空白のファイル
白石明が、自分は「存在していない」のだと初めて意識したのは、十六歳の年だった。
その日は、都市の定例身分更新日だった。
すべての市民は、十六歳の誕生日を迎えてから七十二時間以内に、最寄りの生命サービスステーションへ行き、情報の同期を完了しなければならない。
システムはそこで、その人の価値指数、リスク等級、そして次の段階における生存配給を再計算する。
都市はそれを、こう呼んでいた。
【成長福祉】
明はサービスステーションの列の中に押し込まれるように立っていた。
前にも後ろにも、同い年くらいの若者たちがずらりと並んでいる。皆、統一された灰青色の制服を着て、顔には「教育された静けさ」とでもいうべき落ち着きが貼りついていた。
彼らが話しているのは、点数のことだった。
「前回の更新で、生命価値が74まで上がったんだ」
「いいなあ。俺なんて62だよ。60を下回ると“不安定リスト”入りって聞いた」
「そんなに気にしなくていいって。どうせ最後はランダムなんだから」
最後のひと言は、あまりにも軽かった。
冗談めいてさえいた。
まるで天気の話でもしているように。
明には、それがおかしいとは思えなかった。
むしろ、笑えるはずがなかった。
どうしてみんな、あんなにも気軽に死を口にできるのだろう。
「もっと重い話題であるべきじゃないのか?」と、明は心の中で思う。
死とは、別れだ。
もう会えないということだ。
会いたくても、その人には二度と会えないということだ。
彼は左手首に巻かれた赤い紐にそっと触れ、祈る。
もう二度と、母に会えなくなるのは嫌だった。
母から自分が見えなくなるのも嫌だった。
そんなことになったら、母はきっと、とても寂しい。
明はよく見ていた。母が部屋でひとり、赤い紐の切れ端を固く握りしめ、写真を見つめたままぼんやりしている姿を。
それは、明が一度も会ったことのない人を想っている顔だった。
けれど、母にとってはとても大切な人――明の父親だ。
明が知っているのは、自分が生まれる前に、父が「ランダム死」によって命を奪われたということだけだった。
あまりにも突然で、母は自分が妊娠したことの喜びすら、父に伝えることができなかったのだという。
明はうつむき、自分の手首を見た。
そこには赤い紐があり、その下には、細い透明なチップの痕がある。
生まれたときに埋め込まれた、身分核の痕跡だ。
誰にでもあるものだ。
それは、あなたが存在している証。
そして同時に、あなたが管理されるための入口でもある。
形のない父という存在よりも、明にはこの痕のほうが、よほど現実的に思えた。
みんな前へ進んでいく。
この中で、両親がそろって生きている人は、どれくらいいるのだろう。
明は少し羨ましく思った。
列は知らぬ間に進み、サービスステーションのガラス扉が自動で開く。
ついに明の番が来た。
中には、ひとりの女性職員が座っていた。
まだ若い。化粧は清潔感があり、目は、波ひとつ立たない水面のようだった。
一日中働き続けて感情が摩耗したのか。
それとも、ずっと前からもう麻痺していたのか。
そんなことをぼんやり考えていると、彼女は顔を上げ、規格通りの微笑みを浮かべた。
「お名前をお願いします」
「白石明です」
「生年月日は?」
「六月十七日です」
女性職員は画面の上で指を数回走らせた。
次の瞬間、その微笑みが止まった。
明は、その一瞬で空気が変わったことに鋭く気づいた。
何か、目に見えない警報が押し殺されたような感覚だった。
職員は小さな声で言った。
「少々お待ちください」
さらに数回、キーを打つ。
だが画面に現れたのは、通常のデータページではなかった。
――空白。
女性職員の瞳がわずかに収縮する。
彼女は明を見上げた。声音は落ち着いていたが、そこには気づかれにくい緊張が混じっていた。
「あなたの身分核には……対応するファイルがありません。まるで、正式に登録されたことが一度もないみたいに」
