君を、乞う
呪詛返しから一月ほど経った、ある日のことである。
「単刀直入に訊くぞ、ファース」
常にないほど真剣な顔をして迫る再従兄に、ファナルシーズは面食らいつつ応じた。
「何だ、ジェス?」
「イリアーナ嬢のことを、お前はどう思っている?」
さらさらと書類を書いていたファナルシーズの手が、ぼきっと奇妙な音を立てて止まった。
書類に穴が開き、ペンは先が折れている。
「…………何を、いきなり」
声にも動揺がありありと表れている。それでも何気ない風を装って新しい書類用の紙と常備している予備のペンを取り出そうとするが、途中でペンを落とした。
それを拾ってやりながら、ジェレストールは呆れを隠さず溜め息をついた。
「ほら見ろ」
「何をだ」
「この期に及んでしらばっくれるつもりか、馬鹿」
拾ったペンを突きつけながら、ジェレストールは年下の主君に物申した。
「いいか、確かにお前は皇太子だ。一生涯、この国を背負っていかなければいかない立場だ」
ファナルシーズはジェレストールの言いたいことが見えないらしく、眉を寄せた。
「だからこそ、今まで我慢しすぎた。誰もがお前の望みを叶えたがる。もちろんその中には俺も入っているが、口に出せば簡単に願いが叶うとわかってしまっているからこそ、お前はあえて自制していたし、俺もそれで良いと思っていた。皇太子として、将来は皇王としてふさわしい行動だと受け入れていた」
「それの何がいけない」
「いけないとは言っていない。今まではそれで良かったと言っている。だからこそ、だ。いいか、ファース、ファナルシーズ=アリオス」
ジェレストールは真摯な光を宿した翡翠の双眸で、ファナルシーズの紫水晶のそれを覗き込んだ。
「欲しいものは欲しいといわないと、駄目だぞ」
「…………ジェス」
「いい加減、お前の鈍さには愛想が尽きそうだから、その前に言ってやる。イリアーナ嬢が欲しいなら、そう言え。少なくとも俺は、叶えるために力を尽くしてやる」
「やめてくれ」
ファナルシーズは首を振った。突きつけられていたペンを受け取って、新たに書類を書き直そうと執務机に向かう。
「それは、してはならないことだ」
「なぜ?」
ジェレストールは、今日に限ってしつこかった。それがファナルシーズには鬱陶しかったし、苛々と落ち着きをなくさせた。
「彼女は、国への忠誠に厚い。私が言えば、従ってくれるだろう。だがそれでは、駄目なんだ」
「結局、本当は欲しいんじゃないか」
「そんなことは一言も言っていない!」
とうとう、ファナルシーズは声を荒げた。
「ジェス、お前が何を勘違いしているのかは知らないが、妙な勘繰りをして彼女の名誉を傷つけるような真似はするな! お前も私も迂闊に動けば相手を傷つける。それを自覚して言っているのか!?」
「問題を摩り替えるな。俺はお前の気持ちに関して言っている」
怒りを曝け出したファナルシーズとは対照的に、ジェレストールは冷静だった。少なくとも、冷静であるように見えた。
「今までお前の周りにいた女性が女性だからな。気付かないでいるのかもしれないが、ここで気付かせてやらないと一生、お前はこういうことと無縁な、味気ない人生を送ることになる。それを傍で見る俺の身にもなれ、馬鹿。初恋だからといってその年で無自覚なのは性質が悪い」
ファナルシーズは反論の材料が見つからず、黙り込んだ。
「私は……恋など、していない」
子供が駄々を捏ねるような言葉に、今度こそジェレストールは呆れて匙を投げそうになった。しかしここで引いて被害を被るのは自分である。
「あのなあ、相手を見てどきどきするとか、相手のことを思って夜も眠れないとか、そういうのばかりが恋というわけじゃないんだ。むしろ十八にもなって、そんな女を覚えたての子供みたいな反応をされたらそっちの方が怖い。……自他共に認める女嫌いのお前が、イリアーナ嬢にだけは反応が違った。守りたいと思ったんだろう? 彼女が傷ついて嫌だったんだろう?」
