幻影の家
天城琉璃がこの街へ越してきた日も、空はやはり、調整されたようにやさしい青をしていた。
雲は磨かれたように澄みきっていて、余分な影ひとつない。
街頭放送はいつもどおり流れ、まるで彼女の訪れを歓迎しているかのようだった。
【本日の生存指数:73】
【本日の死亡ランダムコードは更新されました】
【どうぞ穏やかな一日をお過ごしください】
これまで住んできたどの街とも、大して変わりはない。
人々はいつものように歩き、
子どもたちはいつものように学校へ行き、
世界はいつものように回っている。
琉璃は、すべてそうあるべきだと思っていた。
そして、そういうものだと、もう慣れてもいた。
一定の間隔で、両親の仕事の都合に合わせて、彼女は別の街へ移り住む。
けれど、何も変わらない。
自分がこれまでどおり「完璧」であり続ければ、
最短でその場に溶け込める。
そして、余計な人付き合いに使う時間も、最大限削ることができる。
彼女に必要なのは、みんなが陰で噂する「天城琉璃」であって、
みんなが気軽に声をかけ、正面から親しく話せる「天城琉璃」ではなかった。
少し孤独ではある。
けれど少なくとも、
クラスメイトになり、
友達になり、
やがて親しい間柄になり、
最後にはまた他人へ戻っていく――
そんな面倒な苦しみを味わわずに済む。
それは、自分にも、相手にも、そして周囲にも都合のいい、最適解だ。
あまりにも、完璧な答え。
琉璃は、ずっとそう自分に言い聞かせてきた。
何ひとつ変わらないはずなのに、
この街はどこか、ほんの少しだけ見知らぬ場所のように思えた。
そのことに、琉璃の胸にはかすかな寂しさがにじんだ。
考えごとをしながら歩いているうちに、彼女は街の広場へたどり着いた。
なぜだかわからない。
だが、その場で足が止まる。
まるで、何かに呼ばれたかのように。
広場の中央には、どの街にも必ずある、あの像が立っていた。
母親が赤ん坊を抱き、穏やかな表情を浮かべている像。
台座には、この都市の信条が刻まれている。
【生は計画され、生は幸運に支えられ、死はランダムに訪れる】
琉璃はそれを、長いこと見つめていた。
そして、そのとき――ひとりの少女が視界に入った。
その少女の名前が、「安寧抽選」の一覧に表示されていたのだ。
少女の友人たちは彼女にすがりつき、泣き叫んでいる。
「昨日、海に行こうって話してたのに……!」
少女は震えながら、自嘲するように言った。
「ただ、運が悪かっただけ……」
琉璃は、その場に立ち尽くした。
本来なら、すぐに背を向けて立ち去るべきだった。
それなのに、なぜかその場から動けなかった。
心のどこかで、彼女はつぶやく。
――だからこそ、私は完璧でいなきゃいけないのに。
けれど、その胸には、鋭い痛みが走っていた。
思わず、彼女は自分の頬に手をやる。
指先に触れたのは、かすかなぬくもりと湿り気。
琉璃は、はっとした。
雨ではない。
汗でもない。
それは――涙だった。
そのとき初めて、琉璃は理解した。
本当に恐ろしいのは、死そのものではないのかもしれない。
失うとわかっていてなお、
それでも人は、誰かを愛してしまう。
そのことこそが、恐ろしいのだと。
この街へ来てからというもの、琉璃はずっと、自分の調子がおかしいと感じていた。
理由もなく悲しくなったり、
今日などは、学校で胸が激しく脈打ったりもした。
そんな感覚は、これまで一度も経験したことがない。
親しさ。
高揚。
期待。
そうした複雑な感情が、胸の内で入り混じっていた。
それでも彼女は、なんとかすべてを押し殺すことができた。
新しいクラスで取り乱さずに済んだのも、そのおかげだ。
