語れぬ母
白石紀惠は、ずっと知っていた。
いつか、この日が来ることを。
ただ、まさかこんなにも早いとは思っていなかった。
色白で、ころころと太っていて、いつも自分の脚にしがみついてきた赤ん坊の頃の姿を思い出し――紀惠は思わず、かすかに笑みをこぼした。
だが、玄関の開く音が、その記憶を断ち切った。
その日、白石明が帰宅したとき、顔色はいつも以上に白かった。
今夜、紀惠に夜勤がないと分かっていたからかもしれない。
明は何も言わなかった。
ただ黙って上着を掛け、いつものように食卓の前に座る。
卓上に並ぶのは、簡素な食事。
配給基準どおり、栄養だけはきっちり整えられた献立。
この都市の暮らしは、いつだってそうだ。
生きることはできる。だが、定められた範囲の中でしか生きられない。
紀惠は息子を見つめた。
胸の奥で、一本の弦がぴんと張る。
「昨日の更新……無事に終わったの?」
なるべく何でもないふうを装って、そっと訊く。
本当は聞きたくなどなかった。聞かなければ、現実を少しだけ先送りにできるかもしれないからだ。
この十六年、彼女はそうして生きてきた。
ときおり現れる見知らぬ人々。
家の近くを絶えず漂う監視球。
一定の間隔で越してくる新しい隣人。
入れ替わり続ける職場の同僚。
夜ごと、あちこちの仕事先で妙に顔を合わせる常連客たち――
聞きたくはない。
けれど、聞かずにはいられなかった。
そして明の目を見た瞬間、紀惠の胸は深く沈んだ。
その目は、母親を見ているのではなかった。
答えを見ていた。
「母さん」
明が言う。
「俺のデータ、空白だった」
こん、と。
箸が床に落ちた。
小さな音だった。
だがそれは、何かの判決が下された音のようでもあった。
紀惠の指先が、かすかに震える。
彼女はゆっくりと腰を折り、箸を拾おうとした。
その動きは遅く、やけに丁寧で、まるで時間を引き延ばしているみたいだった。
だが明の声は、彼女に逃げ場を与えない。
「サービスステーションの人に言われた。俺は……“仮保存された人間”みたいだって」
仮保存。
その言葉は、錆びついた刃のように、ついに封を切り裂いた。
そうだ。
どれほど鈍い刃でも、何度も何度も同じ場所をなぞれば、やがては何だって裂ける。
まして、十六年だ。
紀惠は顔を上げた。
目の縁が赤い。
「あなたは……知るべきじゃなかった」
かすれた声でそう言う。
「知ってほしく……なかったの」
それはほとんど、懇願だった。
その様子に、明も喉を詰まらせた。
だがわざと突き放すように言う。
「じゃあ俺は、何なら知っていいんだよ。父親のことか?」
返ってきたのは、沈黙だった。
それは母の逆鱗だった。
紀惠にとって、触れられたくない記憶。
まして、それを明の口から聞くことなど。
「母さんは、いつもそうだ。いいことも悪いことも、全部一人で抱え込む!」
明は感情を抑えきれず、立ち上がった。
「俺はここにいる! ちゃんと俺を見てくれよ!」
長く押し込められてきたものが、ようやく出口を見つけたようだった。
紀惠は、とても立派な母親だった。
明の面倒を細やかに見て、食べるものも、使うものも、できるだけいいものを与えてきた。
怒鳴ることも、叩くこともなく、ただ優しく言い聞かせる。
静かに、きちんと、あらゆることを先回りして片づけてくれる母だった。
――明が、物心つくまでは。
成長するにつれ、明は気づいてしまった。
母の視線は、いつも遠くを見ていた。
あるいは、もうこの世にはいない何者かの面影を見つめていた。
ただ一つ、今ここにいる自分だけは見ていなかった。
明はずっと、母の視線を追いかけながら育った。
うまくいっても、失敗しても――母は微笑んだ。
成績がよくても、宿題をきちんとやっても――母は微笑んだ。
授業をさぼっても、喧嘩をしても、隠れて煙草を吸っても――母はやはり微笑んだ。