それは。
そう言いかけて、ファナルシーズは自分が続ける言葉を持っていないことに気付いた。そして更にジェレストールの言う通りだということに気付き、愕然とした。
「だ……だが、彼女は巫女になるんだ。そう言っていた。私も……選んだ道を行くことが、彼女にとって幸せなのだと思う」
もはやファナルシーズは動揺を隠す努力さえ放棄していた。そんな彼に、再従兄は何でもないことのように告げた。
「お前を選ばせればいい。巫女として生涯を捧げるのも、皇太子妃になるのも、国に貢献するという点では何ら変わりはない」
それは――何と甘美な誘惑であったことか。
「相手の娘が平民なら悲劇的な恋と自分を哀れんでもいいが、イリアーナ嬢はセライネ一等伯の嫡出子だ。身分血筋に不足はない。それにあの呪詛返しのときの巫女としての力量を見て確信できたが、彼女は間違いなくお前の子供を産むのに耐え切れるだけの『器』の持ち主だ」
「ジェス」
「何を躊躇う。欲しいと言うことと、実際に手に入れることは全く別のことだ。長い人生、一回ぐらい告白して振られてみるのもいい経験になるぞ」
励ましているのか玉砕して来いと言っているのか、今ひとつ判断がつきかねるところである。
「言ったとして、彼女が私を選んでくれるとは思えないんだが……」
「そこまで知ったことか。これ以上悶々としてるお前を眺め続けるのは、面白いが心臓に悪いんだ。まぁ、振られたら振られたで、その時は泣かせてやる」
ジェレストールは、行ってこい、と立ち尽くすファナルシーズの背中を押した。
「残り時間は少ないぞ。何しろ、聖エディリーン祭の前には巫女の誓約を立てるらしいからな」
その聖エディリーン祭は、半月後に迫っていた。
イリアーナは両の掌を見つめていた。
そこに今もあるはずの火傷の痕は、全く見当たらない。それもそのはず、火傷を負った直後に、皇太子ファナルシーズが見咎め、跡形もなく治療してしまったのだから。
俯き加減になった彼女の頬にかかる髪は、生来の褐色よりも金の方が強くなっていた。誰の目にも明らかなその変化は、神降ろしをし、更に呪詛返しの際に神の力に触れた結果だ。傍系皇族に現れる純金の髪とまではいかなくとも、淡い金髪と称して良いくらいには変わっていた。
きつく目を閉じた。
(行かなくては、神殿に)
呪詛返しから一月、レステアに戻って三週間。巫女の誓約を立てるのは、明日。だというのに、この焦燥は一体何なのか。
母が別れを嘆いて引き止めるから、せめてぎりぎりまでは家に居ようと思っていた。それさえ覆そうと思うほどの焦燥が、彼女を駆り立てていた。
「イリアーナ? 居るんだろう。入るぞ」
「お兄様」
妹が神殿に入るまでの残り少ない時間。最後に過ごせる時間ということで休暇をもぎ取ってきたウォルセイドは、浮かない顔の妹を見て困ったように肩をすくめた。
「どうした? 念願の神殿入りだろうに、そんな顔をして」
「いえ……別に、何も」
沈んだ声で俯けば、何でもありそうなことは一目瞭然だ。ウォルセイドは溜め息をついた。
「イリア、何かあったのか。相談くらいしてみろ。もう兄妹として会うことはできなくなるんだ。今の内に言いたいことがあるなら言ってみろ」
だがイリアーナは首を横に振った。
「……お兄様。わたくし、今日から神殿に入ろうと思います」
「イリアーナ!?」
驚いたなどというものではない。
「誓約の儀は明日だろう?」
「でも、今日から入ろうと思うのです」
「何故!?」
全くわけがわからない。
「いや、とりあえず落ち着け。どうしてそう考えたのか、訊いてもいいか」
「そうしなければならないと思うからです。これ以上俗世に居ては、きっと決心が鈍ってしまう」
「は!?」
