第12話 涙がまだ悲しみだった頃
第12話 涙がまだ悲しみだった頃
雨は静かに降り続いている。
誰も動かない。
誰も何も言わない。
行くよ——
僕の答えだけが、路地裏に残っている。
その時、かすれた声が聞こえた。
「……あ、あの……」
倒れていた女子高生が、意識を取り戻している。
彼女は雨に濡れた路地を見回し首を傾げた。そして、視線が雪村くんで止まる。
彼女の目は、倒れた男の前に立つ雪村くんを捉えて離さない。
「……君が……また、助けてくれたの?」
「まあ、そんな感じだな」
雪村くんは軽く肩をすくめた。
「もう大丈夫だ。あいつは、やり直せるはずだ」
「……ありがとう……」
女子高生はじっと雪村くんを見つめている。その頬が、ほんのり赤く染まる。
「怖い思いをしたな」
「う、うん」
「こんな世界もある。もう忘れるんだ」
わずかに微笑みながら、雪村くんが告げた。
「うん……けど……忘れたくない、かな」
「……何だよ、それ」
いつのまにか、腕の炎は消えている。そして、その右手で女子高生の頭を優しく撫でた。彼女の顔がますます赤くなる。
「桜、封界解除してくれ」
「……」
「……桜?」
霧ヶ峰さんの周囲の空気が冷えている。笑顔は崩れていない。
(これは……ダメだよね)
雪村くんが視線を逸らした。檜山くんが、咳払いを一つする。
「分かってます! ——封界解除」
霧ヶ峰さんが、再び手を合わせて唱えた。薄い膜がほどけ、光が溶けていく。雨音は、相変わらず静かだった。
壊れた壁や地面、焼けた物も全て何もなかったかのように、元通りになっていく。
「壊れて……いない」
いつの間にか隣にいた、檜山くんが反応してくれた。
「これは、桜さんの穢場です」
「けがれ、ば?」
「人や物を護る結界のようなものですよ」
世界が元に戻ると、周りの喧騒も戻ってきた。
「使う者の、護る意志が形になるんです」
その言葉が、ゆっくりと胸の奥に落ちていった。
「恭介、煉は来てるか?」
「もちろんです。彼女は煉に任せましょう」
名残り惜しそうな女子高生を、檜山くんが表通りまで送っていった。
すぐに一人で戻ってくる。
「煉に任せてきました」
僕らは倒れている男の周りに集まった。さっきまで暴れていた男は、今はただ雨に打たれて横たわっている。
「大祐」
雪村くんが、僕の名前を呼ぶ。その声を聞いた瞬間、僕の身体が一度跳ねた。
僕は——逃げない。
深く、深く息を吸う。
僕らは、倒れている男から少し距離を取り、路地の端に立っていた。誰も急かさない。誰も、僕に声をかけない。
それが、かえって肩に重くのしかかる。
「これが、お前の——」
沈黙を破ったのは、雪村くんだった。いつもの調子。けれど、どこか違う。
「選択の時だ」
逃げ場はない。でも、逃げたいとも思わなかった。
喉が鳴る。唾を飲み込んでも、言葉はすぐに出てこない。
視線を落とすと、雨に濡れた地面が揺れて見える。そこへ、血だらけの顔をした男が横たわっている。
膝をついて、男に近づいた。
「僕は——治すよ」
男に手をかざす。その瞬間、手のひらがじんわりと熱を持った。淡い光が、男の傷に滲むように広がっていく。
思った以上に声が震えた。誤魔化すように、深く息を吸う。
「この力を……僕自身が認めてあげたい」
その時、男の中に残った穢れが、僕に流れ込む。黒く、暗い記憶の残り香。
一緒にいたい。
自分だけのものにしたい。
愛されたい——
昨日よりも強い執着に、僕は染まりそうになる。
だけど——
(これじゃあ、駄目だ!)
身体の隅々まで力を込めて、流れ込んできた、黒い闇を見つめる。
呼吸が苦しい、動悸も激しくなる。
すると、その奥に小さな男の子が蹲っていた。
僕には、その子が誰なのか分かった。
もちろん、それが何であっても、人を傷つける免罪符にはならない。
だが——
意識の中で、僕は少年を抱きしめた。
「僕は、君を——赦すよ」
少年は顔を上げ、目を見開いた。
そして——泣き顔のまま、笑った……
もう、すっかり男の傷は綺麗になっていた。血だけが残り、表情は穏やかになってる。
「すごい……こんな一瞬で」
霧ヶ峰さんが呟く。
雪村くんは、少しだけ考えるように視線を逸らし——それから僕を見た。
「それで?」
短い問いに答えるため、僕は呼吸を整える。そして、ようやく口を開くことができた。
「……この人は、もう大丈夫だよ」
「お前はどうなんだ」
「……大丈夫、だと思う……」
雪村くんの視線の重さを、今初めて正面から受け止めた。
ふと、雪村くんが雨を見た。
「そうか……それなら」
「……?」
「お前の呪いは、祝福に変わったんだな」
その言葉が落ちた時、僕の頬を何かが流れた。
(……涙?)
指でその感触を確かめる。温かかった。
僕は、顔を上げた。
もう涙など好きなだけ流れればいい。
震えはまだ消えない。でも、もう逃げない。
「ずっと、この力を隠してきた……だけど」
涙は止まらない。でも、涙がまだ悲しみだった頃には戻りたくない——
「僕はもう、見ているだけなのは——嫌なんだ」
雪村くんは、少し寂しそうに笑った。
「……お前は……やっぱ、お前なんだな」
言葉の意味は分らない。
少し俯き微笑を浮かべる雪村くんのまつ毛が、雨粒を受けて光っていた。
雪村くんはすぐに、いつもの表情に戻る。
「俺からみたら、お前は治癒の力がある——ただの中学生だ」
雨はいつの間にか止んでいた。
「——俺について来ると決めたんだろ」
胸の奥で、何かが静かにほどけた。
流れる涙は止まらない。
だけど、僕はこの日を境に、元の場所には戻らない。
雪村くんが両手を広げる。
「ようこそ——俺たち、穢祓師の世界へ」




