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第135話 武の頂点

 黄飛鴻ウォン・フェイホン

 今、そう言ったのかこの男は。

 明らかな中国の人名。ただ僕はその名をしっかりとは知らない。確か近現代の武術家とかなんとかだったはず。その程度だ。


 けどその強さがいかほどにせよ、この場、この時に至っては最強の相手だ。

 数万、いや、数千、いやいや数百の軍が戦う場所じゃない。数人対数人のこの場。そこにおいて武術家というのは脅威を極める。主に1対1を想定して技を練り上げた武術は、これまでの戦いとはまったく様子の異なる相手になりえる。


 今、10メートルほどの距離を保って対峙するこの男。

 たった2人。しかも押しかけ強盗同然の僕らに対し、泰然とした様子で腕を後ろに組んで佇んでいる。しかも軍神の力を使えば、10メートルの距離などひとっとびだ。

 先手必勝。一気に叩いて突破するそうすることがここでの近道なのに。


 勝てる気がしない。

 いや、攻撃が当たる気がしない。


 ただ立っているだけなのに。

 この威圧。この自然体。

 恐ろしい。


 それを感じ取っているのか、千代女、小松、誾千代、八重は黙って動かない。動けない。


 ただこの男は違った。


「ゼドラ皇帝親衛隊四天王。ふっ、笑止だな。だが悪くない。吾輩がこの都を取り戻したら、すぐにアカシャ四天王を設立させようではないか」


「その格好、噂の旧アカシャ帝国皇帝ですな。残念ですがそれはありえません。我が主の命令。すなわちこの奥に進むことの防止、そして……アカシャ皇帝の抹殺。ゆえに貴殿は再び帝位につくことはありますまい」


「異邦人のジジイ。言っていいことと悪いことがあるぞ」


「はて、今のは言ってよいことかと。確定事項ですので」


 一瞬、何かを感じた。咄嗟に手が出る。左手。皇帝の前へ、顔面の前に差し出す。傍にいるラスやアイリーンも気づいていない。

 しまった。行動して後悔する。赤煌しゃっこうを失った僕はまったくの無手。

 対する飛来するものは銀色の光を放つもの。剣かナイフか。分からない。いずれにせよ刃物であることは明白。つまり僕の左腕に刺さるということ。

 敵の本拠地に来て早々、片手を失うのは辛いけど開幕早々に旗頭はたがしらを失うよりマシだ。


 だから痛みに歯を食いしばると、


 キィン!


 金属音が鳴った。

 もちろん僕の左腕が金属製というわけじゃない。金属と金属が当たって弾けた音だ。


 カラン、と何かが落ちる音。皇帝の一歩前に落ちたのは、先端がナイフのようにとがった10センチくらいの棒。ただ、ナイフというには握り手がなく、刃に当たる部分がない。

 どちらかといえばサイズも形も釘に近いか。いや、棒手裏剣だ、これは。あるいは暗器という奴かもしれない。

 そんなものをこうも高速で投げられれば、肉の奥までえぐり届くのは明白。そして僕の行為に何の意味もなかったことの証明だ。こんなものが投げられれば、僕の腕を貫通してその奥の皇帝の顔面をえぐるのはわけない。

