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沙嘴城壁〈白門〉警護の任に就いていた帝国派遣軍の兵士は沙海の砂の降り積もった床に音もなく崩折れた。
既に二人倒れている。その憐れな三人目となって。
背後で静かに剣を鞘に収めたのは黒髪の湖鬼。
こうして、湖鬼神は易易と沙嘴国へ侵入を果たした。
帝国軍の事実上の侵攻、第三王子斬刑、と急転した王城内の不穏な空気を知ってか知らずか、その夜の沙嘴城下の家々は何処も固く門を閉ざしひっそりと静まり返っていた。
紅燈街にさえ灯はなかった。
湖鬼神は口を引き結び廃墟のような通りを城へ向かって進んだ。
馬は城壁の外へ置いて来た。単身、闇に紛れて入った方が目立たないだろうと考えたのだ。
何度かやり過ごした城下警備の兵がどれも紫色──帝国派遣軍兵──であるのを見て、危惧した通りここ沙嘴が既に帝国支配下にあることを悟った。
やがて、沙嘴城が闇の中に浮かび上がった。
改めて湖鬼神は訝しんだ。
先刻、頻迦と愛を交わした際、確かに見た星は幻だったのだろうか?
細い天幕の切れ目からさえあれほど燦ざめいていた星たち……
今、王朝の不吉な終焉を案じるかのように沙嘴城天空は重い雲に塞がれている。
月はおろか、星さえ見えなかった。
その上、正門も搦手門も予想以上の衛兵が配置されているのを知って湖鬼神は顔を顰めた。
しかし、次の瞬間、思わず口を突いて出た言葉。
「まあ、いい。あっちに一段低く崩れた秘密の抜け道があったはずだ」
湖鬼神は笑ってしまった。
「〈猫門〉って言ってたヤツ。場内に住み着いている王僕どもの通り道だからな」
言った後で我ながら吃驚した。
「何故、俺はそんなこと知ってるんだ? ……螢にでも聞いたっけか?」
螢の名で再び胸を不安が過ぎった。
果たして、その〈猫門〉はあった。
今夜も猫たちが数匹屯していた。
湖鬼の出現にも、何処吹く風と言った様子。
しかし、〈猫門〉それ自体は狭くて瑚鬼神では到底通り抜けられなかった。
試しに何度か体を捩じ込んでみたが──無理だった。
「クソッ……」
湖鬼神は露骨に悪罵した。
「前は通れたのに!」
諦めて体を引き抜いて、衣服の上から傷に手をやる。
城に巡らされた壁自体はさほどの高さではない。欠けた壁石と〈猫門〉の割れ目に足をかければ容易に攀じ登れる。平生ならば──
だが、傷を負っている今の自分にはキツイだろう。
とはいえ、湖鬼神は長くは迷わなかった。
足場を目で確認すると即座に飛びついた。
壁石の欠片が毀れて弾け飛んだ。
ちょうど真下にいた王僕たちが迷惑そうにニャーと鳴いて飛びすさった。
惹苺皇太后の前で丞相は膝を折り深く頭を垂れて悲劇の報告をし終えた。
第三王子惨死の知らせを聞いてもこの母は微動だにしなかった。
毅然とも言える態度であえかな面を上げ丞相に言った。
「わかりました。もう下がってよろしい」
杖を鳴らして、疲弊しきった老臣が退出した後、鶸の羽の扇で静かに顔を仰ぎながら、
「須臾……本当に馬鹿な子……」
惹苺はいつもの窓に寄った。
すると、見晴かす夜の中院に見慣れない男の姿が見えた。
「!」
中院の夏草に血が滴り落ちる。
喘いで湖鬼神は近くの樹下にその身を隠した。
「まずいな。傷口が開いたか? これからだと言うのに──?」
ハッとして闇を透かし見る。
甘やかな香り。小さな花たちが揺れる茂みの向こうに誰か立っている。
湖鬼神は押さえていた肩先の傷から腰の剣へと素早くその手を下ろした。
「馬鹿な真似はおよしなさい!」
たおやかな声には似合わないきつい口調で人影が言う。
「見れば、怪我をしている様子。黙って付いていらっしゃい」
「──……」
どうしていいか分からず流石に湖鬼神は躊躇した。
この時、風に乗って夜の向こう側から喧騒が響いて来た。宴を張る帝国派遣軍将領たちの賑やかな声。
「早く! それともここで連中に他愛なく捕らえられたいのですか?」
低い声で湖鬼神は訊いた。
「俺が何者か知っているのか?」
「同族の男なら一目でわかります。たとえ何年ぶりだろうと……」
湖鬼神は即座に納得した。
「まさか──では、あなたは皇太后……?」
「さあ、早く……!」
先王の后は強い調子で侵入者を促した。




