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上も下も、右も左もない……
過去も未来も、現在さえ定かではない真っ暗な闇の中でジニーは叫び続けた。
誰か、誰か、何とかして!
螢を……私のあの人を助けて! 私を助けて!
でも、もう遅過ぎるの……?
「?」
湖鬼神は目を開けた。
そこに頻迦の顔があった。
「気がついたか? 気分はどうだ?」
湖族連衡の幕営。沙海の風に飛ぶ砂の音が聞こえる。
「俺は……?」
「無茶をするからだぞ。傷口が開いてしまった。痛むだろう?」
「……そうか。あいつは行ってしまったんだな」
湖鬼神は疾駆して去った螢の姿を思い出した。
「俺が止めるのも聞かず──」
急拵えの幕舎の、淡い燭の中で姫将軍は笑った。
「落ち着け、湖鬼神。おまえらしくないぞ?」
頻迦は言う。
「怪我をしているから気弱になるんだ。裏切ったとは言え沙嘴は螢の母国だし、あいつは王族だ。そうすぐにどうかされるものではない。もうじき私の父と麾下の軍が着く。それを待って助けに行けばいい」
湖鬼神は何も言わなかった。
蒼褪めた頬のまま風に鳴る天幕をじっと見つめている。
「そのためにも、今は、おまえはできるだけ休んで体力を回復させることが大切だぞ?」
漸く湖鬼神は答えた。
「そうだな」
「それにしても──知らなかったぞ?」
頻迦は微笑して片方の手をそっと鬼神の頬に寄せた。
「何が?」
「おまえのような男でも泣くことがあるんだな?」
湖鬼神も低い、掠れた笑い声を上げた。
「それは、おまえが知らなかっただけだ。何が初めてなものか……!」
俺は泣き虫なんだ、と湖鬼神は言った。
「しょっちゅう泣いている。ガキの頃からずっと。夜になって一人になると、いつも……」
辛くて、寂しくて、耐え切れず、いつも……
「おい! 私が知らなかったと責められる立場か? おまえが見せてくれなかったんだろ? 今日まで」
わざと怒った口調で頻迦は言うのだ。
「だから、私は、おまえは沙海の砂でできているような男だと諦めていたのに」
湖鬼神は大きく息を吐いた。
「俺ときたら人一倍泣き虫で、寂しがり屋なのさ。だが、始末に悪いことには──それ以上に見栄っ張りで、我慢強い男でもある」
「?」
頻迦は怪訝そうに眉を寄せた。
いつもの湖鬼神と、何処か、何かが違う……
「だから、ずっと自分の弱い部分を隠し通そうと無理をして来た。なのに、あいつが」
「え?」
「このところ、夜になると沙海を飛んで来るあの螢が、そんな俺を笑いやがる。あいつが俺に何と言ったと思う?」
「さあ?」
一瞬、頻迦は湖鬼神が傷の熱に冒されているのだろうかと訝しんだ。それで、そっと額に手をやった。
確かに、〈月下の常勝王〉は少々熱っぽい。
頻迦の心配をよそに湖鬼神は天幕を見つめたままクスクスと笑った。
「『痩せ我慢は体に毒だぜ、鬼神の兄上』だとさ! 誰にも見せず、隠して来た部分をいとも容易に見破って……ああ? きっと、あいつの光のせいだ。あの尻尾の灯で照らしやがったんだな?」
流石に頻迦は本気で心配になった。
「おい、湖鬼神?」
「いいから、聞け。あいつはな、俺に説教までしたんだぜ。『あの姫将軍に惚れているなら、早いとこ一緒になって新しい家族を造れよ』って」
「──……」
甲冑姿の頻迦は硬直した。
湖鬼神の手がしっかりと、額に置いた自分の手を握っている──
「畜生! 人がせっかく、精一杯我慢して来たっていうのに……!」
そのまま湖鬼神は姫将軍を抱き寄せた。
勿論、頻迦はその腕を振り解こうとはしなかった。
長い道程の果てに、漸く辿り着いた旅の終わりだった。ここが……!
思えば、孤独を好む若者の背中と揺れる闇色の髪ばかり見続けて歩いて来た日々だった。
ひょっとして、一生このままかとも思われた。
それならそれでいいとさえ、思った。
そういう愛し方もある、と。
だが、やはり、こっちの方がいい!