変わらないその笑みは、打ち破れない壁のように、二人のあいだに立ちはだかっていた。
だから、いつまで経っても、二人は遠いままだった。
ずっと。
ひどく、遠いままで。
明の反応を見て、紀惠はようやく悟る。
この子は、もう大人になったのだと。
彼女は立ち上がり、窓辺へ向かった。
窓の外を、監視球がふわりと横切る。
冷たい眼球のように、じっとこちらを見ている。
紀惠は一瞬、あれと視線が合った気さえした。
深く息を吸い込み、決意を固める。
しゃっ、と遮光カーテンを引いた。
部屋はたちまち暗くなった。
まるで、あの分娩室の夜、白い光が満ちる前に戻ったように。
振り返った彼女の声は、ひどく掠れていた。
「明。あなたが生まれた日……システムは、あなたの存在を認識しなかったの」
明の心臓が、強く縮む。
「やっぱり……」
紀惠は歯を食いしばり、まるで十六年間体内に埋め込まれていた毒を、ようやく吐き出すみたいに言った。
「彼らはあなたを連れて行った。データの衝突を調べるためだって……。私は、あなたの顔すら見せてもらえなかった」
そこで一度、言葉が途切れる。
あのときの無念が、今もまだ胸の奥に残っているのだろう。
「私は泣いたわ……必死に頼んだ。言われるままに、すべての条項に署名した」
「このまま、あなたを失うんじゃないかって思った」
涙が、彼女の頬を伝う。
「毎日、怖かった……また連れて行かれるんじゃないかって。怖くて、あなたのことを長く見つめることさえできなかった」
紀惠は震える息を整えた。
「だって、長く見てしまったら……どうしても考えてしまうから」
「もし明日、あなたがいなくなったら――私は、どうすればいいのって」
明は息を呑んだ。
母の恐怖を、初めて本当の意味で聞いた気がした。
「でも……三日後、彼らはあなたを戻してきたの」
紀惠はできるだけ落ち着いた声で言った。
その言葉の中に、明自身にまつわる秘密が眠っているかもしれない。
だからこそ彼女は、なるべく当時のままを再現するように、慎重に言葉を選んだ。
明の声が震える。
「戻してきた?」
「ええ」
紀惠は、笑った。
泣くよりもひどい笑みだった。
「まるで返品されたみたいに。あの人たちにとって、しばらく不要になった物みたいに」
明の指先が、すっと冷えていく。
「なんでだよ」
紀惠は目を上げた。
初めて、真正面から息子を見た。
「あなたが、“サンプル”だったからよ」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
明の脳裏に、いつもの夢に現れる銀色の空がよぎる。
意味の分からない、あの言葉も。
「サンプル……って、どういう意味だよ……」
紀惠の唇が震えた。
あの日のことを、思い出すこと自体が苦痛なのだ。
「分からない……本当に分からないの」
彼女は低い声で言った。
「ただ、あの日ここへ入ってきた人たちの中に……政府の人間には見えない者がいた」
「その人たちの目が……あまりにも静かだったの」
明の背筋を、冷たいものが駆け上がる。
「静か……?」
紀惠は頷いた。
人間ではない何かを思い出すように。
「感情がないみたいだった。……屠殺人が家畜を見るときの目に似ていたわ」
明は拳を握りしめた。
「じゃあ、うちはずっと監視されてたってことか?」
紀惠は答えない。
だが、その沈黙こそが答えだった。
……
――夜。
明の部屋は暗い。
カーテン越しに差し込む監視球のかすかな光だけが、制度そのものの呼吸みたいに、細く部屋を染めていた。
ただ一つ違っていたのは――
今夜の監視球は、明らかに数が多く、巡回も密になっていることだった。
まるで紀惠の言葉が、そのまま現実になって押し寄せてきたみたいに、頭から離れない。
明はベッドの縁に腰を下ろし、何を考えればいいのかも分からずにいた。
