*22
眩い黄巾を手から解き取ると螢は折り畳んで額にキリリと結んだ。
出陣の朝である。
玉座の前に伺候した螢を王とジニーと廷臣たちは三者三様の思いで見つめた。
陽王は成人しつつある弟王子の勇姿に感慨深げだった。チラと、もう一人の弟、月王子の面影を重ねたかも知れない。
ジニーは若い娘らしくただもうひたすらに恋人の身を案じるばかり。
一方、近臣たちは武具万端整えた王子があまりに湖鬼じみているので戦慄せずにはいられなかった。
盛大な見送りの中、共に城門を出た紂将軍と螢だった。
王の手前、両者ともある程度の仲の良さを装っていた。
〈白門〉より沙嘴国城壁を抜ける。
沙海へ向けて馬を並べて進ませながら、螢の額の巾に目を止めた紂謖は嘲笑って言った。
「どうした、王子様? それは何のお呪いだ?」
螢は無視した。
「フン、イカスだろ?」
湖鬼神は舞い狂う砂塵もものかは、剥き出しの逞しい首を巡らした。
獣のような鋭い眼は、砂の稜線の彼方、既に兵馬の一群を見出している。
果たして、それは、夜を越えてやって来た〝弟分〟螢王子に率いられた沙嘴国の嚮導隊──囮の軍だ。
螢の額に燦めくのが自分の首巾だとすぐ気がついた。宛ら、誓いの符牒のように陽に輝いている。
「──……」
湖鬼神は不敵にニヤリとした。
その真後ろには姫将軍。こちらはひっそりと微笑んでいる。
「よしっ!」
湖鬼神は腕を伸ばし全兵に出陣を伝えた。
海嘯と化して一斉に動き出す湖鬼の軍──
「よしっ!」
螢も麾下の兵に叫んだ。
「慌てるな! 充分に引きつけるぞっ! 相手はあの懐かしい湖鬼どもだ。ふんぞり返っている帝国の蛙どもに沙海の泳ぎ方を見せてやれ。ここは湖鬼同様、我らの世界なのだから……!」
嶄然、矢のごとく迫る湖鬼神の漆黒の総髪、漆黒の馬……
螢の胸は高鳴った。
「来ます!」
「お、王子っ……?」
「まだだっ!」
ギリギリまで──湖鬼神の表情がわかる距離まで螢は手綱を引き絞って、待った。
(見えた! 笑っている!)
刹那、一気に馬首を返して走り出す。
それは宛ら、二人の同道襲歩の図に見えた。
事実、二人は存分に楽しんだのだ。
抜けるような蒼穹の下、縹渺たる沙海を駆け巡る若者の身内で、等しく血は沸騰した。
濛濛と湧き上がる砂埃を見留めて物見の兵が告げた。
「紂将軍! 来ました! 沙嘴の嚮導隊です!」
「ふふん? ちゃんと湖族を引き連れているようだな?」
紂謖は床几から腰を浮かせて遥か地平を睥睨した。
王子の完璧さに少々舌を巻いた。
「やるじゃないか、あの小僧……」
確かに。
沙嘴国は走狗の銀の軍に続く、湖族連衡、泥色の濁流──
その頂点に黒髪の将、湖鬼神の姿があった。
遠くながらこうして湖鬼神と王子を並べて見て、一瞬、紂は、先刻の離宮でそうだったように、眉根を寄せた。
「気のせいか? 似てるな、あいつら……」
「将軍?」
「ん、ああ? よし、予定通りだ。我々も行くぞ!」
紂は鐙に足を掛けて北叟笑んだ。
「湖鬼の阿呆どもめ! 今日という今日は目に物見せてくれるわ……!」
だが、その湖鬼は平生とは違っていた。
王子に率いられた沙嘴の兵馬は、予てから示し合わせていた通り、陣を敷いて待ち構える帝国派遣軍の手前で四散して駆け去った。
沙嘴軍を追って来た怒涛の湖族の軍、ここで一斉に駒を止める。
まず前へ出たのは弓箭帯びた精兵隊。馬上より遠矢を射掛けてきた。 ※精兵=弓に長けた兵
滝の如く帝国兵の上に降る矢、矢、矢、矢、矢、矢……
「なっ……何だと?」
「これは……!」
「こんな──」
帝国兵馬は騒然となった。
「ば、馬鹿な? 中央を一気に抜いて突破するいつもと違うぞ!?」
蹌蹌踉踉、狼狽の内に次々と矢に倒れる兵馬。堪らず列を乱しては、自らが掘った塹壕に滑り落ちて行く──
紂謖将軍は総毛立った。
「ええい、落ち着け! 落ち着かんか!」
間髪入れず湖鬼神は騎乗射手を繰り出す精兵隊をその場に残し、一軍を率いて分波した。
浮き足立つ帝国軍の陣地をぐるりと囲入する。
この瞬間、帝国軍は自らの穿った塹壕と湖鬼の軍に挟まれた格好となった。
降矢を逃れて前方へ出れば忽ち抜刀した湖族の餌食となり、刃を避けては自らの墓穴に崩れ落ちる。
彼方此方で上がる帝国軍遼将の怒号、兵馬の叫喚。
「もう矢はいいぞ!」
遂に湖鬼神は号令した。
「見ろ! 落とし穴──いや、塹壕とやら?──の位置は蛙ども自らが教えてくれている! この後は皆、好きに闘って来い!」
言うが早いか、棹立ちの後、突撃した。
穴に落ちてもがいている帝国兵の上を高々と飛んで渡って行く。
黒髪を靡かせ、張り巡らされた塹壕の上を自在に飛び回っては狂乱恐懼する帝国兵を殲滅する。
全軍の湖鬼は我先にと〈沙海の覇者〉の後を追った。
実際、今日ほど帝国兵が蛙に見えた日はなかった。砂の穴に嵌って折り重なってもがく様……
一方、湖族は水辺を飛び交う鶺鴒だった。
せせらぎの上、僅かに出ている岩場を優雅に跳び渡って行く姿……
舞い散る砂粒が水飛沫に見えて涼しげである。
このように、ほんの少しの足場さえあれば湖鬼たちは巧みに馬を操ることができるのだ。改めて湖族の馬術の技に瞠目した帝国兵だが、全てはもう遅い。
再び血塗られた紫籏の下、紂は首を左右して咆吼した。
「援軍は何処だ? 沙嘴国軍……須臾王子はどうした!?」
傍らの将が血を滴らせながら叫び返した。
「王子と沙嘴の兵は……将軍の命令通りとっくに四方へ駆け去りましたっ!」
「うぬっ……!」




