第二話 死を呼ぶ翼
「それは通称ウイング。覚醒剤などの薬物を極限まで薄めて、安価で販売されている薬。けど、服用を続けたら死に至るほどの危険性を持つ、死を呼ぶ翼。」
また相原さんの、いや加城陸斗の冷たい声が僕の心をえぐっていく。その一言一言が僕の顔から色と表情を抜き取っていく。やっと理解した。最悪の結末だ。
「この部活に違法ドラッグが出回っていたんですよ。」
僕の中にはもう何もなかった。ただ下を向いて、使い捨てられた包装袋を見つめているしかできなかった。
「これは、その違うんだ。」
沈黙を破ったのは村上先輩だった。
「何が違うんですか。この違法ドラッグがここにあるんですよ。あなたは状況がわかってるんですか!?」
村上先輩たちにむかって加城陸斗の怒鳴り声が響く。普段の僕がださないようなその声は先輩たちの言葉を失わせた。
「...なんだよ陸斗大きい声出して。おっ、お前だって、薄々気づいてたんだろ!!」
そうだ。僕は気づいていたのかもしれない。先輩たちが隠れて何かをやっていたことを。普段の練習のパフォーマンスが下がっていたことを。そういえば、先輩たちの味覚がおかしくなっていたのも最近だ。要素はいくらだってあった。けど、指摘するのが怖かった。転校してきて、段々とサッカー部と学校に慣れてきて、それを壊すのが怖かったんだ。僕の行動で何かすべてを崩してしまうような気配を無意識のうちに感じ取っていたんだ。
「とにかく、このことを先生に報告しにいきます。」
先輩たちにどよめきが走る。加城陸斗は部室を飛び出した。僕はとっさに加城陸斗を追いかけていった。
職員室がある本館への渡り廊下。やっと加城陸斗、相原さんに追いついた。相原さんの体ではいつもより走るのがキツイ。息を切らしながら僕は言った。
「相原さん、本当に先生に言うの?」
「ええ。まずはサッカー部顧問の亀梨先生に報告するわ。」
「そっか...でも、えっとさ....うん。」
「あなたは何で追いかけてきたの?言いたいことでもあるならいいなさいよ。」
何で...追いかけてきたんだろう。自分でもよくわからない。違法ドラッグが部内で出回っていたことは恐ろしいことだ。子供だけで扱ってはいけない領域に問題は存在していて、今相原さんがしようとしていることは正しい。けど...
「私はウイングの恐ろしさを知ってる。やっと尻尾がつかめたの。」
尻尾がつかめた?相原さんはずっとウイングを探していたような口ぶりだ。その時僕の中でいくつかの要素が結びついて一つの仮説が導かれた。
「もしかして...ここ最近ずっとサッカー部の練習を見てたのって...」
加城陸斗の表情が少し硬くなって僕の目をそらした。
「最初から、気づいてたんだ。」
僕と相原さんの間に何とも言えない沈黙が流れ、校外から聞こえるかすかな車の騒音だけが響く。相原さんの目を見ようと追ってみるが視線をそらされてしまう。彼女は後ろへ振り向いて僕に背をみせた。
「ごめん。加城くん。」
僕をどうにかして突き放そうとでもいうような、冷たい声だった。
「陸斗!!」
「加城くん!!」
その時、僕の後ろから声が聞こえた。相原さんと僕は振り返った。声の主は...村上先輩と...檜山先輩だ...!!二人とも険しい顔をしている。何か伝えたいことを抱えているように拳を強く握っていた。
「どうされたんですか。」
感情がないような、吐き捨てるような声で相原さんは言った。
「お願い!!」
檜山先輩がオドオドとする村上先輩に先立ってそう言い、頭を地面に付けた。それに続いて村上先輩も一緒に頭を地面につけ土下座をした。
「このことは、先生に報告しないでほしい。」
聞いたことないような苦しい声で檜山先輩は言った。全身が少し震えているのがわかる。再び沈黙が流れ校外の車のサイレンが響き渡る。相原さんは呆気にとられていた。
「そんな...え...土下座なんてしないでください。」
少しの時間差で相原さんは取り乱しながら言った。仕方もない。先輩方二人から土下座をされるなんて、とてもまともな気持ちではいられない。相原さんは今、大きな背徳感と罪悪感に襲われているのだろう。けど...僕は
「私からも頼みます!!先生に報告はしないでください!!」
