第4話 むすびのさき
白無垢の袖をぎこちなく動かし、受け取ったのは深紅の杯。
注がれた透明な液体に映るのは、角隠し下の硬い表情。
幾度となく迷った目は、この後に及んでも未だ揺れており、
「大丈夫かな?」
気遣う声音に微かに身体が震えたなら、隣の男は尋ねる。
「本当に、これでいいのかい?」
一貫して変わらない問いかけに、朱唇を軽く噛んだ。
* * *
常世と教えられた場所から脱したあの日――。
すっかり陽の落ちた夜の中、一人家に戻った深結を待っていたのは、悲鳴にも似た驚きと喜び、戸惑いと怒り、そして、三日間の空白だった。
ともすれば夏祭りからの三日間、行方知れずになった深結を探していた周りの反応は、深結に帰ってこられた実感をもたらし、冷え切った心を温めたものだが、少し時間が経てば違うのだと嫌でも気づいてしまう。
あの時斜陽が言っていたように、深結がいなかった間、彼らは深結の存在をすっかり忘れてしまっていたのだと。
帰ってきた喜びも、どこにいたんだという怒りにも、嘘偽りはないと分かるのに、それだけの感情に反して、深結がいなかった三日の間に探していた形跡はどこにもなかった。
尤も顕著だったのは、ようやく仕事を切り上げられた兄夫婦が、子ども二人を迎えに来た時だろう。
子どもたちから話を聞き、そこで初めて三日間のことを知った兄夫婦は、何故自分たちに教えてくれなかったと両親を問い詰めたのだが、この質問に対する両親の反応は奇妙なものであった。何故と問われて初めて考えるに至ったような、狼狽える沈黙。この様子は両親に限らず、兄夫婦や子どもたちにも伝播していき、最終的には「深結が三日間行方知れずになっていた」事実だけが残る。
以降、誰かがこの三日間に言及することがあれば同じ反応が起こり、皆一様に追求を辞めてしまう。
この異様な現象に気づき、憶えていられるのは深結だけだった。
指し示すところは、三日間の空白――深結が体験したあの空間での出来事が夢ではなかったということ。
それはつまり――。
神隠し。
いつしか三日間の空白はそう呼ばれ、深結自身が多く語らなかったことも相まって、家族共々近所の中でも禁句になっていく。
深結もまた、甘んじて受け入れた。
そのせいで多少、腫れ物のような扱いもあったが、逆にありがたいとさえ思う。
あの空白の内実は――斜陽のことは、しばらく尾を引いていたから。
とはいえ、時が経っても記憶は薄れず、不意につまびらかにする機会が訪れた。
一年後、親族経由でオカルト雑誌の記者から取材を申し込まれたのだ。
題材はもちろん、神隠し。
父母を始め、兄家族も反対したが、深結は承諾した。折しも、これより先に進むには、声に出す必要があると強く感じていた頃だった。
取材元がオカルト関係だったのも承諾した理由の一つ。その手の話を好む雑誌であれば、体験した者以外には荒唐無稽でしかない内容も、最後まで聞いてくれるだろうと見越してのことだ。
そうして初めて顔を合せた記者は、深結より少し年上の男だった。取材を受けるこちらよりも緊張した面持ちに、もっとその手の話に傾倒しているような見た目を想像していた深結は、肩透かしを食らった気分になる。
ただ、お陰で知らず張っていた肩の力が抜けた。
するりと話し始めたのは、常世で体験した全て。
そして――斜陽の最期。
* * *
闇に慣れた目に、久しぶりの夕陽は眩しかった。眩しく、目を細め、慣れてきたなら、広がる景色は小高い丘の上から臨むものと知った。
「おめでとう」
そう声をかけられて、本当に帰ってきたのだと実感して、滲む涙を拭いつつ、笑顔で振り返った先には、
「ひっ!?」
姿はそのままに、全身を炎で巻かれる斜陽の姿があった。
近づこうとすれば見た目通りの熱に身が竦み、ひりつく指に首を振ったなら、相変わらず笑い顔の斜陽は首を振る。
「近づいてはいけない。これは私を焼く炎ではあるが現世の炎でもある。君が近づけば熱いし痛むだろう」
