第14話 日常
14.日常
ようやくこの学校にも慣れてきて、少し余裕が出てきた。
転校してきたばかりの頃は、校舎の広さや人の多さに圧倒されて、毎朝校門をくぐるだけで肩に力が入っていたのに、今ではその感覚も薄れている。靴箱の位置も、教室までの最短ルートも、もう迷わない。
余裕ができたからだろうか。最近は自分のことだけでなく、周りをちゃんと見られるようになった気がする。
桜さんは相変わらず学校一の人気者だ。
廊下を歩けば誰かしらに声をかけられていて、笑顔を向けられない日はない。明るくて、少し強引で、それでも不思議と嫌味がない。彼女がそこにいるだけで、空気が一段明るくなるのがわかる。
恭介くんは学校一の秀才だ。
授業中も休み時間も、いつも落ち着いている。ノートは丁寧で、書き込みの量も必要最低限なのに、要点がすべて押さえられている。ときどき質問すると、少し考えてから的確な答えが返ってくる。そのたびに、頭の出来が違うんだなと思わされる。
雪村くんは……学校一の女好き、らしい。
本人は否定しているけれど、昼休みに女子に囲まれているのを何度も見てしまえば、さすがに信じざるを得なかった。自然体なのが、余計にたちが悪い。雪村くん曰く、学校一のモテモテ男——と言っているが。
雪村くんを見ていると結構な頻度で遅刻をするが、欠席も多い。そのことに最近気付いたので、いつか理由を聞いてみたい。彼に対する謎は深まるばかりだ。
僕は基本的に、いつも雪村くんたちのグループにいる。
それが自然な流れだったし、居心地もいい。
転校してきた僕を、あの距離感で迎え入れてくれたことには、今でも感謝している。
けれど最近、少しだけ違う場所に視線が向くようになった。
となりの席の、如月くんだ。
如月狛人。
最初は名前すら知らなかった。ただ、静かな人だな、という印象だけが残っていた。
授業中も必要以上に喋らないし、目立つこともしない。でも、ちゃんと話を聞いているのは分かる。ノートも、要点だけを押さえて書いている感じだった。
たぶん、似ていると思ったのだ。
クラスの中で、一歩だけ引いた場所に立っている感じ。無理に輪に入らなくても平気でいられるところ。そういう部分が、自分と重なってみえた。
きっかけは本当に些細なことだった。ある日の休み時間、僕が教科書を落とした時だ。
「……これ」
足元に落ちた教科書を拾って、差し出してくれたのが如月くんだった。驚いて顔を上げると、彼は特に表情を変えることもなく、そこに立っていた。
「ありがとう」
そう言うと、彼は小さく頷いた。
「真田くん、だよね」
「うん。如月くんは……」
「狛人。下の名前」
あっさりした言い方だった。
「は、狛人くん……て、呼んでいい?」
僕にしては、かなり早い展開だ。人と繋がりたいという気持ちが強くなっている。
「いいよ」と狛人くんはあっさり承諾してくれた。
「真田くんは、確か……大祐、だったよね?大祐くんでいい?」
「う、うん。ぜひ!」
少し声がうわずってしまったが、勇気を出してよかった。
そこから会話が弾んだわけでもない。それだけ話したら、彼は自分の席に戻っていった。やり取りは、すぐに終わったが、しばらく胸の鼓動がうるさかった。
それ以来、少しずつ言葉を交わすようになった。
消しゴムを貸したり、プリントを見せ合ったり。会話と呼ぶほどのものじゃないけれど、不思議と沈黙が気まずくならない。隣に誰かがいる感覚が、いつの間にか当たり前になっていた。
放課後、気づけば自然と一緒に教室を出ることが増えた。約束をしたわけでもない。ただ、歩く方向が同じで、自然と並んでいるだけだ。
「真田くんってさ」
校舎を出たところで、如月くんが前を見たまま言った。
「人混み、あんまり得意じゃないでしょ?」
一瞬、言葉に詰まる。
「……なんで分かったの?」
「歩き方。ちょっとだけ避ける癖があるから」
そんなところまで見ているとは思わなかった。無意識の行動を指摘されるのは、妙に照れくさい。
「少しだけ」
「僕も」
それだけ言って、狛人くんは小さく息を吐いた。その仕草が自然で、胸の奥がふっと軽くなった気がした。理由は分からない。ただ、自分と同じ感覚を持つ人がいると知っただけなのに、それだけで安心できた。
二人で商店街を歩く。相変わらず人が多い。人の声や店の音が重なり合って、少しざわつく空気。前なら気になっていたはずの雰囲気も、今はそれほど苦じゃない。
ふと、空気がわずかに荒れた。
少し先で、男同士が言い争っている。肩がぶつかったとか、言葉遣いがどうとか、よくある理由だろう。周囲の人たちは、関わり合いにならないように視線をそらしている。
「……嫌な感じしない?」
狛人くんが小さく言った。
僕も同じことを感じていた。胸の奥が、ざわっとして落ち着かない。視界の端で、穢れがほんの少し歪んだ気がした。
「うん……」
僕たちは立ち止まり、少し距離を取って様子を見る。喧嘩はまだ、殴り合いにはなっていない。ただ感情だけが異様に先走っている。
「……大丈夫なの、かな?」
狛人くんが、様子を伺いながら、独り言のように言う。
しばらくその場に留まって見ていたが、これ以上は何も起こりそうになかった。穢れが歪んだように見えたのは、心配しすぎだったのかもしれない。
男同士が離れたのを確認して、僕たちは胸を撫で下ろした。
「……よかったね、狛人くん」
「何ていうか……この辺、治安悪いね」
確かに狛人くんの言う通り、最近この辺で犯罪まがいの事件が起こっていると聞く。あまり近づかない方がいいかもしれない。
僕たちはまたお互いの話しをしながら、帰途に着いた。その時は、それでよかった。この日常が、当たり前に続くものだと、疑いもしなかった。
隣の席の友達と、何気ない放課後を過ごす。それだけのことが、どれほど大切だったのかを、僕は実感している。
世界は、今日も静かだった。




