第七話:残業
誰もいない深夜のオフィスというのは、日中の喧騒が嘘のように静まり返り、独特の冷たい空気が漂うものだ。
システムエンジニアの和也は、度重なる仕様変更のあおりを受け、連日のように深夜まで一人で残業を続けていた。時計の針はすでに午前二時半を回っている。フロアの照明は和也のデスクの周りだけが点灯しており、それ以外の場所は深い闇に沈んでいた。
カチカチカチ、カチ。
静まり返ったフロアに、和也がキーボードを叩く音だけが規則正しく響く。
早く終わらせて帰りたい。その一心で画面に向き合っていた和也だったが、ふと、背後に奇妙な違和感を覚えた。
(……なんだ?)
集中が途切れた瞬間、耳に飛び込んできたのは、微かな、しかし聞き覚えのある音だった。
カタカタカタ……。
タッ。
それは、少し離れた別のデスクから聞こえる、キーボードをタイピングする音だった。
和也は手を止め、振り返って暗闇を見渡した。
このフロアには自分しか残っていないはずだ。出入り口のセキュリティログも、自分が最後になっている。
だが、闇の向こう、パーテーションで区切られた営業部の島から、確かにその音は続いていた。
カタカタカタカタ……タッ。
「誰か残ってるんですか?」
和也は声をかけたが、返事はない。ただ、声をかけた瞬間にタイピングの音がピタリと止まった。
気のせいか、あるいは疲れからくる幻聴だろう。和也は大きくため息をつき、首を振って再び自分の画面に視線を戻した。
しかし、作業を再開してすぐに、また音が始まった。
カタカタカタカタ……。
今度はさっきよりも音が大きく、そして叩く速度が異常に速い。
まるで、何十人もの人間が一斉に、狂ったようにキーボードを叩きつけているかのような、激しい音の奔流。
カタカタカタカタカタカタカタカタ!!!
「おい、いい加減にしろよ!」
和也は立ち上がり、音のする営業部の島へと歩き出した。悪質な悪戯か、あるいは不審者が侵入しているのかもしれない。
スマートフォンのライトで暗闇を照らしながら、一歩一歩進む。
音の発生源は、先月急死した同僚・佐藤のデスクのようだった。佐藤は過酷な労働環境の末、自宅で突然死したのだ。
和也の心臓が嫌な音を立てて高鳴る。
パーテーションの角を曲がり、ライトの光を佐藤のデスクへと向けた。
そこには、誰もいなかった。
パソコンの電源は落ちており、モニターは真っ黒なままだ。当然、キーボードの上には何もない。
和也はホッと胸をなでおろした。やはり疲れのせいだ。明日、産業医に相談しよう。
そう思い、自分のデスクへ戻ろうと踵を返した、その時だった。
「……和也……さん……」
背後から、掠れた、湿った声が聞こえた。
和也の身体が硬直した。ゆっくりと振り返る。
ライトの光が、佐藤のデスクの「下」を照らし出した。
事務机の狭い引き出しの隙間、そして足元を入れる暗い空間から、何かが這い出てこようとしていた。
それは、人間ではなかった。
佐藤の顔をしているが、その皮膚は土気色に変色し、全身の骨が不自然な方向に折れ曲がっている。四肢をあり得ない角度にねじ曲げ、机の下のわずかな隙間に、その巨体を無理やり詰め込んでいたのだ。
ギチ、ギチギチと、肉と骨が軋む嫌な音を立てながら、佐藤の「それ」が這い出てくる。
その目は血走り、異常なほど見開かれ、パソコンの画面ではなく、和也をじっと凝視していた。
「あ……あ……」
和也は恐怖のあまり声が出ず、後退りした。
佐藤の怪物は、長い、骨が剥き出しになった指を伸ばし、デスクの上のキーボードにしがみついた。そして、和也を見つめたまま、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。
電源の入っていないキーボードが、激しい音を立てる。
カタカタカタカタカタカタカタカタ!!!
それと同時に、オフィスのすべてのパソコンの電源が、突如として一斉に立ち上がった。
ブゥンという起動音とともに、数十台のモニターが青白い光を放ち、暗闇のフロアを不気味に照らし出す。
和也は周囲を見回し、絶叫した。
すべてのデスクの「下」から。
パーテーションの隙間から、コピー機の裏から。
かつてこの会社を辞めていった者、病んだ者、そして死んでいった者たちの、青白い、歪んだ顔が次々と這い出てきていたのだ。
彼らは皆、一様に狂ったような笑顔を浮かべ、死んだ目で和也を見つめながら、一斉に手元のキーボードを叩き始めた。
フロア全体に、鼓膜を破らんばかりのタイピング音が鳴り響く。
ガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタ!!!
『終わらない』『終わらない』『終わらない』
モニターの画面に、赤い文字が津波のように埋め尽くされていく。
目の前の佐藤の怪物が、顎が外れるほど大きく口を開け、和也の首筋に向けて飛びかかってきた。
「うわあああああああ!」
和也は無我夢中で鞄を放り出し、非常口へと走った。
背後からは、何十もの「何か」が、四足歩行で床や壁を這いながら、凄まじい速度で追いかけてくる音が聞こえる。
階段を転がり落ちるようにして駆け下り、オフィスの外へ飛び出した時、夜空にはすでに薄明るい朝の光が差し始めていた。
その後、和也は会社を無断退職し、二度とあのビルに近づくことはなかった。
しかし、彼の恐怖は終わっていない。
今でも自宅で静かに過ごしていると、ふとした瞬間に、耳元で聞こえるのだ。
カタ、カタ……タッ。
それは、自分のスマートフォンの画面の裏から、あるいは、閉め切ったクローゼットの奥から。
あのオフィスの暗闇に取り残された「彼ら」が、和也を次の『同僚』として迎え入れるためのコードを、今も叩き続けている音なのだ。