「そんな……どうして……」
「それはもちろん、私が現世とは相容れない存在だからだね。招かれざる異物は排除したがるのが世の常だろう」
「じゃあ、どうして私と……」
帰りたい深結に、躊躇いなくついてきた斜陽。
こうなると分かっていながらついてきた様子に問えば、一瞬、息を詰まらせた斜陽が大きく息を吐き出すように笑った。
その様子により、見た目通りの痛みを感じているのだと知る。
「っは、はは……それはもちろん、君の住んでいる世界を……見てみたいと、ね」
「斜陽、さん……」
「ああ、泣かなくていい。これは私の選択であり、君のせいでは、ない」
「でもっ!」
「気に病む必要もない。私は……満足だよ」
掠れ声になっても笑むばかりの顔がにわかに変化した。
笑みを象る表情はそのままに、目と口が人にないほど歪に裂けて湾曲する。
これが最初の頃であったなら恐れられただろう。
しかし、人の姿を保てなくなっていると気づいてしまった深結は瞠目し、怯んだ手を伸ばすべく一歩を踏み出した。
だが、
「斜陽さん!!」
悲鳴に近い声でその名を呼ぶも、途端に塵一つ残さず宙に燃え消えた姿は戻ることなく――独り残された深結は力なくその場に座り込む。
(沈む陽の名前だって言っていたのに……あの人は、その陽に焼かれて……)
一年経ってもはっきりと思い出せる光景に、知らず握りしめていた手が震えた。
と同時に、いつの間にか黙り込んでいたことに気づいた深結。
人前で過去に耽りすぎた自分に辟易しつつ、「すみません」と顔を上げる。
「……え?」
だが、そこに記者の姿はなく、
「うん? どう、したのかな?」
今し方、死に姿を思い返してた斜陽の、生きている姿があり、
「ああ、もうすでに私の手を離すか、声を発してしまったのかな?」
「!」
いつしか聞いた懐かしいその言葉に、あの日以来、流れることのなかった涙が深結の頬を伝う。
* * *
伝え忘れていたのだと斜陽は言った。
いや、正確には伝える必要はないと考えていたようだ。
深結が現世に戻った後、此処のことを話すことはないだろう、と。
逃げることを諦めなかったのだから、ようやく逃れた後では此処のことを口にしたくもないはずで、言ったところで此処を知らない現世ならば言葉にする機会もない――そう思っていたと隠さず話した斜陽は、申し訳なさそうに微笑んで言う。
「此処を出られたとしても、此処は絶えず君を探している。だから、あちらで此処のことを声に出してしまったなら、此処は即座に君を此処へ連れ戻してしまう。本当にすまないね。此処を出た後も、実はまだ気をつける必要があると言っておけば良かったのかもしれないが、それはそれで君を不安にさせてしまうとも思っていて……いや、本当に申し訳ないことをした。泣かせるつもりはなかったんだよ」
「あ……」
記憶にある話し方の、記憶にはない早口。
それが深結の涙に狼狽えてのことと知ったなら、また涙が溢れて零れる。
気遣う手が触れたものか迷ったならこれを握りしめ、嗚咽混じりに首を振った。
そうして告げたのは、現世へ戻った時のこと。
目の前で燃え消えた斜陽の姿。
今はもう、深結にしかない記憶であっても、生きている彼を前にしても晴れない気持ちを吐露し続けていれば、柔らかい手ぬぐいが頬に宛がわれる。ぐちゃぐちゃになった顔を真正面から見ても、案じて微笑む斜陽。堪らず抱きついたなら受け止められ、しっかり抱えられた。慈しむその手が更に涙を喚起する。
そうしてどのくらい経った頃か。
流せるだけの涙を流し尽くし、斜陽の腕の中で泣き疲れた頭を上げたなら、変わらず柔和な笑みを携えた斜陽は言う。
「落ち着いたなら、そろそろ行くかい?」
どうして彼は、この期に及んでこんな風に言えるのか。
何も言えず、愕然とした思いを抱いていれば、斜陽はふんわりと笑った。