僕は檜山先輩と村上先輩先輩に並んで頭を深くついた。檜山先輩と村上先輩が顔を上げて驚いた表情でこちらを見ているのがわかる。
「一週間後地区大会があるんだ!!先輩たちの最後の大会なんだ!!それまでは何も起こさないでほしい...僕たちが間違っているってことは分かってる!!けど叶えたいんだ...先輩方の夢なんだ...誰だって夢は叶えたいだろう!!」
「雛妃ちゃん...?」
しまった。つい感情に任せて何も考えずに発言してしまった。檜山先輩からしたら、今日入ってきたマネージャーがいきなり自分たちの夢を語っているのだ。
「でも!!その夢を壊したのは先輩方自身じゃないですか。」
相原雛妃。なんて...残酷なことを言うんだ。でも彼女は正しい。けれどその正しさと相反する気持ちが僕の中には存在して、感情と善悪とをぐちゃぐちゃにかき混ぜてくる。
「さっき、ウイングは...すべて処分した。」
これまで一言も話していなかった村上先輩が恐る恐る言った。
「三週間前、三年の柳瀬に匿名でSNSにメールが届いて、いいものがあるから学校横の廃墟の下駄箱を
覗きにいけって言われて、そこにあったのがウイングだった。興味本位でみんなで飲んじまったんだよ。その後は何回か金を払って。俺たちが馬鹿だった!!本当...馬鹿すぎて...ごめん。」
村上先輩の目からわずかに涙が見えた気がする。三週間前。そうだ、先輩方の様子が少しおかしくなったのはそのあたりだ。
「けど、もうそんなことはしねえ。相原も言ってたけど、最後の大会なんだ!!まだ...俺たちにチャンスをくれ!!頼む!!陸斗!!」
このまま頭が地面に食い込んで沈んでしまうのではないかと思うほど深く、強く村上先輩は土下座で加城陸斗に懇願した。さすがの加城陸斗、相原さんもこれには言葉を失った。ただただ村上先輩を見つめることしかできていない。
キーンコーンカーンコーン キーンコーンカーンコーン
その時、最終下校時刻5分前のチャイムが鳴った。校舎には帰りの準備をしてバックを背負い校門に向かう生徒であふれていた。いつのまにこんな時間になっていたのだろう。
「えっ、やばいじゃん。はやく終礼して帰らなきゃ。」
檜山先輩が立ち上がって言った。檜山先輩と村上先輩は部室の方へ駆け出していった。相原さんは...その場で突っ立ったままだ。ずっと地面を向いて立ち尽くし、心ここにあらずという感じだ。
「いこう。相原さん。」
僕は相原さんの、加城陸斗の腕を掴んで部室へ走っていった。
薄暗い青色と地平線あたりのオレンジ色とが混ざった空。何とか下校時刻に間に合った僕たちは校門前でしばらく立ち尽くしていた。
「陸斗、俺たち、ちゃんと明日から練習頑張るから。今までごめんな。だから...その...頼んだ。」
そう言って村上先輩は檜山先輩と並んで帰っていった。僕らとは家の方向が逆なのだ。先輩の背中からその悲壮感と罪悪感と、それでもあきらめないという決意を感じた。
「帰ろうか。相原さん。」
「...うん。」
二人とも何もしゃべらないまま学校から家まで半分のあたりまできてしまった。カーンカーンカーンと電子音が鳴り響き赤いライトが点滅する踏切前。目の前を走る電車がおこすかすかな風が僕の、相原雛妃の肩までかかったサラサラの髪を揺らす。横に自分が立っているというのも不思議なものだ。電車から漏れたあかりが相原さん、加城陸斗を点滅しているかのように照らす。
「絶対にこんなのは間違ってる...」
相原さんはそう呟いた。
「あなたが言った通り、私はサッカー部にウイングが出回ってるのをにらんでた。」
やはり、そうなのだ。彼女はずっとウイングのことを追っていたのだ。きっと証拠を見つけたらすぐにでも告発をしようと...でも、どうしてそこまでして?今の僕には分からない。けど、彼女にも何かの決意を、かたい意志を感じる。どうしようもないのかもしれない。悪いのは...僕らだ。ずっと目をそらしてきた僕らだ...僕は拳を固く握りしめ、唇を思いっきり嚙む。そうやって立ち尽くすしかない自分を卑下するように。
「でも、誰かに告発することが目的でもない。」
えっ?っと予想外の一言に思わず声をこぼした。
「学校横廃墟の下駄箱。そこで取引がおこなわれている。その情報がつかめただけでも万々歳よ。そこにいけば、奴にたどりつけるかもしれない。それに、大人に頼るのは嫌いだ。」