 僕が無駄に負傷して、それでいて皇帝が死ぬ。最悪のシナリオだった。


 それを防いだのは、


「千代女」


「イリス、無事?」


「あ、ああ。助かった」


 クナイを握った千代女が小さくうなずく。

 どうやらあれで棒手裏剣を叩き落したのだ。


「イリスに手を出した。火葬の準備はできてるか、ジジイ」


「ちょ! 今、吾輩殺されそうになったんだけど! 怒るのはそっちだろう!」


「黙ってて」


「……はい」


 千代女がいつになく強い口調で押しとどめる。


「吾輩皇帝なのになぁ……」


 としょぼくれてしまった皇帝陛下だが、今、自分の命がどれだけ危険だったか分かっているのだろうか。

 どちらかといえばその周囲にいる人間の方が危機に対して明確に反応した。

 誰もが自分の得物を取り出して敵対する黄飛鴻ウォン・フェイホンに対する。


 その様子を見た黄飛鴻ウォン・フェイホンは、首を横に振りながら小さくため息をつき、


「やれやれ、火に油ですか。あまり闘争は苦手なのですが」


「皇帝を暗殺しようとして何を言うか。伝説の武術家の名が泣くよ」


「ほぅ。お若く、異国の貴女が私をご存じで」


「詳しくはないけどね。けど、強いことは知ってる」


「私などしがない武の探究者ですよ。強さを誇示するほどの人間じゃあない」


「しらじらしい」


 そうでなきゃ、近現代史が苦手な僕が知ることはない。


「イリス、もう殺していい?」


「千代女、ちょっと待ってくれ」


 どうしてこうも僕の周りは血の気が多いんだ。


黄飛鴻ウォン・フェイホン、さん? 悪いけどそこを通してもらえますか。この世界はどうしようもないところまで混迷にはまってしまっている。それを終わらせるために僕らは来たんだ」


「それはできません。私が主に叱られてしまう」


「一介の武術家が宮仕みやづかえを?」


「鍛錬のためには場所を選びません。が、ただ1つだけ足りないものがありましてな」


「足りないもの?」


「強敵です。私の鍛錬した結果を示す相手。それがいない。多流派の交流試合や身内の戦いなどどうでもいい。ただ単に武の追及を示す場所。その中で、このゼドラ国というのはとても良い」


 林冲とかと一緒で、この人も戦闘狂バーサーカーかよ。大人しい顔して。


「どうしてもどかないと?」


「ええ。であれば私を倒してから進んでもらいましょう」


 そう言って黄飛鴻ウォン・フェイホンは右半身になる。それでいてだらんと両手を下にして腰を落とす。

 よくある中国武術のように手を前に出したりしない。ただ腰を落として突っ立っているだけに見える。

 だがそれが逆に怖い。

 すべてが自然体。この10メートルの距離も、ひと跳びで来るんじゃないかという恐怖。皇帝を除いて8対1が全然有利に働かないような錯覚。


 空気が張りつめる。

 次こそは一瞬の油断もない。10メートルの距離はないものと思う。それでいて先手必勝。当たらなくても勝ち目がないと感じてもいい。そう。この戦い。敵を倒すのが勝利条件じゃない。皇帝をゼドラの自称皇帝の前まで連れて行くことが重要。


 互いににらみ合う。

 そしてその張りつめた空気が破裂――


「フェイ」


 その寸前。

 男の声が遮った。


 止まった空気が流れだす。

 ほんの数秒の間。それなのに、ドッと汗が噴き出してくる。


 誰がと思ったが、皇帝の声じゃない。他の仲間は全員女性だ。ということは――


 黄飛鴻ウォン・フェイホンが腰を上げて横を見る。

 そこにいたのは白の布をまとった美男子だ。青空色の瞳に、目鼻整った顔立ち。金色の髪は巻き毛になっていて、どこか爽やかさを発している。

 ただむき出しの上半身はそれなりに引き締まっていて、ただの好青年なわけではないと分かる。


 そうだ。黄飛鴻ウォン・フェイホン以外にももう1人いた。

 あまりに何も反応がなくて忘れていた。


 それにしてもこの古代ギリシャ風の男。誰だ。体は鍛えているみたいだけど、それほど武の気配を感じない。スキピオは貧弱だけど、それよりは戦えそうだけど、黄飛鴻ウォン・フェイホンほどの圧はない。

 古代ギリシャ系といえばあとは、カエサルとかポンペイウスあたりか。服装や冠をつけていないことから皇帝ってことはないだろう。


 ただ誰であってもイレギュラーということはスキルを持つ。それだけで油断はならない。

 そしてそれは見事に、予想外の方向で当たっていた。


「ああ、そうでした。ここはあなたに、でしたね」


 そう言って完全に構えを解いた黄飛鴻ウォン・フェイホンは、くるりと背を向けて、その男の肩に手を乗せる。


「では頼みましたよ、スパルタクス殿」


 スパルタクス?

 どこかで聞いた気が……って、まさか!!


「皆さん、それではまた会いましょう。最後まで生きていれば、ですが」


 そう言って黄飛鴻ウォン・フェイホンは奥へと続く扉を開いてその中に消えていった。


 古代ローマ。最強の男を残して。

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