明は凍りついた。
「どういう、意味ですか?」
彼女は答えず、机の下にあるボタンを押した。
ガラス扉の向こう、待合スペースは相変わらず騒がしい。
ここで何が起きているのかに気づく者は、誰もいなかった。
彼女の声は、さらに低くなる。
「保護者はいますか?」
「母がいます」と明は答えた。
「名前は、白石紀恵です」
職員は一瞬だけ間を置き、画面で検索をかけた。
「白石紀恵様のファイルは存在しています」
「ですが、あなたの――」
彼女は顔を上げ、初めて真正面から明を見た。
その目は、少年を見る目ではなかった。
もっと別のもの――“誤り”を見るような目だった。
そして同時に、自分はもうこの少年と関わるべきではないのだと理解している目でもあった。
もしかすると――二度と関わることはできないのだと。
「あなたは……仮保存された人間です」
目の前にいる十六歳の少年を見つめながら、女性職員は最後の勇気を振り絞るように、それだけを残した。
言葉の意味はわからない。
だが、明の背筋には冷たいものが走った。
「仮保存……された人間?」
職員の唇がわずかに動く。
何か言おうとしたのかもしれない。
だが、結局なにも言わなかった。
ただ彼女は、あの規格通りの微笑みをもう一度顔に貼りつけ、自分のための仮面をかぶり直し、こう告げた。
「システム遅延です。通知があるまで、お戻りになってお待ちください」
「でも――」
「次の方」
明が言葉を返すより早く、ガラス扉は開き、人の流れに押し出されるように外へ出された。
陽の下に立っているはずなのに、まるで巨大な影の中にいるような気がした。
家へ帰る途中、明は都市広場の前を通った。
広場の中央には、一体の像が立っている。
母親が赤ん坊を抱き、穏やかな顔をしている像だ。
台座には、この都市の信条が刻まれていた。
【生は計画され、生は幸運に支えられ、死はランダムに訪れる】
何度も見てきたはずのその言葉を、明はじっと見つめた。
そして突然、強い滑稽さを覚えた。
自分の生は、計画だったのか。
自分が生きているのは、幸運なのか。
では、自分の死も……やはりランダムなのか。
もしここに誰かがいたなら、きっとこう答えただろう。
「そうだよ」
「そうであるべきだし、そうでなければならない」
明はしばらく像の前に立ち尽くしていた。
そして、身を翻して立ち去ろうとしたその瞬間――広場の大型スクリーンが点灯した。
定例アナウンスが始まる。
録音された女性の声。
やわらかく、まるで子どもを寝かしつけるような口調だった。
【本日の死亡ランダム抽選結果を発表します】
広場を行き交っていた人々は、それぞれの足を止め、いっせいに巨大な画面を見上げた。
これは週に一度の「安寧抽選」だ。
政府は言う。
人口の均衡を保ち、資源の公平を確保し、すべての人の人生をより意味あるものにするためだ、と。
少なくとも、社会のために、あなたは「選ばれて」死ぬことができる。
死が制度化されているからこそ、暴走しない。
社会は安定し、すべては繁栄する。
やがて画面に、番号がいくつも並び始めた。
人々は息をのむ。
そして次の瞬間、ついに名前が表示される。
【第07342号:中島啓介】
【第11908号:高橋恵理】
【第20177号:……】
短い悲鳴が上がった。
ひとりの中年男性が、その場に崩れ落ちる。
その妻は、最後の綱にでもすがるように、彼の袖をつかんでいた。
「ランダムじゃなかったのかよ……! どうして私なんだ、どうして――」
誰も答えない。
なぜなら、ランダムであること自体が答えだからだ。
灰色の制服を着た安寧局の職員たちが、人垣の端から現れた。
その動きは手慣れていて、まるで単なる交通違反でも処理するかのようだった。
彼らは静かに言う。
「ご協力ください。ご遺族には補償ポイントが支給されます」
補償ポイント。
その言葉は、石の槌のように、明の胸を重く打った。
