第13話 僕がいる場所
13.僕がいる場所
朝、目を覚ました瞬間、胸の奥がわずかに揺れた。昨日の夜の出来事が、夢だったのか現実だったのか、まだ境目が曖昧だ。
雨音。燃える右腕。祓われていく穢れ。
思い出すたび、心臓が一拍だけ速く打つ。
けれど、恐怖よりも先に浮かんだのは——「ああ、終わったんだ」という感覚だった。
「……ローラ」
布団を抜けると、白い影が足元にまとわりつく。
真っ白な毛並みを揺らしながら、ローラが尻尾を振っていた。昨日と変わらない、いつもの朝。
僕はしゃがみ込み、無意識に頭を撫でる。
「おはよう」
ローラは何も知らない。昨日、僕が何を見て、何を決めたのかも。ただ、生きていて、ここにいる。
——それでいい。
隣の部屋から、味噌汁と焼き魚の匂いが漂ってくる。父さんが歩く音も聞こえる。
「大祐、起きてるか」台所から父の声が飛んでくる。
僕は返事をして、顔を洗いに行った。鏡の中の自分は、いつも通りの中学生だ。目の下に少しだけ疲れが残っている。それでも、すっきりした顔に見えた。
食卓につくと、父はいつものように新聞を広げていた。
その横顔は変わらない。目尻の皺も、口元の線も。だけど、昨日から変わったのは僕のほうだ。
「昨日、遅かったな」
父は新聞から目を離さず、淡々と言った。
責めるでもなく、興味本位でもない。ただ事実を確認するように。
「……うん。ちょっと、色々あって」
言葉を濁したのに、父は頷くだけだった。
「そうか」
それだけ。けれど、その短い相槌が、妙に胸に沁みた。
父は、知っている。僕が普通じゃないことを。それを家の中で、特別扱いしないことも。
母のことは、ほとんど語らない。
ただ、父の沈黙の中に逃げてきたという匂いを感じる時がある。追われているのか、隠れているのか。僕は詳しく知らない。聞いてしまえば、何かが壊れる気がしていたからだ。
父は味噌汁を一口飲んでから、ぽつりと言った。
「……昨日みたいなことがあったなら、無理はするな。ただ——お前が自分で選んだなら、それは尊重する」
箸を持つ手が止まった。
「……うん、選んだよ……」
父は新聞を畳み、僕を見た。真っ直ぐな目。
「お前の力は、誰かにとって都合のいいものにもなり得る。だからこそ、誰のために使のかは、自分で決めろ」
僕は喉の奥が熱くなるのを感じた。
昨日、雪村くんに言われた言葉と似ている。命令じゃない。選択を渡されている。
「……うん」
それだけで精一杯だった。
父はそれ以上、踏み込まない。代わりに、味噌汁をよそってくれた。
「行ってこい。今日は晴れているぞ」
窓の外を見れば、確かに雲は薄い。雨の匂いはもう残っていなかった。
「……行ってきます」
ローラが僕の足に鼻先を押し付けてくる。その温もりに、少しだけ笑ってしまった。
母の遺影に声をかけて、玄関を出ると、空はすっかり晴れていた。
雨の気配は、もうどこにもない。
通学路は、いつもと同じ。駅前の雑踏、信号待ちの列、登校する生徒たち。
けれど、僕の目には少し違って見える。人の周りに、薄く漂う感情。
不安、苛立ち、小さな嫉妬。昨日ほど濃くはない。でも、確かにある。
(……これが、普通なんだ)
胸がきゅっと締め付けられる。同時に、不思議と足は前に進んでいた。
教室の扉を開くと、いつもの朝のざわめきが迎えてくれた。机を引く音。笑い声。挨拶。
霧ヶ峰さんがいる。同じように檜山くんもいる。そして——まだ空いている窓際の1番後ろの席。
霧ヶ峰さんが僕に気づき、すぐに微笑んだ。その笑顔は昨日と同じ。けれど、僕の胸は昨日より少しだけ軽い。
「おはよう、大祐くん」
その呼び方に、一瞬だけ足が止まる。昨日までは確かに「真田くん」だったはずなのに。
距離が一段だけ近い。どうすればいいだろう。
ひとまず「……おはよう、霧ヶ峰さん」と言ってみる。
「……不正解です」
少し頬を膨らませながら、僕をにらむ。けど、全然怖くない。むしろ愛らしい。思わずときめいてしまった。
胸のときめきを隠しながら、僕は決意する。
「……お、おはよう、桜さん」
言い慣れない。でも、嫌じゃない。頬が熱くなるのを感じて、僕は視線を逸らした。
