
「……ずいぶん派手にやったわね」
そう言いながらも、少し笑っている。責める色もない。
「今回暴れたのは桜だぜ」雪村くんも笑いながら、軽い口調で返す。
「まったく……あなたは」
綾瀬川さんは小さく息を吐いて、また笑った。そのやり取りから、長い付き合いを改めて感じた。信頼しているからこそ、余計な言葉はいらない——そんな距離感。
綾瀬川さんの視線が、ふと僕に向いた。
「大祐くんも大丈夫だった?」
「は、はい」
呼ばれただけなのに、背筋が伸びる。
「今回あなたの力で、百合さんは救われたと思うわ」
「綾瀬川さん、僕は……」
「ふふ、綾瀬川さんは止めて。はるかでいいわ」と微笑みながら言う。
「はい……はるかさん、僕は傷を治しただけです」
ぎこちなく話す僕に、はるかさんは軽く首を振った。
「謙遜はいいわ。事実を言っているだけよ。あなたは百合さんを救った。あなたにしか出来ない事ね」
「あ、ありがとうございます」
その言葉は、僕の胸に深く染み込んだ。緊張も、少しずつほどけていく。
「百合は?」雪村くんが、短く聞く。
「医療班が付き添ってる。外傷は問題なし。精神的なショックはあるでしょう……そっちが問題ね」
「百合は強いぜ、大丈夫だ……ひなのは?」
「ひとまず一日の検査入院をさせる。A.Vを常用していたわけじゃないなら、後遺症も出ないと思うわ」
その言葉を聞いた瞬間、ようやく現実に足が着いた気がした。
「ほかの男たちは?」
「特事で一時収容ね」はるかさんは、迷いなく言い切る。
僕はずっと気になっていたことを聞いてみることにする。
「彼らは警察に捕まらないんですか?」
「A.Vに関しては、まだ法律が追いついてないの。だから警察じゃ手が出せない」
「だから、特事で収容なんですね……」
「ええ、嫌な役目だけど、必要な事よ」
はるかさんは少し、目を伏せた。
「この件は氷山の一角。A.Vの流通は確実に広がってるわ」
「元締めは?」
「まだ……何も。煉くんからも報告は無い。けど、必ず尻尾を掴むわ」
雪村くんは、それ以上踏み込まなかった。
「任せる」
「ええ、あなたは——」
一瞬、言葉を選ぶような間があった。
「……あの子たちを、日常に戻してあげて」
その言葉は、命令ではなく、託すような響きだった……
あれから二日間、百合さんは学校に来なかった……
しかし、その次の日にはひなのさんと共に、元気な顔を僕たちに見せてくれた。その元気な様子に安心する。
ひなのさんは、あの日より少し痩せたように見えたが、すっきりとした顔をしている。二人が普通に話しているのを見るのは初めてだが、互いを信頼している様に感じる。あの日のことが二人の絆を強めたのかもしれない。
お互いに言いたいことを言って、それでも友達のままでいることができるのは凄いと思う。人生でそんな相手に何度出会うことができるだろう。
大変だったが、平和な日常が戻ってきた——
今日、百合さんは昼休みも、そして放課後も僕たちの教室にやってきた。
「やっほー、みんな。もう帰るところ?」
「百合。お前、今日何回目だ?」
「何回でもいいじゃん! みんなに会いたいんだよ……」
二人のいつものやり取り。そこに恭介くんも参加する。
「百合さん、一日過ごしてみて、体調はどうですか?」
「うん、大丈夫だよ! きょーちゃん、ありがと! つーか、きょーちゃんのあの能力すごいよね」
本当によく口が回る。元気そうで、なおさら安心した。
「まぁ、百合さんは少し元気が無い位の方がいいかもね」
珍しく、桜さんが意地悪な言い方をした。
百合さんはそれに応えず、桜さんをニヤニヤしながら見つめている。
「な、なによ……その顔?」
「うち知ってるよ」ニヤニヤ顔のまま、百合さんは言う。
「え……なにを?」
彼女は満面の笑顔で、桜さんに告げた。
「あの時うちのこと、友達だって言ったよね?」
「——!」
「ちゃんと聞こえてたんだよー」
「あれは……その……」
真っ赤になって、慌てふためく桜さん。そんな彼女を見るのも珍しい。その様子を眺めながら、微笑む百合さん。今日はとてもいい日だ。
ふと、百合さんは真顔になる。
「うちね、めっちゃ嬉しかったんだ」
「……そう」
「大事なんだって、気付いたの——桜のこと!」
「——え」
百合さんが桜と呼んだ。それは、頑なに拒んできた手を、自ら掴んだ瞬間だった。百合さんはちゃんと変わっていた。進もうとしている。
「私だって……そう思ってるわ」
「うん、ありがと!」
「だから……」
桜さんは、少しだけ言葉に詰まる。だが、それは一瞬だった。
「だから……もっと頼ってね——百合」
二人の気持ちが通じ合ったと思えた。過ごした時間はまだ少ないが、そんな事は関係ない。突然始まることもある。
「うん! ごめんね、桜!」百合さんはもう一度、確かめる様に彼女の名前を呼ぶ。
「美しいですね」
恭介くんですら、この感想だ。僕は笑ってしまった。
「それでね、桜」
「何?」
「これからは……ライバルとしてよろしく!」
「……は?」
ほのぼのした空気が一気に冷えた。本当に百合さんは読めない。
「さ、ゆっきーたちも帰ろ!」
「ちょっと、待って!どういう……」
「あははー」
「待ちなさい、百合!」
百合さんは笑いながら教室を出ていく。桜さんがそれを追いかける。
「僕らも、行こうか?」
「だな」
「えぇ」
狛人くんは「今日はまた、一段と元気だね」と呟いた。彼はいつも的をえた事を口にする。周りをよく見ていると感心する。
「そうだね!」
僕はそう応えて、雪村くんたちを追いかけた。
みんなに校舎の入り口で追いついた。百合さんはひなのさんと帰るらしい。桜さんに問い詰められているが、百合さんは軽やかに笑い飛ばしている。
やがて……桜さんも諦めたようだ。何となくみんなで二人を見送るような形になる。
百合さんが、雪村くんに振り向いた。
「ね、ゆっきー」
「あ?」雪村くんの気の抜けた返事。
「これからは、ゆっきーじゃなくて——ダーリンって呼んでいい?」
「……は?」
「ゆ、百合ー!」と桜さんが反応する。
またもや、桜さんを煽る様な事を口にした彼女は、笑顔のまま走っていく。ひなのさんも笑っている。
「まったく……好きにしろよー」
雪村くんは、大きな声で彼女の背中に声をかける。
「雪村さんまで!」桜さんの顔はもう真っ赤っかだ。
少し離れたところで、百合さんは再び振り向いた。さっきよりも少し真剣な表情だ。
そして——
「ねえ、聞いて!うちは……ダーリンのことが——」
「まさか……」
百合さんは、大きな声で叫ぶ。
「ダーリンのことが——」
「百合!」
彼女は一度、大きく息を吸う。
「大、大、大っ好きだよー!」
「あぁ……もうっ」
周りに人がいるのも気にせず愛を叫ぶ。桜さんの呟きは空に溶けていった。
「ダーリンは——うちの王子様だったんだよーーーー」
「ははっ、ホントおもしれー女だな」
「やれやれ……」
「うぅ、百ー合ー!」
雪村くんは爆笑し、恭介くんはため息。桜さんは怒り、僕は笑う。こんな日々が続けばいいと思う。きっと百合さんも同じ気持ちだ。
——だって、並んで歩く二人の背中は、あんなにも喜びに満ちているのだから。




