第20話 LOVE FOOLISH
20.LOVE FOOLISH
防衛省特別事象防衛対策局——通称、特事のビルを出てから、駅へ向かうまで、街は明るいのに、胸の奥だけが暗かった。
頭では「今日はもう帰るだけだ」と分かっているのに、気持ちがざわついて仕方がない。
理由は、すぐに分かった。
「……百合さん」
少し先、人の流れの中。見慣れた後ろ姿があった。百合さんは、数人の男女と一緒に歩いていた。横顔が見えた瞬間、いつもより濃い化粧をしていることに気付いた。でも、間違いない。四人全員が同時に足を緩めている。
「なんだ、あの頭の悪そうな連中は」雪村くんの声は低かった。
「……それは、わからないよ」
「友達……というには、距離感が遠い感じがしますね」
「百合さん、浮かない顔してるわ」
何だか百合さんには似合わない。ただの通りすがりで終わらせたくない気分だ。距離を空けたまま、僕たちは後をつけた。追う、というより、見失わないように。
繁華街に入ると、入ってくる情報が一気に増える。光と音が増えるほど、感情だけが薄く濁っていく。それほど遅い時間でもないのに、呼び込みの声、笑い声、音楽。人の感情が、雑に混ざり合っている感じがした。化粧のせいで年上に見える。だから余計に嫌な予感がした。
百合さんたちの集団は、自然と目立っている。しばらく観察していて気付いたが、百合さんは常に隣にいる女の子のことを気にしているようだ。同じ年頃のフワフワした感じの女の子。
「雪村くん、百合さんの隣……あの子知ってる?」
「あぁ、百合の親友のひなの……三崎ひなのだ」
さすが雪村くん、即答だった。
百合さんの隣にひなのさん。そして、その隣にはひなのさんの彼氏らしい男。年は多分僕たちより少し上。髪は派手で、声が大きい。ひなのさんの肩を、ずっと抱きながら歩いている。見ているだけで、少し不快になる。
「ひなのー、今日どこ行く?」
「いいじゃん、それ!」
男の声だけは、この雑踏の中でも拾える。声がデカくて距離感が近い、僕の苦手なタイプだ。
男はしきりに話しかけていて、ひなのさんはよく笑っている。
——ふいに、百合さんの足が止まった。
「ひなの」
呼び止める声は僕らまで届いた。そして、少しひなのさんと、言い争いをしているようだ。「必要ある」とか「心配だから」とか聞こえる。
彼氏が、割って入ってきた。
「平気平気ー、カタイこと言いっこ無し!」
「ひなのを行かせたくない」
百合さんが、はっきり言った。空気が止まる。ひなのさんが、百合さんをじっと見つめている。表情までは分からないが、怒っているように感じた。
「さすがに、これじゃ何もわかんねぇな」
「もう少し近くに行く?」
何かが起こりそうで、その始まりを見逃したくない。けど、方法が思いつかない。途方に暮れていた僕を、恭介くんが手で制した。
「大丈夫ですよ。私に任せてください」
そういうと恭介くんは、集中するためか目を閉じていった。
「発現しなさい——くだぎつね」
以前とは違い、あの短剣は出していないが、また恭介くんの背後が歪み始めた。ただ、あの呼吸することも許されないような圧がない。ほどなくして背後に亀裂が入る。割れた空間から現れたのは、なんとも可愛い、小さくて細いきつねだった。しかも二匹も。
「きゃーー、可愛い!」
誰よりも先に反応したのは桜さんだった。目を輝かせながら、くだぎつね達を撫でている。それには触れず、恭介くんは動じずに説明をしてくれた。
「この子たちがいれば、あちらの会話も拾えます」
「そんな便利な召喚があるなら、さっさと出せよ」
「あまり、人に知られたくない能力ですので……それに長くは持ちません」
「……とりあえず、やってくれ」
恭介くんは片方のきつねに「行け」と命令した。きつねが足場のない空中を走っていく。