相原さんの冷たく吐き捨てた言葉が僕の胸に突き刺さる。彼女はどうしてそんなことを言うのか。
「私の目的は...奴にたどりつくこと。だから、もう少しあなたたちを泳がせることにする。」
相原さんが、加城陸斗の目が視線が僕の目に集中する。その目は寒くて凍り付いたような目だった。
「相原さん...あ...ありがとう。」
心から喜ぶことはできない。今僕らがやっていることは間違っていることだ。彼女に何か大きな傷を背負わせているものなんだ。奴とは何者なのか、大人を頼るのがなぜ嫌いなのか、その時の僕は聞き出すことができなかった。
「てか、あなたの家教えてくれない?私帰れないんだけど。」
相原さんに教えてもらった相原さんの家についた。住宅街の中にある二階建て一軒家で、オレンジ色のレンガ風屋根、ナチュラルブラウンの外壁などの可愛らしい外装だ。そういえば、女子の家に入るのは...はじめてだっ!!そう思った瞬間とんでもない緊張が僕を襲った。ばくばくと心臓が鳴る。恐る恐るドアノブに手をかけた。ドアノブを回転させて扉を引く。
「た...ただいま。」
ぎこちない声でそう言った。家の中はきれいに片付いていて、玄関の棚には小さいころの相原さんの写真たちや可愛らしい動物の人形が飾られている。しかし、全体的になんだか家の中が暗い気がした。人気もあまり感じないのはなぜだろうか。そう考えているうちに奥の部屋からどたどたとこちらへ誰かが向かってくる足音が聞こえた。ドン!!と勢い良く扉を開けてでてきたのは、長い髪が少し乱れた中年の女性。あっけにとられているような顔をしている。相原さんのお母さんだろうか?
「雛妃、今...なんて言った?」
脱力した声でその女性は言った。僕は一瞬固まりながらもさっき放った言葉を探した。
「た...ただいま?」
玄関扉の小さな窓からかすかな月の光がさす。青白いそれは相原さんのお母さんであろう女性を照らした。そして彼女の目には...涙があふれていた。次の瞬間、彼女は泣き崩れた。今までに聞いたこともない声で嗚咽交じりに泣いた。いきなりなもので僕もどうしていいかがわからない。だんだんと怖くなってこの場に居ても立っても居られなくなった。
「あっ、え、ごめん!!お腹すいてないからもう寝るね!!お休み!!」
僕は階段をのぼって二階に上がった。相原さんの部屋は二階あると教えてもらっていたのだ。扉を強く閉めて電気をつけ、背中を扉によりかけ深呼吸をする。相原さんは一体どんな生活をしてるんだ?本当に不思議な人だとは思っていたけれど、ここまでくると少し怖いのだ。
「お風呂は絶対ダメ!!トイレするときも下は見ないでね...殺すよ。」
去り際、相原さんにそう言われた。見る気になれるわけがない。本当に殺される可能性もあるのではと考えてしまう。しばらくして落ち着いてから、僕は相原さんの部屋を見渡した。全体的に明るい色をした家具たち、ピンク色のカーテン。部屋や家だけを見ると普通の女子高生だ。といっても、女子高生の部屋に入るのははじめてだが。一階から走って二階に上がってきたからか汗で制服がべたついている。さすがにこのまま寝るというわけにもいかず、恐る恐るクローゼットを開けた。ごめんなさい相原さん!!クローゼットからパジャマを探す。時折り下着が見えてしまい目をそらす。とんでもない背徳感だ。そんな不純な自分が嫌になって僕はクローゼット横の壁を叩いた。その瞬間、
ガランッ!!
と音がして壁が180度回転した。体勢を崩した僕は倒れてしまった。
「いててて...」
なにが起こったかわからないまま壁の方にもう一度視線をやると、僕は驚きで目を丸くした。そこには大量の写真や地図、資料が貼ってある禍々しい巨大なホワイトボードがあった。ウイングドラッグの写真が目に飛び込んできた。
「私の目的は...奴にたどりつくこと。」
相原さんの言葉が僕の頭に響き渡る。その時、巨大なホワイトボードから一枚のメモが剝がれ落ちてきた。なにか手書きで文字が書かれている。
ーーー花江恵は人殺し
背筋が凍り付くようだった。そのメモの文字はかすかににじんでいたが、それでもはっきりと、訴えかけるように力強く書かれていた。
相原雛妃...彼女は一体?