みっともない姿を見せずに済んだ。
――完璧でいられた。
考えごとをしながら、琉璃は住宅街を抜け、
ひとつの黒い扉をくぐって家へ戻った。
家の中は、相変わらず幸福そのものだった。
母は台所で鼻歌を歌い、
父はソファに腰かけてニュースを見ている。
画面には、この街の毎日の通知が流れていた。
【本日の生存指数:74】
【本日の事故確率:0.05】
【どうぞ穏やかな一日をお過ごしください】
父は琉璃が入ってきたことに気づき、振り向いて笑った。
「ほらね。なんて穏やかなんだ」
琉璃はうなずく。
「ええ、本当に。とても穏やか」
そう言いながら、彼女は自分にも、そう思い込ませようとしていた。
けれど、頭の中にはずっと、白石明の目が焼きついて離れなかった。
あれは好意ではない。
好奇心でもない。
もしかすると、あれは鏡のようなものだったのかもしれない。
自分でも認めたくない空洞を、映し出してしまう鏡。
あるいは、
自分たちは同じ種類の人間なのかもしれない。
琉璃は、そう感じていた。
両親といくつか言葉を交わし、夕食を済ませると、琉璃は自室へ戻った。
家へ帰ると、彼女はいつも異様に疲れた。
身体は動いているのに、どこかで閉じ込められているような感覚がある。
外で演じている「完璧な自分」は、
自分が思っている以上に、体力を奪っているのかもしれなかった。
琉璃はベッドに横たわる。
そして、いつのまにか眠りに落ちていた。
どれほど時間が経ったのか。
不意に、琉璃は声を聞いた。
とても小さな声だった。
まるで、自分の血の奥底から響いてくるような。
「ようやく……」
琉璃ははっと目を開けた。
部屋には誰もいない。
ただ、窓の外から月明かりが差し込んでいるだけ。
心臓が急に速く打ち始める。
「……誰?」
探るように問いかける。
だが、返事はない。
周囲は、耳が痛いほど静かだった。
空間そのものが、どこかで断ち切られたような、死んだ静寂。
そのとき――
視界が、ふっと揺れた。
まるで映像が一瞬だけ途切れたように。
次の瞬間、部屋の色彩が、みるみる褪せ始めた。
月明かりなど、どこにもない。
そもそも窓すら、消えていた。
ベッドの白いシーツは、ただ青白い色へ変わり、
壁にあったはずのぬくもりは、冷たい無機質さへと変わっていく。
母の鼻歌が止まった。
父が見ていたニュースの音も消えた。
何もかもが止まった。
世界そのものが、一時停止されたようだった。
琉璃は驚いて身を起こした。
呼吸が浅く、速くなる。
「どうして……」
彼女はベッド脇の壁に手を伸ばした。
その感触に、息が止まりそうになる。
違う。
これは、塗装された壁じゃない。
――金属だ。
指先が震える。
ためらったあと、それでも彼女は強く叩いてみた。
ゴン――
鈍い反響音が返ってきた。
まるで巨大な容器の内壁を叩いたときのような音だった。
琉璃の喉がきゅっと締まる。
「これ……何……?」
彼女はベッドから飛び降り、扉を開け放った。
「お父さん! お母さん!」
叫ぶ。
だが、扉の向こうにあったのは廊下でも、リビングでもなかった。
そこに広がっていたのは、果てのない闇。
宇宙の果てのような、底なしの黒。
彼女の声はその闇に呑み込まれ、
ひとかけらも残らなかった。
琉璃はその場で凍りつく。
もう一歩すら踏み出せない。
そして――
闇の中に、灰色の文字が浮かび上がった。
【起動プログラム:開始】
琉璃の瞳孔が、激しく縮む。
その目の奥で、銀色の細い輪が閃いた。
頭の中が、引き裂かれるように痛む。
記憶の断片が、一気に流れ込んできた。
産室の白い光。
灰色の制服。
赤い警告表示。
E-0……。
琉璃は頭を抱え、その場に膝をついた。
