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かさねがさね  作者: かなぶん
EX

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5/5

朝日

 それは静かな夜だった。


 動きの鈍い身体では誰を呼ぶこともできず、ただ記憶だけが巡る。

 良い人生だった――かは、今ですら分からないが。

 悪くない人生だったことは確かだ。

 それなりに長い人生、怪我もしたし、大病も患った。

 尾を引く不調もあり、後悔も挫折も人並みに経験している。

 一方で、喜びはもしかしたら、人よりも多く経験しているのかもしれない。

 こんな今際の際にそんなことを思う自分が面白くて、老婆は久々に微笑んだ。

 いや、実際、楽しい日々だった。

 振り返る思い出の大半を占めるのは、今は亡き兄夫婦の、子どもたち。

 定年退職も近い歳になっても、老婆にとっては生きがいの甥と姪の二人だ。

 それぞれ結婚もして、子どももいて、なんなら孫もいるというのに、最低でも年一回は顔を見せに来てくれる。遠方にも関わらず、今も――老婆が長くはないと聞いて、次の日には飛んできたくらいだ。

 残せる物もない身の上と申し訳なさを感じていれば、慮って来てくれたとは思えない形相で罵倒されてしまったが。

 それもまた、振り返れば良い思い出と言えよう。

 一人充足を味わい、億劫に深く息をついた。

 この期に及んで思うことは、老婆にはない。

 ただ、想像よりもその時は静かだと思うばかり。

 と、不意に風が揺らいだ。

 窓は閉めているはずなのに。

 興味を引かれて目を開いた老婆は、そこで知らない内に目を閉じていたことに気づき――次いで、星の輝きが褪せようとする空を見た。

「あさ……ひ……」

 まだ何も昇っていない。

 しかし、確実に近づいていると分かるソレに、どうしたって過ぎってしまうのは、今なお鮮明な夕焼け、その炎。

(斜陽……)

 想っても、決して口には出せないその名に、乾いた眼が潤む。


 再びあの場所から戻ってきた時、深結の意識は雑誌記者の前に在った。

 またも斜陽の死に様を見なくてはならないのかと思っていた分、その時が過去となった場面から始まったことに混乱したものの、記者からの「どうしました」という問いかけに我を取り戻す。

 おそらく、元より仕組みは分からないが、こちらで経過した時間が繰り返されることはない、ということなのだろう。あちらの力が作用するのは、あちらのことに関してのみ。そして、深結があちらに引っ張られる条件を思い返せば、今は、深結があちらについて語る前に違いない。

 ゆえに――深結が神隠しについて語ることはなかった。

 それはわざわざ来た記者を落胆させたが、申し訳ないとは思いつつも、深結はもう決めてしまったのだ。

 こちらに帰ることを。


 それなのに、斜陽への想いは、過ぎた時間が彼の姿を朧にしても消えなかった。

 いっそ忘れでもしていたなら。

 最期まで独身を貫くこともなく、甥や姪に、要らぬ心配をさせてしまうこともなかったかもしれないのに。

 受けた告白、掠めた想いがなかった訳ではないのに、それら全てを凌駕してしまった、自分の想いに心底呆れてしまう。

 白む空に想い出すことさえ斜陽のことで。

(やだなぁ……)

 ――斜陽を焼いた陽が、自分の死を最初に知る。

 どうせなら、斜陽と同じ陽に焼かれるようなものだとでも開き直れば良いところを、何故か負けた気になって悔しいと感じた。

 あるいは、夕陽だったら違ったのだろうか。

 斜陽を焼いたのと同じ状態だったら。

 いや、彼の名の意、そのままの陽であったなら。


 そう思い馳せる内に、閉ざされた瞳。

 朝日を見ることのなかったその目が、再び開かれることはなく――……


* * *


「ここから出たら、あちらへ着くまで私の手を離さないで。そして、何も話さないで。此処に見つかりたくないなら、其処へ留まりたいのならば。私が共で在れば、君が存在を明かさなければ、此処は君をこの場所に戻せないから。できるかな?」

