*23
湖族連衡に完膚なきまでに粉砕され、半数以上の兵を失い、残る兵も襤褸の如く散々たる有様で帝国征夷派遣軍は夕刻、沙嘴国城門に辿り着いた。
帝国兵の軍服に染みているのは背負う夕陽よりも濃い、己と同朋の鮮血だった。
「……まるで我々の策略を知っているかのような戦いぶりでしたね、紂将軍?」
額から顎にかけてざっくりと割れた傷跡も痛々しい若い将が呟く。
「全くだ」
頷いた傍らの将には片腕がなかった。
「湖鬼どもときたら……きっちりと穴の間隔だけ開けて向かってきた……」
「知っていたのだ!」
爛れた目で夕空を睨んで帝国軍梟将・紂謖は吐き捨てた。
「これではっきりした……」
「良い姿だこと!」
帰城して来る帝国兵団を〈翠漣宮〉の窓より見下ろして惹苺皇太后はさもおかしそうに笑った。
振り返って堅帳の前に控えている末王子を眺めやる。
「本当に。あなたの言うように、須臾王子、どうやら湖族の方がずうっと強くて頼もしくて……頼りがいがありそうね?」
「母上もそうお思いですか?」
今日の戦いからの無事の帰還を告げにやって来た螢はさっきから例によって顔を伏せたまま床ばかり見つめている。
衣擦れの音が近づいた。
堅帳を抜け出た皇太后がその白い手を息子の髪に這わせる。
「私はいつだってあなたの考えこそ正しいと信じています。自信をお持ちなさい」
母に愛撫された記憶を持たない王子だった。
平生なら惹苺のこの親しみの籠った行為に驚倒したろう。だが、今日ばかりはそのことにさえ気がつかないほど心ここにあらずの様子。
「ねえ、須臾? 自分が正しいと確信しているならそれを何処までも推し進めるべきです。障害を恐れてはなりません」
「!」
射抜かれたように螢は顔を上げた。
(まるで母上は俺の心の中を全て見通しているかのようだ……!)
王子の瞳を捕らえて惹苺は強く頷いた。
「この母がついています。何でも思いのままにやってごらんなさい」
先刻より螢の胸を占拠しているもの、それは──
〈沙海の覇者〉……〈闇の化現〉……〈月下の常勝王〉……
湖鬼神の鮮やか過ぎる幻影だった。
沙海を馬を並べて駆け抜けた爽快感……! 眩暈を伴うほどの恍惚……!
(まだ血は熱く滾っている。)
それを確かめるように螢は、一筋刀傷の残る右の掌をギュッと握った。
(あんな思いは初めてだった……)
あんなに砂が軽やかだったのは。
あんなに風が涼やかだったのは。
そして──
あんなに砂漠が優しかったのは……!
(それは、湖鬼神と一緒だったからか?)
あの将と共に在れば世界は常にこれほど美しいのだろうか?
だとすれば──
俺が今日感じた思い……この至福と安堵をここに住む全ての人間──沙嘴国人──も感じるに違いない。あの将を戴いたなら……!
遂に王子は決断した。
(帝国ではダメだ。こうは行かないぞ……!)
「オーホホホホ……」
玉を転がすような母の笑い声に螢は現実に引き戻された。
いつの間にか母はまた堅帳の向こう、楼閣の窓辺に戻って楽しそうに下界を見下ろしている。
「よくやったこと、須臾! 前回同様、またしても戦で勝利したのは……湖鬼とあなたね?」
〈翠漣宮〉を辞去した後も螢の脳裏から湖鬼神の姿は消えなかった。
(母上だって、帝国人よりは湖族の方が好きなんだ……!)
螢は確信した。
いや、母上だけじゃない。本音を吐かせたら沙嘴人は皆、湖族を近しく思っている。どうのこうの言っても、同じ沙海の住人だからな。結局、湖族は俺たちの兄弟や従兄弟も同然なんだ。
兄弟と言う言葉に螢は陽王を思い出した。それから、続けて瑚鬼神も。
二人を無意識に心の中に対置してみる。
(陽王に対するのと同じくらい、今や俺は瑚鬼神が好きだ。どっちかを取れと言われたら……どうする?)
自分自身の発した問いにギョッとした。
だが、これこそ、今しがた母が自分に投げかけた言葉でもあった。
別れ際、窓辺の母は訊いてきた。
『よほど湖鬼の将に惚れたみたいね、須臾? 陽王とどっちを取ると問われたら、あなたはどうするのかしら?」
螢は足を止めた。
柱廊の端に寄って、改めてこのことについて考えてみる。
「──……」
長い一日は漸く暮れて、下草の中で虫が鳴いている。茉莉花の香りが平生より強く鼻腔に満ちた。
やがて、螢はきっぱりと首を振った。
(違う。そうじゃない。)
そんなんじゃないんだ。
どっちを取る、という問題ではない。
だって、俺は切り離せないもの。陽王は勿論、今となっては、あの湖鬼神も。
何故なら、二人ともその素晴らしい為人を俺は知っているから。
ここで、さっき激しく首を振ったせいか、朝からずっと額に巻いていた湖鬼神の黄巾がハラリと床に落ちた。
それを卜占のように一心に見つめながら螢は思った。
(どっちとも自分には必要だ。)
いや、俺だけじゃない。この沙嘴国にとって、沙嘴の未来にとってあの王と将は必要だ!
ならば──
俺はどうしたらいい?
どうしたら、陽王は過去の恩讐を超えて湖族の良さを理解してくれるのだろう?
俺がそうだったように、湖鬼神を知ったら、あんな下種で悪辣な帝国人などさっさと城外へ追い払う気になるはずなのに!
気を取り直して巾を拾い上げる。
手の中できつく握り締めながら口に出して言った。
「クソッ! 兄上だって一回湖鬼神と馬を並べて沙海を走ってみればいいんだ。そうすれば、一瞬でわかるのに……!」
「なるほどな? それは恋人にもらったものだったのか?」
螢はハッとして顔を上げた。
一人だと思っていたのに、いつの間にか柱廊に別の影があった。
「……紂将軍?」