息がうまくできない。
「これ……何……? 私の……それとも……」
その瞬間の彼女には、それらの記憶が本当に自分のものなのかどうかすらわからなかった。
ただ、押しつけられるように受け入れるしかない。
「そんな……ありえない……」
自分の震える声が聞こえる。
「私は、お母さんがいて……お父さんもいて……」
だが次の瞬間、彼女が信じていたその情景は、紙片のように燃え始めた。
母の笑顔が裂ける。
父のやさしさが崩れ落ちる。
食卓も、窓も、陽光も――
すべてが消えていく。
そして激しい痛みのあと、
琉璃はついに真実を見た。
自分がずっと暮らしていた場所は、最初から家などではなかった。
ただの一室だった。
何ひとつない、空っぽの部屋。
冷たい光。
絡みつく配線。
それはまるで、培養槽の内部のようだった。
彼女の身体は、透明な何かに拘束されていた。
海葵の触手のような細い束が、彼女の動きを封じている。
手首には細い線がつながれ、
背中には電極が貼りついていた。
彼女は、飼いならされた夢の中に生かされていただけだった。
そして今、その夢が覚めたのだ。
琉璃の頬を、涙がつたう。
「嘘……」
ずっと、自分は幸せな家庭にいるのだと思っていた。
その家庭のために、彼女は自分のすべてを「完璧」にしてきた。
不満も言わず、悲しみも見せず、
生活も、勉強も、何もかも自分で整え、
両親に負担をかけまいとしてきた。
それなのに――
「全部……全部、偽物だったんだ……」
帰るたびに「家」だと思っていた場所は、
ただの金属の檻にすぎなかった。
そういえば、と彼女は気づき始める。
自分は、両親の顔を、はっきり見たことがあっただろうか。
あの愛情深い仕草も、
あのぬくもりも、
最初から本当に自分へ向けられていたのだろうか。
「悲しい……」
琉璃は、自嘲するようにつぶやいた。
彼女の世界は、ガラスのようにあっけなく砕け散った。
すすり泣きがこぼれる。
何度も、何度も。
けれど――やがて、不思議なことに、
だんだんとそれほど悲しくなくなっていく。
流れ込んでくる記憶と一緒に、
悲しみそのものまで、どこかへ流れ去っていくようだった。
痛みが、少しずつ薄れていく。
ひどく馬鹿げた考えが、彼女の中にゆっくりと浮かぶ。
――完璧な私が、痛みなんて感じるべきなの?
琉璃は、静かに立ち上がった。
背筋はまっすぐに伸び、
華奢な身体の線が、冷たい光の中にくっきりと浮かび上がる。
どこまでも、これまでどおり、完璧に。
そうか。
これこそが、本当だったのだ。
そのとき、部屋の反対側から足音が聞こえた。
急がず、遅すぎず。
一定の歩調。
闇の中から、ひとりの男がゆっくりと姿を現す。
まるで、琉璃がこの現実に慣れるのを待っていたかのように。
男は黒い長衣をまとっていた。
整いすぎるほど整った顔立ち。
そして、その目は――人間とは思えないほど静かだった。
黒衣の男は琉璃の前に立ち、彼女を見下ろした。
精巧な作品が、ようやく完成したのを眺めるかのように。
実のところ、彼は琉璃の瞳をとりわけ気に入っていた。
そこには時おり、詩のような気配が宿ることがあったからだ。
だが今は――
その趣が、消えてしまったようにも見えた。
もっとも、彼にとっては、それすら味わいのひとつにすぎない。
ほんの小さな、楽しめる変化でしかなかった。
一方で、琉璃の身体は本能的に震えていた。
彼とは初対面のはずなのに、
ずっと前から知っていたような気がする。
まるで、それ自体が、あらかじめ埋め込まれた命令であるかのように。
その命令は告げていた。
創造主に対して、あなたは畏れを抱くべきだ。
そして――恐怖も。