今日に至るまで何度も母から考え直すよう言われても、毅然とした態度で、むしろ微笑みながらきっぱりと「巫女になる」と宣言してきたのである。そのイリアーナの様子の急変に、ウォルセイドは困惑を隠しきれない。
そのときである。
「イリアーナ! まだいるか!?」
反応したのはウォルセイドの方が早かった。
「殿下!?」
セライネ伯爵本邸に姿を現した皇太子に、家令や召使達は驚きのあまり固まってしまっている。父伯爵が居ない今、唯一、皇太子の姿に免疫のあるウォルセイドが出て行って、慌てて応対した。
「一体どうされたのですか、殿下。何か当家に御用でも……」
「あるから来たんだ。イリアーナはまだ居るのか」
ウォルセイドはその呼び方に眉をひそめた。
「いくら皇太子殿下といえども、当家の娘を呼び捨てにされる謂れはございません」
ファナルシーズはぐっと詰まった。その通りだ。
「緊急だ、許せ。とにかく、イリアーナ嬢に会わせてくれないか。言い忘れたことがある」
「伝言なら承りましょう。ご存知のこととは思いますが、妹は誓約の儀を明日に控えた身です。不要な接触は避けるべきです」
「悪いがこっちもなりふり構っていられない。直接会って、私の口から言わなければ、意味がない!」
苛々とファナルシーズは叫んだ。
ウォルセイドは常に冷静であろうと努め続ける主の、らしくない姿を訝しく思い、そして嫌な予感が背筋を這い登ってくるのを感じていた。よく見れば、主君は転移神術を使った後らしく、ところどころ服装が乱れている。神力の波動もささくれ立っており、冷静沈着を絵に描いたような普段のそれとは全く印象を異にしていた。
「イリアーナ嬢、居るなら出てきてくれ! 私は貴女に言わなければいけないことがある!」
玄関のすぐ傍まで来ていたイリアーナは、両手で耳を塞いだ。
(ああ、だめ)
いつもいつも、自分を現実に引き戻す声。低く艶やかで、豊かな響き。
「イリアーナ嬢!」
堪らず、イリアーナはその場から逃げ出した。
(聞いてはだめ。……いいえ、誓約を立ててからでも話は聞ける。とにかく、今はだめ!)
自分でも何を怖れているのかわからないままに、イリアーナは「それ」が怖ろしく、逃げようとしていた。イリアーナは何が何だか自分でもわからないまま、馬を引き出して慣れ親しんだ神殿への道を駆けていた。
レステアの神殿区を管轄する神殿は、セライネ伯爵邸からそう遠くないところにある。途中に大きな森があるが、道は整備されており、参拝者も比較的多い。
彼女が七歳のときからほとんどの時間を過ごしてきたのも、この神殿である。もう半分、家のようなものだ。そこへ入れば、安全だ。
だがそれは現実から目を逸らす行為に他ならず、彼女はそうすることによって、再び「現実」に、「彼」の声で引き戻されることになった。
神殿にたどり着く前に、彼女の行く手は遮られた。
「待てというのに!」
捕縛神術で足を止められた馬の上で、イリアーナは呆然とその人を見ていた。
「皇太子殿下……」
ファナルシーズは紫水晶の瞳を眇め、自身も馬から降りてイリアーナに歩み寄った。
「面会を求める客に対して、何も言わずに神殿に駆け込むのがセライネ家の礼儀なのか」
殿下、と付いてきていたウォルセイドが小さく声を上げたが、ファナルシーズは無視した。
「違い、ます」
馬上から反論したイリアーナだが、ファナルシーズは得たりとばかりに彼女を引き摺り下ろした。
「殿下!」
「貴女に言わなければならないことがある。私はこういうことに疎くて、ジェスやオルティーヌ嬢に言わせると朴念仁だそうだから、気付くまでに時間がかかった」
イリアーナは後退ったが、背後にいた馬にぶつかり、三歩以上の距離を離れることができなかった。首を左右に振り、拒否の意思を示す。
「殿下、それ以上は。お止め下さい」
その懇願は虚しく、僅かに空を震わせただけだった。
