*34
ジニーは絶叫して後を追った。
「螢……! やめてっ……!」
そのただならぬ喧騒は臥せっていた湖鬼神にも届いた。
「何事だ?」
傷を押さえて起き上がる湖鬼神。そこへ頻迦が蒼白の顔で駆け込んで来た。
「大変だ! 螢が沙嘴へ帰ると言って聞かない……!」
「何?」
「私が、父が会いに来る旨、伝えたところ──」
「馬鹿野郎っ!」
「ウッ……」
「言ったのか? あいつに? では、出生の件も?」
「だが、当然、とっくに知っているものと」
「早まった真似を! あいつは何も知らないんだ! だから──」
だから、もっとゆっくりと、時を選んで話してやろうと思っていたのに。この俺が…… 呆然とする頻迦を押し退けて湖鬼神も幕舎を飛び出した。
既に馬を一騎引き出して、今しも跳び乗ろうとしている螢だった。
それに取り縋って何とか押し止めようと必死の赤い髪の娘。
刀傷もものかは、湖鬼神は声を荒げて駆け寄った。
「螢! 早まるな! 今戻ったら、今度こそ殺されるぞ! わかってるのか!?」
瞬間、螢は振り返って湖鬼神を見た。
轡をしっかり握ったまま見返すその瞳が全てを語っていた。
「──」
王子の決意の強さが稲妻が奔るように湖鬼神の全身を貫く。
「!」
硬直して立ち尽くす黒髪の将を置いて、螢は馬に跳び乗った。
「だめよっ!」
「あなたはここに残れ」
追い縋るジニーに螢は優しく笑ってみせた。
「大丈夫、俺たちはまた会える、必ず……!」
恋人の瞳を真っ直ぐに見据えて、
「唯、俺は今、ハッキリとさせなきゃならないことがある。陽王に──。湖鬼神に誤解されたくなかったのと同様に、俺は兄王にも誤解されたくはない……!」
螢は龍馬の腹を強く蹴った。
「それっ!」
「いや!」
ジニーは高く飛んで螢の背にしがみついた。
既に馬は風に乗っている。
その嘶きを聞いて、宛ら呪縛が解けたように湖鬼神も叫んだ。
「止めろ! 誰か……! あいつを止めろっ!」
騒ぎを聞きつけて三三五五駆けつけて来た泥色の兵たち。
その中には鵬や峰雀の姿もあった。
湖鬼たちは一様に驚愕の表情で自分たちの将を仰ぎ見た。
「湖鬼神?」
「……一体──」
「誰でもいい! 早く……あいつを止めるんだ!」
鬼神と呼ばれた男の目に燦めくものがあった。
それは共に育ち、戦って来た姫将軍ですら初めて見るもの──涙だった。
「湖鬼神?」
ゆっくりと歩み寄る頻迦。
「あいつを止めてくれ……」
傷が開いたのか膝を折って砂上に崩折れる湖鬼神。だが、なお叫ぶのをやめなかった。
「だめだ! あいつを行かすな……!」
手負いの将は幼子のように繰り返した。
「行かせないでくれ! あいつはもう二度と……戻って来ないぞ……!」
背中にジニーをしがみつかせたまま、螢はかなりの距離を走ってしまった。
「降りろ! 降りてくれ、ジニー! あなたはこっちに残っていろ!」
「嫌よ!」
頑としてジニーは譲らなかった。
何故かはわからないけれど、知っていたから。
今、ここで行かせたら今生の別れになる……
「私たちは一心同体だってあなた言ったじゃない? このままあなた一人を行かせるもんですか!」
「クッ」
螢は歯を食いしばると、次の瞬間、力一杯肘を振ってジニーを弾き飛ばした。咄嗟にジニーは螢の腰に手を回したが──
間に合わない。宙に放り出された。
「キャッ?」
砂の上に落ちて、転がった。
一度だけ螢は振り向いて後方のジニーの様子を窺った。
(……大丈夫、怪我はなさそうだ。)
砂に両手を突きながら、頭を持ち上げて、走り去る自分を見つめている赤い髪の少女。
その姿をしっかりと脳裏に焼き付ける。
(愛しい、俺の〈未来の妻〉……!)
その思いとは裏腹に声を荒らげて、一声叫んだ。
「湖族の幕営へ戻れっ!」
断ち切るように頭を前方へ返し、更に拍車した。
心の内では祈るように呟いていた。
(ごめん、ジニー。だけど、わかってくれ!)
砂上に置き去りにされたジニーは、見る見る小さくなって行く王子の馬影を必死で目で追った。
涙に王子の姿が霞んでぼやける。
無意識に両手に力を入れて、気づいた。さっき振り落とされた際、つかまろうとして王子の腰から毟り取った短剣をしっかりと握り締めていた。
「──……」
突然激しい目眩に襲われ、ジニーはそのまま砂の上で意識を失った。