「ようやく時が満ちた」
黒衣の男は、うっすらと微笑んだ。
「だから、私はおまえを目覚めさせた」
その笑みは、やさしいのに恐ろしかった。
琉璃は今すぐ逃げ出したくなる。
けれど、身体は言うことをきかない。
彼女はやっとのことで、問いを絞り出した。
「あなた……誰なの?」
男は手を伸ばし、指先で彼女の額にそっと触れた。
「まだ完全には目覚めていないようだな」
そう言って、指をわずかに滑らせる。
その瞬間、琉璃の視界は真っ白に染まった。
「逆らうな」
再び、あの声が頭の中で響く。
外からではない。
内側からだ。
埋め込まれたもの。
彼らが望むものすべてを、植えつけるための声。
琉璃は、自分の思考がまた引き裂かれるのを感じた。
どうして。
どうして、自分がこんな目に遭わなければならないのか。
悔しさに叫びたかった。
怒りをぶつけたかった。
だが、男のたったひと言が、
彼女の中で爆発しかけたすべてを、静かに沈めてしまう。
「おまえがここまで育てられてきたのは、今日のためだ」
琉璃の瞳に涙がにじむ。
けれど、こぼれ落ちることすらできない。
それが、道具として生かされてきた者に許された、最後の悲しみだったのかもしれない。
男は身をかがめ、彼女の耳元でささやいた。
「彼を探せ」
「彼に触れろ」
「そして――門を開け」
琉璃の意識は、必死に叫んでいた。
違う。
私は道具なんかじゃない。
けれど、身体はあまりにも長く飼い慣らされていて、
その反抗を声にすることすらできなかった。
そのとき、彼女はようやく理解する。
自分の幸福は、檻だった。
自分の家庭は、舞台装置だった。
自分の完璧な人生は、
ただ彼女を「鍵」に育て上げるためだけのものだったのだ。
黒衣の男は、ゆっくりと身を起こした。
冷たい光が彼の輪郭をなぞる。
まるで、神の影のように。
彼は長く待ちすぎた。
星間法の制約さえなければ。
地球の上層部が次第に従わなくなり、ついには抵抗までし始めなければ。
こんなにも何十年もの遠回りをする必要はなかった。
だが――
それでも、すべては待つに値した。
あらゆる想定外の出来事は、彼にとってはむしろ味わうべき美味だった。
たとえば今日、琉璃とE-0が出会い、そのあいだに生じた共鳴。
あれほど甘美な感覚を味わったのは、久しぶりだった。
そして、琉璃の成長を見守ること自体も、彼には実に興味深かった。
乳児だった彼女の管理を引き継いで以来、
彼女の喜怒哀楽、思考、感情、幸福、葛藤、苦痛――
そのどれもが、最初は彼をひどく魅了した。
そこまで思い至ったところで、男はふと、わずかな喪失感を覚えた。
――これが、「思いどおりにならない」という感覚か。
それすらも、彼には新鮮で面白かった。
その思考はほんの一瞬で終わる。
男は再び、琉璃に言った。
「明日、おまえはいつもどおり学校へ行く」
「これまでどおり微笑み、これまでどおり完璧でいろ」
「何もなかったふりをしろ」
「ただ一つ違うのは――彼に近づけ」
男の声音に、ほんのわずかに人間らしさが混じったからだろうか。
その隙に、琉璃は少しだけ身体の自由を取り戻した。
弱々しく。
それでも勇気を振り絞って、探るように尋ねる。
「……もし、嫌だと言ったら?」
問い終えたあとも、男はただ彼女を見つめていた。
その瞬間、
彼の瞳の奥で、ごく淡い銀の光が揺れた。
そして、天気を告げる放送のように平然とした口調で言う。
「安心しろ。おまえはそうする」
そのひと言で、
琉璃の世界は完全に崩れ落ちた。
思考と身体は、もはや切り離されてしまったかのようだった。
そして門もまた、
鍵が触れるその瞬間を、ただ静かに待っているようだった。