「……え?」

「うん?」

 聞いた憶えのある話に顔を上げたなら、柔らかく笑んだまま、不思議そうに首を傾げた斜陽がそこにいた。

 それは記憶にある表情。

 朧気だったはずの記憶の像は、こうして逢えば呆気なく実として結びつく。

 しかし、伸べられた手が下ろされたのは初めてのこと。

「なるほど。どうやらあちらでの心残りは、もう尽きたんだね」

「え?」

「それは……実に喜ばしい」

 深結が現状を理解するのも待たず、深まる笑みも初めて見るモノで。

「は?――――ひっ!?」

 何と尋ねる間もなく斜陽が手を打ち鳴らせば、これを合図に襖が開き、無数の手が伸ばされた。

 目と耳と口、手首に腕に、足に膝に。

 身体が怯え退く前に掴まれ、有無も言わさず襖の奥へと引きずられていく。

 そうして抵抗もできずに転がされた先は、いつか見た婚礼の広間。

 誰もいない場には紋付き袴姿の斜陽が佇んでおり、見下ろされる形の深結の格好も、いつかと同じ白無垢。違う点が一つあるとすれば、朱色の紐が両手足を縛り、紅を引いた口にも同じ紐が噛まされていた。

「では、早速婚礼の儀を執り行うとしよう。なに、難しいことはないよ。ただ君がこの杯に口をつければそれで事は終わる。いやしかし、口を塞いでしまったままでは難しいか。さて、どうしたものか」

「むーむーむー!!」

 記憶にあるより早口に語る斜陽へ、小夜はできる限りの声を上げた。

 急にこの場所へ戻された驚き、先ほどまで思い浮かべていた、もう逢うことはないと想っていた人との再会、それら全てを無視した強行への苛立ち、疑問、不安。

 上げればキリのないその理由の数々に、斜陽は崩さぬ笑顔を向けては、困り眉でふっと笑った。

「……まあ、一人悩むものでもないか。とはいえ、全てを語れるほどの時間はさほどない。すまないが要約して簡潔に述べさせて貰うとしよう。頼むから今一時だけはただ聞いていて欲しい。文句その他諸々は、君の選択の後に請け負うと約束するよ」

 勝手な言い草だが、声の端々には懇願が色濃く混じる。

「むー……」

「ありがとう」

 死の間際にさえ手放せなかった惚れた弱みとでもいうべきか。

 不満たっぷりの声は上げようとも黙る素振りを見せれば、斜陽が安堵に笑う。

「とはいえ、やはり、さすがにそのままではこちらも心苦しい」

「ぷはっ」

 そうして口の紐だけが外された。

「……てっきり、文句を言われるのかと」

「時間がないんでしょ。手短にどうぞ」

「うん。助かるよ」

 深結の言葉に頷いた斜陽は、居住まいを正して言う。

「もう気づいているかもしれないが、一度でもあちらに戻った場合、君のあちらでの時間は君が今いる此処とは平行しない。あちらで進んだ君の時間は、今戻ったところで、此処に再度訪れた時の直前の状態になるだろう。つまり君は、おそらく、あちらではもう……」

「死んでいる、と?」

 言い淀む斜陽の言葉の先を推測すれば、緩く首が振られた。

「いいや、まだだよ。本当にそうなっているなら、君とあちらとの縁は切れていて、この婚礼も意味をなさなくなる。だから、まだ。……ただし、これまでと違って、その、終わりかけの時間は、境界が曖昧なんだ。あちらとこちら、どちらも時は静かに流れている。まあ、此処はまだ、あちらよりゆっくり進んでいる状態だが……だからこそ、そうなる前の君には二つの選択肢がある」

 斜陽が一つ指を立てる。

「一つは、私の花嫁として婚礼の儀を執り行うこと」

「もう一つは?」

 間髪入れずに尋ねたなら、笑い顔ながら一拍息を詰めた斜陽が、二本目の指を立てた。

「このまま、待つこと。あちらでの時が終わりに近づけば、その分此処は君を侵食する。こう聞くと不安を覚えるだろうが、感覚としては君があちらで迎えるはずだったこととそう変わらない。君という存在を直に取り入れることで、此処は新しい陽を得ることができる。そして君は……死を、迎えるだろう。今度こそ確実に」

「…………」

 婚礼か死か。

 今ある姿通りの齢であれば、惑う話ではあるが。

 ――どうやらあちらでの心残りは、もう尽きたんだね。

 久しぶりに聞いた声が、初めて告げてきた言葉をなぞる。

(甥も姪も結婚して、孫まで見せてくれて……うん、確かに心残りは、ない)

 斜陽の話を嘘と跳ね除ける必要もないだろう。

 こうして、縛られている間の抜けた格好ではあるものの、じわじわと広がっていく感覚はあるのだから。

 浸食。

 このまま身を任せても構わないような、馴染み深い疲労感。

 自覚すれば増していく億劫な身体に、深結は深く息をついた。

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