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湖鬼神は奪った一騎の腹を蹴った。
呆然とする衛兵を尻目に表門から飛び出し、暗い街路を城壁へ向けて駆る。
追って、紂将軍以下、帝国将兵も馬に跳び乗った。
紂は馬上、手綱を引いて皇太后を振り返った。
惹苺皇太后は女官に支えられながらも城の門前まで出て来た。
怯えて震えている美しい異郷の女……
紂は隻眼を細めて声をかけた。
「ご心配には及びません、皇太后殿。王の命を奪った湖鬼めは、この私が必ずや討ち取ってきます」
「頼もしい限りです、紂将軍、頼みましたよ?」
交わされる淫靡な微笑……
秘密の約束……
互いの血の中に同じ匂いを嗅ぎ取った二人は既に千年来の許嫁に見えた。
「行くぞっ!」
駆け去る紂を見つめながら、惹苺はついに自分の秋が到来したことを確信して喜びに震えた。
(随分と遠周りをしたけれど……)
あれこそ私の待ち望んだ男だわ!
万人を従わせることのできる真の支配者……!
片や、馬上で紂謖も微笑まずにはいられなかった。
傀儡の身となるはずだったとは言え、王は王。その邪魔な沙嘴の現王・陽を侵入して来た湖鬼が殺してくれた……
これは願ってもない筋運びではないか!
そして、次には、その湖鬼の首を俺が持って帰る……
沙嘴国は名実ともに島帝国の完全支配下と化す。
征夷派遣軍総帥、この紂謖こそ、真の沙嘴の王だ!
おまけに、あの女。惹苺皇太后……
「悪くないな?」
紂は北叟笑んで愛馬に鞭をくれた。
「何だ!?」
「ええっ?」
城壁警護の兵たちは仰天した。
真っ直ぐに突っ込んで来る、一騎。
湖鬼神は眼前、高く迫り来る城壁から決して目を逸らさなかった。
いったん、番卒詰所の低い屋根に跳び、それを足場に、蹴って、高々と飛翔した。
天空の月の中へ……!
「おおーーー!?」
警備兵たちは一歩も動けず、呆気にとられてその姿に見入るばかり──
着地した処は、既に沙海の砂の上だった。
そのまま砂漠の深奥へと馬を駆る。
湖鬼神の目には後から後から涙が溢れ出た。
いつしか湖鬼神は泣いていた。
(これが答えか……!?)
螢!
愛しいと思い、おまえもまた、あんなに慕ってくれたのは……
兄弟だったからか?
そして、兄上!
こんなに長い間、沙海の中で俺が求め続けたもの、全て──
兄を……弟を……家族を……
今日やっと、俺はこの手に取り戻したというのに……
それが、こんな形で──?
今宵、月は月に災いした。
追っ手の帝国兵はすぐに湖鬼神の姿を視界に捕らえ、追いついて来た。
湖鬼神の馬は常の龍馬ではなく、しかも、先刻の城壁での大跳躍で疲弊していた。
乗り手の湖鬼神自身、再び傷が破れて血が滴っている。
「いたぞ! あれだ!」
「見失うな!」
やがて、距離を詰めた帝国軍兵は矢を射掛けて来た。
降矢の中を、それでも巧みに馬を駆り疾駆し続けた湖鬼神だったが、遂に一矢、左肩を掠った。
と、思う間もなく、馬自身にも数矢刺さったと見え、嘶きとともに崩折れた。
「!」
湖鬼神の躰は無情な砂の上に叩きつけられた。
歯を食い縛って立ち上がった時には、周囲は追っ手の帝国兵の紫の壁が取り囲んでいた。
砂上の湖鬼神と馬上の帝国兵たち。
暫し無言のまま向かい合った。
紫の輪を割って、進み出て来たのは紂将軍。手を挙げて部下をその場に押し止めた。
「やはり、おまえだったか? 湖鬼神とやら?」
紂は嘲笑った。
「いいザマだな? おまえ等、湖鬼が馬を失ったら……羽を捥がれた鳥と一緒だ!」




