*58
湖鬼神は朝焼けの光に傷だらけの身体を晒して身動ぎもせずにいた。
「湖鬼神……!」
名を呼ばれて、漸く声の方に視線を向ける。
近づいて来る大軍勢の先頭に二つの見覚えのある顔があった。
一人は、老将軍・玄信天翁。懐かしい養父。
そして、もう一人は、姫将軍・玄頻迦。愛しい女。
「間に合ったようだな?」
老将軍は白い髭の中で笑った。
背後では湖族尖兵隊と刃を交える帝国兵の怒号が響いている。
とはいえ、紂将軍の声は既に朝風にちぎれて遠い。
「クソッ、退け、退け──! ここはいったん退却だ……!」
まだ、湖鬼神は夢から醒めたばかりの人のように少し呆けていた。
頻迦が馬を寄せると騎乗のまま抱きついた。
「湖鬼神!」
湖鬼神はされるがままの姿勢で老将軍を見やった。
信天翁は笑って頷いている。
「思ったよりずっと早く父の軍が到着したのだ! だから、私はすぐこうして……」
耳元の頻迦の声が涙で詰まった。
「だが、よく逃げてくる俺を見つけ出せたな? この広い沙海で……しかも、夜の闇に中に……」
「ああ! それは」
目を瞬いて頻迦、
「沙嘴国へ向けて馳せ参じる途上、あの娘が、突然叫びだしたのよ」
螢が見える、と言って……
螢がいる、と言って……
「見たら、その通り! こっちに妙な光が拡がっていて……近づいたら螢の大棲息地だとわかったの。これほどの大群は私も初めて。そして、なんとその中におまえの姿がくっきりと浮き上がって見て取れた……!」
それにしても、と姫将軍は首を振った。
「あの娘が叫ばなかったら通り過ぎていたわ。せっかくここまでやって来たのに私たちは行き過ぎて──出会うことはできなかったはず。本当に連れて来て良かった!」
「あの娘……」
湖鬼神は頻迦の見ている方へ目をやった。
古参の湖族兵と相乗りしている異教の娘。可愛らしい赤毛の女の子。
「ああ、そうか。おまえ、螢の──」
弟の許嫁だ。
湖鬼神は馬を降りるとゆっくりと近づいた。
ジニーも兵に助けられながら馬から降りた。
砂の上で二人は見つめ合った。
「湖鬼神……無事で良かった……」
ジニーの瞳に見る見る涙が溢れ出す。
「あ、あなたまで、死んでしまったら、私……私……」
「俺が誰か、おまえは知っているか?」
ハッとしてジニーは顔を上げた。
まじまじと黒髪の湖鬼を見つめる。
湖鬼神はきっぱりと告げた。
「俺は、月なんだ」
「え?」
「何だと!?」
最も大きな声を上げたのは頻迦だった。姫将軍は甲冑を鳴らして父を振り返った。
「父上……まさか……!?」
玄信天翁はただ無言で頷くのみ。
ジニーは涙に濡れた頬のまま、黙って月に抱きついた。
遥々訪ねて来た肉親を歓迎して、誰もがそうするように。
老将軍・玄信天翁は湖族連衡軍の幕営で湖鬼神と娘、そして、ジニースーシャに真実を語ってくれた。
「私は殺せなかったのだ。
人間とは得体の知れないものだ。
殺すことを生業としているこの湖鬼の将が、殺すべき正当な理由のある子供一人、刃にかけるのを躊躇した。
それで──
その子は大怪我を負っていたし、別に私自身が手を下すまでもない、時間が始末をつけてくれるだろうと私は市井に捨て置いた。
そして、湖族の誰もが、帝国に与した沙嘴国の悲運の第二王子の死を信じ、且つ忘れた頃、
私自身すら、己のとった行動について忘れ去った頃、
私は再びその子と会ったのだ。
その日、凱旋帰国した宗都・湧の往来で、なんと、その子はかっぱらいの罪で黒髪を地に下げて逆さに吊るされておった……!
尤も、最初は私もその子の正体に気づかなかった。その姿はあまりにも湖鬼じみていたし。
だが、ほとんど裸同然のその子の、痩せた脇腹に燦めく三日月型の傷が何よりの証拠だった。
あの──怪我も治りきっていない体で、市井に放り出された幼い王子が生き抜いていたとは……!
私が捨ててから後、王子の心身を襲った変貌の嵐はどれほど凄まじいものだったろう?
宛ら、そのことを証明するかのように、その子は、満ち足りて育った王子としての過去の記憶を全て喪失していた。
勿論、私はその場で金を払ってその子を買い取った。
屋敷に連れて帰り、直々に鍛えあげ、湖族の将と成した。
今では、我が湖族連衡内で〝湖鬼神〟の名を知らぬ者はない。
そして、その男が孤児であり、この老将軍の眼鏡にかなって辻で買い取られたという逸話を知らぬ者もないだろう。だが──
その男が本当は誰であるかは、
本人も含めて、私以外の誰一人として知る者はなかったのだ。
今日に至るまで……」
老将軍は苦悩に満ちた顔で彼の物語を締め括った。
「私は一生、誰にも話すつもりはなかった──」
「父上……」
姫将軍は驚嘆とも憐憫ともつかない声を上げた。
湖鬼神は一揖した後、静かに腰を上げるとそのまま幕舎を出て行った。
流石にこの時ばかりは頻迦は湖鬼神の後を追わず、父の傍に残った。
長らく抱えて来た重い荷を降ろした人のように老将軍は己の両手をじっと見つめていた。