考えるべきことが分からない。
そもそも、考えたところで何ができるのかも分からない。
全部、夢ならよかった。
昨夜の夢も、ただの夢であればよかった。
だが真実は、いつだって残酷だ。
知らないうちは、誰だって知りたがる。
けれど知ってしまった後は、むしろ「知らなかったこと」にしたくなる。
知ってしまったのに、何もできない。
その無力さが、明の胸をじわじわと圧迫していた。
そうか。
自分は、母の恐怖の中から生まれてきたのだ。
まるでこの世界そのものが、最初から自分を見逃すつもりなどなかったみたいに。
だが、実際には――
この世界は、誰一人として見逃してなどいなかった。
翌日、明はいつもどおり学校へ向かった。
恐怖を理由に立ち止まることは、制度が許さない。
この都市の教育システムは、最も完成された馴化装置なのだ。
すべては、もう骨の髄にまで染み込んでいる。
廊下では、生徒たちが笑い合っていた。
点数の話。
抽選の話。
誰それの生命価値がまた上がったとか、そんな話。
まるで、以前広場で聞いたあの絶叫など、ただの環境音にすぎなかったかのように。
キーン――
キーン、キーン――
授業開始のベルが鳴る。
明は窓際、後ろから二番目の席に座っていた。
視線はやや虚ろだ。
そのとき、ふと思う。
この人たちは、本気で「ランダム」を信じているのだ。
死はただ運が悪かっただけだと、本当に思っている。
だから、こんなにも“幸せ”そうに生きていられる。
この信仰は、嘘よりもよほど強固だ。
なぜなら、それは誰かに押しつけられたものではなく――
自分で選んで信じているものだから。
眠ったふりをしている人間を、起こすことはできない。
明は、いっそ自分も信じてしまいたいとさえ思い始めていた。
そのとき、教師が教室の扉を開けて入ってきた。
その後ろに、一人の転校生を伴って。
「みなさん、今日から新しいクラスメイトが来ます」
続いて入ってきた少女は、きちんと制服を着こなしていた。
長い黒髪は夜のように深く、けれど毛先だけが光を受けて、かすかに銀青を帯びている。
整った顔立ち。
細くしなやかな体つき。
誰が見ても、学園の花と呼ばれておかしくない美少女だった。
男子たちは目を輝かせ、声も出せずに見入った。
女子たちもまた、息を呑むような視線で彼女を見つめ、小さくざわめく。
「はじめまして。天城琉璃です。今日からみなさんと同級生になります。よろしくお願いします」
琉璃は、過不足のない落ち着いた声でそう言った。
その名前が落ちた瞬間、教室の空気がほんの一瞬だけ静まり返る。
明も顔を上げ、彼女を見た。
天城琉璃の瞳。
夜のように深い、灰色。
直後、歓迎の拍手が起こった。
ぱち、ぱち、ぱち――
「はい、そこまで」
教師は拍手を止め、琉璃に席へ着くよう促す。
そのまま授業が始まる流れだった。
「はい」
琉璃は柔らかく応じた。
その声は、薄い氷の一片のように澄んでいて冷たい。
窓際を通り過ぎたとき、彼女もまた明に気づいた。
二人の視線が、空中でぶつかる。
言葉はない。
理由もない。
予兆すらなかった。
だがその瞬間、琉璃の胸が強く締めつけられた。
見えない手に心臓をひとつ握られたみたいに。
明もまた、身体をこわばらせる。
ほんの一瞬だった。
琉璃の瞳の奥で、銀色の細い環が閃いた気がしたのだ。
錯覚と思うには、あまりにも鮮烈だった。
琉璃の白い指先が、わずかに冷える。
そして、脳裏に知らない言葉が浮かんだ。
――E-0。
彼女は一瞬、息を止めた。
E-0が何なのかは分からない。
だが今は、平静を装うしかない。
自分に課してきた“完璧”を、崩すわけにはいかない。
けれど、この瞬間から、彼女は感じ始めていた。
もしかすると自分は――
もう、自分ではいられなくなるのかもしれない、と。




