第11話 Moment
11.Moment
彼の右腕が、激しく燃えている。
その炎は、小雨程度ではまるで衰える気配を見せなかった。腕に絡みつくように揺らめきながら、闇を裂くように空間を照らしている。
ただ——祓うため。
堕ちた男は、後ずさっていた。理性を失い、感情に呑み込まれたはずの身体が、本能だけでそれを理解している。
金色に濁った瞳が、雪村くんの右腕から離れない。
——逃げられない。
その恐怖だけが、歪んだ顔にありありと浮かんでいた。
雪村くんは、ゆっくりと歩く。
力むことなく、普段通りに歩き、距離を詰めていく。雨音だけが静かに響く穢場の中を、悠然と進んでいる。
「お前を、祓ってやるよ」
淡々とした声。怒りも、憎しみもない。そこにあるのは、慈悲のような優しい声だった。
雪村くんが拳を握ると、炎が吸い寄せられるように集まった。荒々しく燃えているのに、不思議なほど素直な動きをする。
まるで——
この拳を護るために、ここに来たかのように。
「……がはっぁぁぁ!!」
雪村くんの圧に耐えきれなくなったのか、男が動き出した。
言葉にならない言葉を叫び、無茶苦茶に腕を振りながら突進する。すごい速さだが、雪村くんはゆらゆら揺れているだけで全てかわしてしまう。針のように変形した指先が空を裂く。
けれど——止まらない。次の瞬間、雪村くんは腕を少し上げて踏み込んだ。
そして……音が消えた。一瞬だけ、世界から雨音も何もかも消えた気がした。
雪村くんは、静寂の中、拳を振り抜いた。
時が止まり、視界は真っ白になったような錯覚に陥る。衝撃音はなかった。けれども、空気が折れ、低い破裂音のようなものが腹の底に響く。
男の身体が宙を舞い、背中から壁へ叩きつけられる。コンクリートが砕け、地面が震え、水たまりが跳ね上がった。
雪村くんの腕から放たれた炎が、辺りを焦がす匂いがして、意識を戻された。
男の身体から、黒い穢れが剥がれ落ちていく。裂け、流れ、炎に触れるたびに薄くなり、やがて、跡形もなく消えていった。
金色だった瞳から狂気が消え、黒く染まっていた肌が、雨に洗われるように元へ戻る。
……男は、崩れ落ちた。
膝をつき、そのまま地面に伏す。
——終わった。そう理解した瞬間、雨音が、はっきりと耳に戻ってきた。
一定で、静かで、どこまでも現実的な音。
「……これで終わりだ」と、雪村くんは静かに終わりを告げた。
穢れは、もうどこにも見えない。
それでも——雪村くんの右腕の炎は消えない。
雨の冷たいはずの雫が炎に触れても消えない。揺らめきながら、夕闇の中で、静かに燃えている。
誰かを傷つけるためじゃない。怒りをぶつけるためでもない。
ただ、心の穢れを祓うための光。
その炎を見て、僕ははっきりと理解してしまった。
これは——
僕が今まで信じてきた世界の外側にある力だ。今までの理が通じない世界。目の当たりにしなければ信じることも、疑うこともなかった世界。
そして自分自身で壁を作って、閉じこもっていた世界。僕はここから抜け出すことはできない……そう思っていた。
——彼に出会うまでは。
彼の右腕が燃えている。
夕闇の中で揺らめくその炎は、心の穢れを祓うものであり、僕にとっては、確かに希望の灯火だった。
「大祐、穢れのその先は見えたか?」
「……うん、ありがとう。これで、僕も——覚悟ができた」
「……俺と共に来るか?」
雪村くんはそう問いかけてくる。命令でもなく、強制でもない。僕自身に選択を委ねる声。
だからこそ——
「行くよ。僕は——大切なものを、護る側に立ちたい」
僕は息を吸って、一気に答えた。
後悔はない。怖くないと言えば嘘になる。
それでも、僕は雪村くんが紡ぐ物語の中にいたいと思った。
その答えを聞いて、雪村くんは少し微笑んだ。とても深みのある表情は、少年であることを忘れてしまいそうだ。
その時だった。
「……あ、あの……」
かすれた声が聞こえた。
光のドームの中で、倒れていた女子高生が、体を起こしている。
彼女は雨に濡れた路地を見回し、不思議そうに首を傾げた。そして、視線が雪村くんで止まる。
彼女の目に映っているのは、炎でも、穢れでもない。ただ、倒れた男の前に立つ、少し不良っぽいけど、妙に落ち着いた男の子。
「……君が……また、助けてくれたの?」
「まあ、そんな感じだな」
雪村くんは軽く肩をすくめた。
「もう大丈夫だ。あいつはもう、お姉さんにちょっかい出せねえよ」
「……ありがとう……!」
女子高生はじっと雪村くんを見つめている。その頬が、ほんのり赤く染まる。
「怖い思いをしたな」
「う、うん」
「こんな世界もある。もう忘れな」
「うん……けど……君のことは覚えていてもいい?」
「……何だよ、それ」と少年らしい笑顔で笑いながら言った。
いつのまにか、腕の炎は消えていた。そして、その右手で、笑顔のまま女子高生の頭を優しく撫でた。顔がますます赤くなる。
「桜、封界解除してくれ」
「……」
「……桜?」
霧ヶ峰さんの周囲の空気が冷えている。笑顔は崩れていない。でも、分かる。
(……これはダメだよね)
雪村くんが視線を逸らした。檜山くんが、咳払いを一つする。
「分かってます!——封界解除」
霧ヶ峰さんが、再び手を合わせて唱えた。薄い膜がほどけ、光が溶けていく。雨音は、相変わらず静かだった。
驚くことに壊れた壁や地面、焼けた物も全て何もなかったかのように、元通りになっている。
世界が元に戻ると、周りの喧騒も戻ってきた。僕は、その音を聞きながら思う。
——この日常は、もう昨日までのものとは違う。けれども、確かに続いていくと。
「恭介、煉は来てるか?」
「もちろんです。彼女は煉に任せましょう」
名残り惜しそうな女子高生を、檜山くんが表通りまで送っていった。と思ったら、すぐに一人で戻ってきた。
檜山くんは「煉に任せてきました」と言っているので、すぐそこまで煉と呼ばれている人が来ていたらしい。
僕らは自然と倒れている男の周りに集まる。さっきまで暴れていたその身体は、今はただ、雨に打たれて横たわっている。
「……大祐」雪村くんが、僕の名前を呼んだ。
その声を聞いた瞬間、僕は分かってしまった。
——もう、逃げない。
深く、深く息を吸う。そして、口を開こうとした。