ファナルシーズの手が伸ばされ、イリアーナの頬に触れた。二粒の紫水晶から、硬質な光が消え、夏の日差しのようなとろりとした熱を帯びる。
「貴女が欲しい」
「好き」でも「愛している」でもない、それは――純粋な、渇望だった。
イリアーナは震えた。
「でん、か」
「貴女が欲しい。一番近くにいて貴女の笑顔を見ていたい。泣いているときは慰めたいし、危険から守りたい。……だが貴女は、それを望まないだろう」
触れ合った箇所から、熱が伝わる。だがその熱は、熱さを伝えただけで離れ、以前のようにイリアーナの内部に火をつけるまでには至らなかった。
(…………いいえ)
火は、ついていた。呪詛返しのあの時、目の前の人から分けられた火は、そのまますっと、消えることなくイリアーナの中で燻っていたのだ。それが今、勢いを得て燃え盛ろうとしていた。
イリアーナは、火から炎へと変わろうとするそれを、抑える術を知らなかった。
「生まれて初めて、家族や幼馴染以外で、私に媚を売らなかったのが貴女だった。自分の選んだ人生を、自信を持って進もうとしている姿が眩しかった。生まれ持った身分や血筋に驕ることなく、誠実に課せられた義務を果たそうとする貴女を、美しいと思った」
言い募るファナルシーズは、内心、半分諦めていた。神殿の近くまで来ている。彼女自らが選んだ道が、すぐそこにあるのだ。引き戻すのは無理だろうが、想いを告げるのは自由だろうと開き直っていた。
「そして傷ついた姿を見て、守りたいと思ったんだ。でもそれは貴女の望むところではないのだろう」
イリアーナは俯いた。
たくさんの感情が渦巻いて、一言では表せない。
(何故、今更そんなことを言うのです。どうして……)
波一つ立つはずのなかった、凪いだ心。このまま心穏やかに時を過ごしていくのだと、思っていたのに。
この声は、言葉は、イリアーナの心を揺さぶって、嵐を起こす。
「行きたいなら、行ってくれ。貴女が自ら神殿に入るところを見れば、諦めもつく。……ああ、出迎えもあるのだな」
ぴく、とイリアーナは体が反応するのを感じた。
おずおずと神殿の方を見ると、世話になった巫長や巫女達が、心配そうにこちらを見ている。その腕が母のそれに劣らず優しいことを、イリアーナは知っていた。
知っている、のに。
「あ……」
足が、動かなかった。
目の前に見えるのは、七歳のときから、自分の家のように過ごしてきた神殿。
数十歩しかないはずのその距離を、踏み出すことが、できなかった。
行くこともできず、戻ることもできない。
イリアーナは呟いた。
「……け、ません」
イリア、と兄の声がした。
イリアーナは、今度は激しく首を振って、叫んだ。
「行けない!」
巫女達がざわめいている。しかしそれに構っている余裕は、今の彼女にはなかった。
「こんな気持ちのまま、神殿に入ることなどできません。神々に嘘をつくことになってしまいます!」
涙混じりに叫んで、顔を覆った。
予想していなかった成り行きを驚いて見つめていたファナルシーズの耳に、凛とした老女の声が届いた。
「皇太子殿下。責任を取って下さい」
ファナルシーズは弾かれたように巫長を見た。
「イリアーナは神殿に入るはずの身でありながら、俗世に未練を持ってしまったようです。そのような者を、巫女として迎え入れるわけには参りません」
巫長は傲然と宣言し、白い巫女装束を翻して扉の向こうに消えていった。巫女達もそれに続き、全員が神殿の中へ入った後――神殿の重い扉が、それにふさわしい音を立てて閉められた。
同時にイリアーナは、自分の中に確かに存在した、未来へ繋がる無数の道の一つが完全に断ち切られたことを知った。
不安と哀しみと、幾ばくかの希望が綯い交ぜになって、訳もわからぬまま、彼女は幾筋もの涙が頬を伝うのを感じた。
立っているのは、もう限界だった。
ファナルシーズは、泣き崩れた少女を抱き締めた。
何も言わず、ただ、きつく抱き締めていた。