恋人の美しい髪や広い背中は、眺めるよりも触れる方が遥かにいい……!
急造りの天幕の隙間からは沙海の空を覆う星が見える。
星たちは、幸せでぎこちない、この生まれたての恋人たちの抱擁を笑いさざめきながらずっと覗いていた。
「流石、私の従兄弟だわ! 螢、 可愛い子! 今度会ったらうんと抱きしめてやらなきゃ」
やがて訪れた甘やかな愛の余韻の中で、玄頻迦は悪戯っぽく笑った。
「きっと従姉の苦しい恋心を一目で看破して助太刀してくれたのね?」
「言ったろう? 本心を見抜かれたのは俺も同じさ」
頻迦の波打つ豊かな砂色の髪に顔を埋めて瑚鬼神も笑わずにはいられない。
それにしても──
甲冑を着けていない姫将軍がこんなに柔らかだったとは……
「じゃ、年貢を納めてくれるんだな? 私と一緒になってくれる?」
「勿論だ」
〈沙海の覇者〉は頬を染めながら、
「もうこれ以上シラを切れないからにはな。老大将軍が着いたら、真っ先に沙嘴へ攻め込んで螢を助け出し、その場で式を挙げちまうか?」
これには姫将軍も歓声を上げた。
「張り切らなきゃ! ああ! こんなに心の躍る戦は初めて!」
「そうだ、その際には、螢と許嫁の式も一緒に挙げるとするか……!」
しかし、恋人たちの幸福な時間は長くは続かなかった。
突然、二人はほとんど同時に息を飲んだ。
薔薇色の未来図の中で、今経っても湖鬼神が口にした〈螢の許嫁〉、その娘が二人の枕元に亡霊のように立ち現れたのだ。
戸口の堅帳はそよとも揺らがなかったというのに──
「おまえ……!?」
湖鬼神も頻迦も武人らしい俊敏さで即座に跳ね起きた。
間髪入れず湖鬼神が質す。
「おまえは、螢と一緒に去った許嫁ではないか! 一体、どうしたんだ?」
「え? あ……」
娘は煙のようにユラユラ揺れて倒れた。
湖鬼神が飛びついて助け起こす。
「しっかりしろ!」
「ここは何処? 私は……どうしたの?」
ジニーはまだ周囲の様子がよく見えていないようだった。虚ろな瞳で惚けたように繰り返すばかりだ。
「私はどうしたの? ここは何処? 今は……いつ……?」
「俺がわかるか? 湖鬼神だ。螢は? 螢は何処だ? おまえは一緒だったんじゃないのか?」
湖鬼神はジニーの肩を揺すぶった。
「螢の傍にいたんだろ?」
「螢……?」
ジニーは我に返った。
「螢!」
脳裏に今しがた目の当たりにした沙嘴国王城内〈王の間〉の惨劇が蘇る。
血塗れの螢の姿……
「あ……あ……あ────っ!」
炎のような髪を振ってジニーは泣きじゃくり始めた。
「螢……螢……嫌よ! 螢──!」
湖鬼神は娘から手を離すとピンと体を伸ばした。宛ら、ジニーが運んで来た恐ろしい地獄図を垣間見たかのように。
代わって、頻迦が嗚咽するジニーを抱き起こした。
「螢がどうかしたのか? あいつの身に何か?」
背後で堅帳の動く気配。
振り向くと飛び出して行く湖鬼神の背中が見えた。
もう後姿を見るのは終わったと思ったのに……
「湖鬼神?」
頻迦はジニーを放すと恋人の後を追った。
「待て! 湖鬼神! 何処へ行く?」
広い背中と揺れる黒髪……
「落ち着け! 父を待つと……今経っても約束したじゃないか!」
しかし、湖鬼神は凄まじい勢いで駆けて行く。
囲ってある馬の群れに飛び込むと、騎乗した。
「湖鬼神!」
方々の幕舎から将兵たちも何事かとばかり走り出て来た。
「姫将軍?」
「あれは──瑚鬼神か?」
「湖鬼神が、どうかしたんですか、姫将軍?」
未だ甲冑を着けていない、綿雲のような豊かな髪を夜風に弄らせたまま、姫将軍は呟いた。
「……馬鹿な。無茶だ、湖鬼神……その体で……?」