「桜さんは、その子を抱いてください。それから……」
「分かったわ!」満面の笑みで抱き抱える。
「……それから、小さな窓みたいな穢場を、我々の見やすい位置に転界して下さい」
「——こうね」
極小の穢場が僕たちの目の前に広がった。
「……百合」
「なに」
「そんな言い方しなくても……よくない?」
まるで半透明の液晶画面で、動画を見ているように、向こうのきつねが見ている世界を映し出した。恭介くんは何でもありだ。とりあえず集中することにする。
ひなのさんの声は、少し苛立っていた。
「せっかく楽しいのに」
「楽しいかどうかと、正しいかどうかは別」
「……またそれ」
ひなのさんは、目を伏せた。
「百合って、いつもそう」
「そうだよ。間違ってるって思ったら……うちは言うよ」
彼氏が、笑いながら百合さんを見る。
「ひなのは俺と来てるんだよ?」
「だから?」
「だから、あんたは関係ないでしょ」
その言葉に、百合さんの表情が少しだけ強張った。
「……関係あるし」
「なんで?」
「友達だから」
きっぱりとした答えだった。男は肩をすくめる。
「友達ねぇ」
「バカにしてるの?」
「別にそういうつもりじゃないって」
ひなのさんが、百合さんの袖を引いた。
「百合……もういいから」
「よくない」
「私は行くから」
その言葉に、百合さんは言葉を失った。
「……ひなの」
「大丈夫だから……もっと一緒にいたいの」
ひなのさんは、それだけ言って歩き出す。その後から彼氏と、その友達数人が続く。百合さんは、その場に一瞬立ち尽くしてから、深く息を吐いた。
「……ちょっと待って」
そう言って、後を追う。その小さな背中に悲しみを乗せて。
「百合さん、行かせたくない……」
僕の隣で、桜さんが小さく呟いた。
「それでも、彼女は行くんですね」
「……百合はそういうやつだ」
しばらく歩いて、集団は一つのビルの前で立ち止まった。雑居ビル。古くて、看板も目立たない。入り口には何もない。
——BAR。
「ここだ、ひなの……入れよ」
男が言うと、ひなのさんは一瞬だけ不安そうな顔をした。だけど彼氏と一緒にいたい気持ちが強そうなので、明らかに迷っている。それを、百合さんは見逃さなかった。
「……やめとこ。今からでも」
「百合、もう来ちゃったし」
「来たからって、入る必要はないよ」
「大丈夫だって!」
ひなのさんは少し強めに言った。百合さんは唇を噛んだ。どちらも意地になっているとしか思えない。百合さんの指が、ひなのさんの袖を掴みかけて離れた。
「……分かった」
「百合?」
「——うちも行く」
「別に……いいけど」彼氏が、面倒そうに言う。
「嫌なことあったら、すぐ出るから」
「はいはい」
百合さんは、ひなのさんの隣に立った。まるで、壁になるみたいに。集団が、ビルの中へ入っていく。
僕たちは、少し離れた場所で立ち止まった。
百合さんが、ふいに振り返る。そして、穢場の画面越しにこちらをじっと見ている。気付いているのだろうか。いや、くだぎつねが見えてないので、そんなはずはない。
でも、その表情は——決意した人の顔だった。そんなに長い時間ではないはずだが、見つめられていた時間はとても長く感じた。そして——
扉が閉まる。音楽だけが、外に漏れてきた。
「……帰るぞ」
「えっ、だ、大丈夫なの?」
「いいんだよ、もう」
「でも」
「今踏み込んだら、百合との関係は二度と戻らねえぞ」
その言葉が重く胸に落ちる。僕はその場から動けなかった。僕には分からない、雪村くんだけが受け取ったメッセージ。それは百合さんの拒絶だったのだろうか。それとも、他の何かなのか。
繁華街の喧騒の中で、あのビルだけが異様に静かに見えた。嫌な予感が確信に変わる。
この夜は、きっと何も起きない。
だからこそ——明日が怖かった。




