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最初の一太刀が宙を裂いた。
「キャ──……!」
その瞬間、ジニーは頭を抱えて絶叫した。
「嫌よ……やめて……やめさせて……!」
「紂将軍──」
陽王、断腸の声──
ジニーは真紅の髪をを振って喘いだ。だが、あまりのことに失神さえできないのだ。
紂の刃が幾度となく斬り払われるたび、床に、壁に、天井に、血が舞った。
帝国兵に周りを囲まれて身動きできない王とジニーにも血は降りかかった。
「あ……あ……」
嘘よ。こんなことあるはずないのに?
何がいけなかったの? 何処で間違ったの?
私は上手く──ほとんど上手く行きかけていたのに!
フッカー博士の顔が蘇る。
── 歴史は変えられない……
キニアン女史も同意したっけ?
── 既に決定している過去を人が変えられるもんですか!
非情な〈至宝〉管理局員に至っては警告までした。
── その男の死は歴史書に記されているほど遠くて、長くて、確実だ!
私が来たのに?
私がここにいるのに?
よりによってその私の目の前で螢が死んで行くなんて……
結局、私は何の力も持たない、何の役にも立たない〈異邦人〉ってだけなの?
その上──
血に塗れて、今、床に転がる恋人……!
これは私への罰なのだろうか?
愚かにも〈至宝〉などと言う名に驕って、人間の分際で〈時間〉に挑もうとした、私が受ける贖罪なの?
これほど恋人を苦しませて死なせなくてはならない……
そして、その現実を目の当たりにして、なお何の手も打てずにただ呆然と見つめているだけなんて……
螢の苦しみを増幅させるためにだけ自分はここにいるのだ。
灼けるような痛みをジニーは自覚した。
螢は紂謖が望んだ通りには──そして、見つめる兄や恋人を思いやって──決して叫び声を上げず、口を引き結んで耐え続けている。
これが私のやろうとしたこと、
挑んだことの答えなんだ……!
「どうだ、苦しいか?」
紂は血の海の中で苦悶する王子の姿を心から楽しんでいた。
今や何度刀を振るったかさえ憶えていない。
「言ってみろ! 今なら少しは後悔する気になっているんだろ? こんなことなら? 俺におとなしく抱かれたほうがましだったな? だが──もう遅いんだよ!」
沙海の砂がどんなに舞い散ろうと、決して汚れなかった王子の白い彩羅が今は兄王のそれよりも濃い朱色に染まっていた。
紂はわざわざ胸元を掴んで引き起こすと陽王に弟王子がよく見えるよう掲げた。
「どうだ? いい見ものだろう、沙嘴王? あんたの弟は絶品だな? 実に綺麗だ……!」
「やめて……!」
ジニーは喘いで目を逸らした。
傍らで陽王の体が揺れた。その気配は微かに感じた。
紂は、潰れていない方の目でうっとりと腕の中の王子に見蕩れている。
「音を上げるのはまだだぞ、王子! お楽しみはこれからだ! さあ、喚け、のたうち回れ! 俺にその美しい悶絶の顔をもっと見せてみろ!」
恍惚として派遣軍総帥は王子を斬り裂く行為を再開した。
「たまらないぜ、全く」
愉悦の世界で紂謖は凶刀を振るう。
「止めが欲しいか? え? だったら、俺に哀願して見せろ!」
刹那──
将軍の巨躯が跳ね飛んだ。
「?」
血に濡れた床につんのめって倒れたまま、何が起こったのか紂自身、すぐには理解できなかった。
眼前で繰り広げられる修羅の惨劇に心奪われていた配下の将兵たちも咄嗟に反応できなかった。
漸く、膝を立て、身を起こした紂が慚愧の声を漏らした。
「……陽王」
王、その人が風のごとく突進して来て将軍を弾き飛ばしたのだ……!
血塗れの美しい王子は兄王の腕の中にあった。
「安心しろ」
王は囁いた。
「すぐにこの兄が楽にしてやる」
王は素早く弟王子の胸を剣で刺し貫いた。
それは、ついさっきまでジニーが裙子の内に隠し持っていたあの王子自身の守り刀だった──
沙嘴王・陽の顔はこの上なく静謐で優しげだったし、胸の中の弟王子もまた、確かに微笑んでいた。
〈王の間〉は森閑として音がなかった。
そこにいた誰一人として暫く微動だにしなかった。
ジニーも惚けたように玉座の前の朱色の兄弟を眺めていた。
唐突に、キニアン女史の言葉が頭の中で響いた。
── 伝承の一つには螢王子が陽王に殺された、というのもあるわ……
これが?
では、これが、その真相?
なんて……なんてこと……
「キャ────!」
やっとジニーは叫べた。
絶叫とともにその姿が霧のように薄れて、掻き消えて行く……
両脇の帝国兵も相前後して叫んだ。
「ウアッ?」
「な、何だ……この女……!」
その騒ぎに紂将軍も振り返った。
しかし、ジニー・スーシャはもう〈王の間〉にはいなかった。