また、それだ。
補償ポイント。
父の死によって与えられた補償ポイントがあったからこそ、母は出産配給を得て、自分を産むことができた。
その四文字が、
父の死と、自分の生を、固く結びつけている。
裏を返せば、あのときもし母が子どもを諦め、相応の補償ポイントを受け取る道を選んでいたなら――
だが、現実に「もし」はない。
あるのは、ただ「ランダム」だけだ。
この都市では、死とは一つの取引にすぎない。
しかも数字の上だけで処理される、感覚の伴わない取引だ。
明は人混みの中で立ち尽くし、喉の奥がからからに乾いていくのを感じた。
少し前方で、自分と同じくらいの年頃に見える少女が、どうやら当選したらしかった。
少女の顔は真っ白で、全身の力が抜けたように小刻みに震えている。
友人たちは彼女を抱きしめ、泣き叫んでいた。
「昨日、海に行こうって話してたのに……!」
少女はかすれた声でつぶやく。
「ただ、運が悪かっただけ……」
運が悪かった。
生きるのは幸運。
死ぬのはランダム。
それが、この都市が彼らに教え込んだ絶対の理だった。
そのとき、任務中の安寧局職員のひとりが、何かを察したようにふいに顔を上げた。
その視線が群衆の上をなぞるように走り、やがて明のいるあたりへと届く。
その瞬間、明は奇妙な痛みを感じた。
身分核のせいなのか、それとも別の何かなのか――
だが、その視線は彼の上に留まらなかった。
職員はすぐに目を戻し、元の仕事へと戻っていく。
けれど明にはわかっていた。
あの視線は、ほんの一瞬だけ、たしかに自分の上で止まったのだ。
明は反射的に赤い紐を握りしめ、背を向けて歩き出した。
自分が何から逃げているのか。
何を避けようとしているのか。
それはわからない。
だが、ひとつだけはわかっていた。
――自分は、見つかってはいけない。
その夜、明はまた同じ夢を見た。
ただし、今度の夢は、これまでよりもずっと現実的で、鮮明だった。
夢の中で、彼は見知らぬ都市に立っていた。
空は銀色だった。
夜なのだろうか。
深く重い灰色の闇が、あたりを覆っている。
建物は蜂の巣のように並んでいた。
整然としているようでいて、どこか不自然な配置だった。
街を行き交う人々は、見た目こそ人間と大差ない。
だが、その目には共通した何かがあった。
静かすぎる。
あまりにも静かだった。
まるで、時間そのものが止められた海のように。
光景はひどく異様だった。
やがて、そこにいる全員が立ち止まり、一斉に彼を見た。
明もつられるように視線を落とし――自分の胸元に光があるのを見つけた。
何かの信号が起動したような光だった。
次の瞬間、視界が一気に遠ざかる。
複数の者たちに囲まれ、その中心に立つひとりの人物――まるで指導者のような存在が、彼をまっすぐ見ていた。
その人物が、ゆっくりと微笑む。
瞳の奥で、銀色の光がひらめいた。
そして、静かに何かをひと言、口にした。
明にはわからない。
だが、それが人間の言語ではないことだけは、なぜか理解できた。
次の瞬間、夢は崩壊した。
明は飛び起きる。
全身、冷や汗でびっしょりだった。
「はぁっ、はぁっ……」
窓の外では、都市の放送が相変わらずやさしい声で流れている。
【本日の生存指数:71】
【本日の事故確率:0.04】
【どうぞ穏やかな一日をお過ごしください】
カーテンを閉め切った暗い部屋の中で、明は激しく上下する胸を押さえながら座り込んだ。
すると、不意に、乳児のころの記憶の断片が胸の奥から押し寄せてきた。
そして彼は、ひとつのことを悟る。
自分のファイルが空白なのは、システムの不具合なんかじゃない。
そもそもシステムは、最初から自分を「人間」として扱っていなかったのだ。
自分は存在していない。
自分は仮保存。
自分はサンプル。
そして――自分は、信号でもある。
そして今、
何かが、その信号に応答し始めている。