「ふふ。今日から、それでいこうね」
檜山くんも顔を上げる。
「おはようございます、大祐くん」
——檜山くんまで。僕は思わず息を呑んだ。
「……おはよう、恭介くん」
呼び方が変わっただけなのに、胸の奥が少し温かくなる。
昨日までは、ただ同じ教室にいただけだった。今日は——ちゃんと、ここに立っている。
「……調子はどう?」
桜さんの声は、心配というより確認に近い。
「うん、大丈夫……ありがとう」
そう答えると、桜さんは微笑んだ。あの時の巫女のような艶やかな姿を思い出してしまった。
檜山くんが、机の上に小さな紙袋を置いた。
「朝、購買で見つけました。甘いものは落ち着きますので」
「え……」
「昨日、泣いていましたから」
淡々と言われて、僕は顔が一気に赤くなった。
「……見ないでよ……」
「見ていません。事実を言っただけです」
霧ヶ峰さんが小さく笑った。その笑い声につられて、僕もつい息を漏らす。
その時、教室の扉が勢いよく開く。
「おっす」
遅刻常習犯の声。だが今日は間に合っている。
いつも通り、軽い。
けれど、僕は知っている。
女子に声をかけながら歩いてきて、ふいに僕の横で止まる。
「よ。大祐」
「おはよう、雪村くん」
目が合った瞬間、昨日の続きみたいな感覚が走る。ほんの一瞬だけ、彼の視線が深くなる。
「……ちゃんと来たな」
「うん……君もね」
「はは。……なぁ、大祐」
ふと、雪村くんが真剣な顔になる。
「……お前の居場所は見つかったか?」
「うん、ここが——僕がいる場所だよ」
微笑だけ向けて、彼は自分の席へ向かった。
放課後まで、時間は驚くほど普通に流れた。授業を受け、昼を食べ、他愛のない話をする。
世界は、変わらず回っている。
そして夜。
同じ空の下、別の場所。
街の喧噪から離れたビルの屋上で、雪村は風に髪を揺らしていた。
そこに、足音が一つ。
「いやー、参ったよ」
軽い声が、風に乗った。
「昨日の女子高生さ、雪村の連絡先をしつこく聞いてきてさ。『命の恩人ですから!』とか言われちゃって」
フェンスにもたれかかる男が、肩をすくめる。
年上だが、どこか砕けた雰囲気。目だけが、やけに鋭い。
「で?」
雪村は夜空を見上げたまま返す。
「困ったからさ。『代わりに俺の聞いとく?』って言ったら、めっちゃ嫌な顔された」
男はニヤリと笑う。
「……煉、お前、そういうとこだぞ」
「褒め言葉として受け取っとく」
男――煉は、今度は楽しそうに笑った。
「でもまあ、大丈夫そうだったよ。ちゃんと家まで送ったし」
「そりゃよかった」
短く返す雪村の声は、いつもより低い。そのままのトーンで再び雪村は問いかける。
「で、どうだった?」
「REINの交換した」
「そっちじゃねえよ」
顔のあたりで、ヒラヒラとスマホを振りながら言う煉に、ため息混じりで雪村は言った。少しの沈黙の後、煉はポケットにスマホをしまいながら呟く。
「懐かしい目だ。あいつも変わらないね」
「煉、お前もやはり……覚えているのか?」
「あぁ。後は恭介くらいだろ」
「そうだな……」
「雪村……あまり一人で抱え込むなよ」
「分かってる。お前が……お前たちがいるだろ」
雪村はしばらく黙り、夜景を眺めた。街の輝きがとても美しく瞬いている。
「俺は——同じ結末を、もう見たくねぇだけだ」
煉はそれ以上突っ込まなかった。代わりに、軽く手を振る。
「じゃ、俺は帰るよ。また面倒事があったら呼んでくれ」
背中を向け去りかける煉に、雪村は声をかける。
「待て、煉。……探し物はどうなってる?」
「どちらも進展無し……だけど——見つけるさ」
「助かるよ」
「お前のためになるなら、何でもないさ」
煉は笑い、闇に溶けるように去っていった。
残された雪村は一人、空を見上げる。
「……探し物、か」
小さく呟いて、自虐的に雪村は笑った。
「必ず——見つける。今度こそ、お前を——」
その言葉は、誰に向けたものなのかは分からない。どんな感情が滲んでいるのか——その表情から読み取ることができない。
——世界は、まだ変わらない。
しかし、確実に動き始めている。
動き始めた世界の中で、雪村はただ一人、立ち止まっていた。




