*56
湖鬼神は顎を上げ屹立している。
その姿に須臾王子を重ねて、再度苦笑する紂謖だった。
「……ったく! おまえ等、湖鬼どもはいい根性してるぜ。しかし、〈沙海の覇者〉と恐れられたおまえさんとしては、今度ばかりは馬鹿な真似をしたもんだな? いくらおまえでも無茶と言うもんだぜ。よりによって、我々帝国軍の制圧国へ単身乗り込むとは! しかも」
ここで紂は言葉を切って、湖鬼神の剥き出しの上半身に一瞥をくれた。
砂塗れの肩から胸にかけて、巻かれた巾は血に染まっている。
「なるほどな? それが? 俺たちの夜襲の置き土産か。そんな体で、よくまあ……!」
隻眼を歪めて帝国派遣軍総帥は微笑んだ。
「ああ、そうか! そうまでして? 可愛い情夫を助け出したかったってわけか!」
湖鬼神の目に炎が走った。
構わず、紂はしたり顔で続ける。
「そいつぁ残念だったな? だが、ちょっと遅かったねぇ。もう少し早く来ればおまえにも見せてやれたのにな。あの素晴らしい見世物を」
「……それは?」
問う湖鬼神の低い声。
「勿論、あの王子様の悶絶シーンさ! 俺がこの手で斬り刻んでやったんだぜ!」
「──」
「それも、兄王と許嫁の前で!」
彫像のごとく立ち尽くす黒髪の湖鬼に紂謖は歌うように朗々と声を張り上げた。
「あれは滅多にない眼福だった! 流石の生意気な王子も悶え苦しんで……だが、返す返すも口惜しい! まだこれからって時に、あの兄王め!」
思い出して舌打ちする紂だった。
「あいつがあんなでしゃばった真似をしなければ、もっと楽しめたものを……!」
湖鬼神は全てを知って、納得した。
陽王は……螢を殺したのではない──
救ったのだ。
弟王子を少しでも早く苦しみから遠ざけるために……
この下種野郎のおぞましい腕から解き放つために……
俺だって、迷わずそうしたはずだ。
その場に居合わせたなら……!
そんな事情も知らず、俺は──
「まあ、いい。須臾でやり遂げられなかったことを、今度はおまえで完了させるまでだ!」
帝国人は身の毛のよだつような流し目をくれた。
「ありがたく思うんだな! 可愛い情夫と同じ死に方をさせてやるっ!」
騎乗のまま将軍は突進した。
通り過ぎた瞬間、刃を振るう。
一陣の風に、砂と黒髪と鮮血が舞った。
微動だにしなかった湖鬼神の片頬に一筋、朱の線が刻まれた。
馬を止めて、振り向いた紂、
「どうした? 逃げていいんだぜ? さあ、走れ! じっとしていたら面白くないじゃないか!」
しかし、湖鬼神は動かなかった。
青光りする双眸を帝国人に向けたまま直立している。
紂は兵たちに命じた。
「何をボヤッとしている! おまえたち、さっさとこいつを狩り立てろ!」
慌てて重囲の輪の中から五、六騎、飛び出して湖鬼神に近づいた。と──
この時を待っていたのだ。
湖鬼神はその中の一騎に跳びつくや、騎手を殴り落として拍車した。
「な、舐めるな!」
紂は怒鳴った。
「貴様! 逃げ切れると思ってるのか!?」
(思ってない!)
湖鬼神は乗っ盗った馬を駆りながらも心の中で首を振った。
どうあがいた処で無理だ! 俺は逃げ切れまい……
──潔くない。
いつかの自分の言葉とともに螢と初めて会った日の情景が脳裏を過ぎる。
思わず湖鬼神はニヤリとした。
(ああ、本当にな?)
天涯孤独だったあの頃の俺は、スッパリと全てを断ち切って……
慈父の如き育ての親、玄信天翁将軍の差し出す手も、慕ってくれる愛しい娘、姫将軍の眼差しも、何もかも拒絶して……
一人、孤高に潔くあることのみを善しとしていた。
それだけが縋る唯一の拠り所だった……!
(皮肉なもんだな?)
再び湖鬼神は微苦笑せずにはいられない。
(その俺が?)
自分の最期に臨んで、こんなに潔くないなんて?
だが、どうしても、俺は──
生き延びたい。
たとえ、どんなに無様でも、生き延びたい。
螢? こんなザマを見たら、おまえはガッカリするかい?
あんなに慕ってくれたのに、いっぺんで台無しだな?
もう、兄上なんて呼んで、追って来てはくれないかい?
湖鬼神は自問した。
ここで馬首を改めて、昂然と顔を上げ、弟王子がそうしたように帝国人の刃を受けるか?
(湖鬼神、おい、どうする?)
馬上、肩越しに振り返ると先頭に立って追って来る派遣軍総裁の、その顔の表情まではっきりと見えた。
湖鬼神は歯を食い縛って首を振った。
(だめだ!)
俺がここで死んだら……兄弟三人、同じ日にくたばっちまったら……
俺たちの夢は、声は、笑いは……
苦しみは、祈りは……
俺たちの血は何処へ流れ着くと言うんだ!?
── あなたは永遠が気に食わない?
また、螢の声を聞いた気がした。
── 俺はずっと在る方が好きだぜ、湖鬼神?
「ああ」
幻の弟の声に向かって湖鬼神は頷いた。
「俺は意見は変えないぜ、螢?」
俺が死んだら、俺はそこで終わる。それまでだ。だから──
だからこそ、死ぬ瞬間までは生き抜いてやる……!
湖鬼神は目を閉じ、馬を駆る手綱に満身の力を込めた。