「言っただろう? 大事なのは君の気持ちであって、それ以外は夢幻だと。君は此処を出たい。そして私は君の望みを叶えたい。……うん、では改めて尋ねるとしよう。またしても此処に戻されてしまった君は、どうしたい? 此処を出たいなら私は手を貸そう。しかし、留まると言うなら……」
脅すような低い声と共に頬へ添えられる手。
暗に示される、此処が深結を連れ戻す、そもそもの理由。
一瞬だけ、怯んだ身体が瞳を大きく開かせたが、それよりも恐れるものを知ってしまった深結は、答える代わりに斜陽の身体へしがみついた。
* * *
「本当に、これでいいのかい? それを口にしたら、もう戻れないんだよ?」
どうして斜陽はいつまでも確認してくるのか。
深結は少しだけ恨みがましい気持ちを抱く。
深結が此処に留まることを選んだため、すぐさま執り行われることになった婚礼は、深結の心情とは裏腹に拍子抜けするほど簡素なものだった。
用意されていたと思しき広い畳部屋には上座に行灯の明かりがあるだけで、他には列席者の姿も何もない。深結と斜陽がそれぞれ白無垢と紋付き袴姿に着替えていなければ、婚礼の「こ」の字も浮かばないだろう。
本当に、逃げていたあの時間はなんだったのか分からなくなるほど、何もない。
一応、深結の着付けの時やこの杯に酒と思しき液体を注いだ時、此処の住人と思わしき巫女装束が手伝いなどしてくれたのだが、用が終わればどれも部屋を出ており、今この時、ここに居るのは深結と斜陽の二人だけ。
「今からでも帰るには遅くないよ? もちろん、君を迎えられることは私にとってこの上なく嬉しいことだが、本当にそれで良いのか、よくよく考えるべきだ」
「…………」
あまりにも繰り返し尋ねられるため、やはり斜陽自身は嫌なのではないかと思ったなら、先に疑惑が晴らされる。
(どうして何度も聞くんだろう。私が此処を出たら、斜陽さんは……)
あるいは先に結末を話した以上、再び此処を脱した時には深結一人で出られる可能性も考えられる。が、短くもない付き合い、深結がどう言おうとも、防ごうとしても、斜陽は深結と共に現世に出て、再び燃え消えてしまうのは分かりきっていた。
燃え消える直前、「満足だよ」と言った顔は、本当に嬉しそうだったから。
それゆえに留まる決断をしたというのに、斜陽は杯を持つ手を見ても、思い留まるよう説得する言葉を止めてはくれない。
(私の気も知らないで……ううん。きっと、斜陽さんには分かっているんだ)
深結が何故ここにこうして座ることにしたのか、そして――……。
決意してもなお、迷いがあると。
見つめる透明な液体に過ぎる姿があった。
深結が戻った時の家族たちの姿。
とりわけ、神隠しを――斜陽の死を引きずる深結に対し、実情は知らないくせに元気づけようとする甥と姪の二人の姿が。
それなりに懐かれている自負はあったが、「もういなくならないでね」とぽつりと言われた言葉は、深結の心に色濃く残っていた。聞かせるつもりはなかっただろう声量は、三日間の空白があっても褪せない願いとして届く。
(……そーいや、子どもどころか孫まで見せてあげるよ、なんて言ってたっけ)
きっかけは忘れたが、先の付き合いまで提示された記憶が思い起こされたなら、
「……斜陽さん、私……」
「うん。帰るなら、まずはその障子から外に出ておいで。そうしたら、なかったことにできるから」
「っ……」
柔らかくそう言う斜陽の顔を見ることはできなかった。
決意が揺らぐから、だけではない。
斜陽のその言葉には、彼自身の名残惜しむ気持ちが含まれている。
きっと、今も外へ出れば、以前と同じように脱出できるだろうに、今の彼では共に行けないということなのだろう。
花嫁を迎える準備が出来てしまった彼では。
「いってきます」
絞り出せたのはそんな挨拶。
「いってらっしゃい。心残りのないように」
静かに返された声を背に、深結は外へ出て、「はい」と声を上げた。




