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百物語  作者: こうた


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7/8

第七話:残業

誰もいない深夜のオフィスというのは、日中の喧騒が嘘のように静まり返り、独特の冷たい空気が漂うものだ。

システムエンジニアの和也は、度重なる仕様変更のあおりを受け、連日のように深夜まで一人で残業を続けていた。時計の針はすでに午前二時半を回っている。フロアの照明は和也のデスクの周りだけが点灯しており、それ以外の場所は深い闇に沈んでいた。

カチカチカチ、カチ。

静まり返ったフロアに、和也がキーボードを叩く音だけが規則正しく響く。

早く終わらせて帰りたい。その一心で画面に向き合っていた和也だったが、ふと、背後に奇妙な違和感を覚えた。

(……なんだ?)

集中が途切れた瞬間、耳に飛び込んできたのは、微かな、しかし聞き覚えのある音だった。

カタカタカタ……。

タッ。

それは、少し離れた別のデスクから聞こえる、キーボードをタイピングする音だった。

和也は手を止め、振り返って暗闇を見渡した。

このフロアには自分しか残っていないはずだ。出入り口のセキュリティログも、自分が最後になっている。

だが、闇の向こう、パーテーションで区切られた営業部の島から、確かにその音は続いていた。

カタカタカタカタ……タッ。

「誰か残ってるんですか?」

和也は声をかけたが、返事はない。ただ、声をかけた瞬間にタイピングの音がピタリと止まった。

気のせいか、あるいは疲れからくる幻聴だろう。和也は大きくため息をつき、首を振って再び自分の画面に視線を戻した。

しかし、作業を再開してすぐに、また音が始まった。

カタカタカタカタ……。

今度はさっきよりも音が大きく、そして叩く速度が異常に速い。

まるで、何十人もの人間が一斉に、狂ったようにキーボードを叩きつけているかのような、激しい音の奔流。

カタカタカタカタカタカタカタカタ!!!

「おい、いい加減にしろよ!」

和也は立ち上がり、音のする営業部の島へと歩き出した。悪質な悪戯か、あるいは不審者が侵入しているのかもしれない。

スマートフォンのライトで暗闇を照らしながら、一歩一歩進む。

音の発生源は、先月急死した同僚・佐藤のデスクのようだった。佐藤は過酷な労働環境の末、自宅で突然死したのだ。

和也の心臓が嫌な音を立てて高鳴る。

パーテーションの角を曲がり、ライトの光を佐藤のデスクへと向けた。

そこには、誰もいなかった。

パソコンの電源は落ちており、モニターは真っ黒なままだ。当然、キーボードの上には何もない。

和也はホッと胸をなでおろした。やはり疲れのせいだ。明日、産業医に相談しよう。

そう思い、自分のデスクへ戻ろうと踵を返した、その時だった。

「……和也……さん……」

背後から、掠れた、湿った声が聞こえた。

和也の身体が硬直した。ゆっくりと振り返る。

ライトの光が、佐藤のデスクの「下」を照らし出した。

事務机の狭い引き出しの隙間、そして足元を入れる暗い空間から、何かが這い出てこようとしていた。

それは、人間ではなかった。

佐藤の顔をしているが、その皮膚は土気色に変色し、全身の骨が不自然な方向に折れ曲がっている。四肢をあり得ない角度にねじ曲げ、机の下のわずかな隙間に、その巨体を無理やり詰め込んでいたのだ。

ギチ、ギチギチと、肉と骨が軋む嫌な音を立てながら、佐藤の「それ」が這い出てくる。

その目は血走り、異常なほど見開かれ、パソコンの画面ではなく、和也をじっと凝視していた。

「あ……あ……」

和也は恐怖のあまり声が出ず、後退りした。

佐藤の怪物は、長い、骨が剥き出しになった指を伸ばし、デスクの上のキーボードにしがみついた。そして、和也を見つめたまま、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。

電源の入っていないキーボードが、激しい音を立てる。

カタカタカタカタカタカタカタカタ!!!

それと同時に、オフィスのすべてのパソコンの電源が、突如として一斉に立ち上がった。

ブゥンという起動音とともに、数十台のモニターが青白い光を放ち、暗闇のフロアを不気味に照らし出す。

和也は周囲を見回し、絶叫した。

すべてのデスクの「下」から。

パーテーションの隙間から、コピー機の裏から。

かつてこの会社を辞めていった者、病んだ者、そして死んでいった者たちの、青白い、歪んだ顔が次々と這い出てきていたのだ。

彼らは皆、一様に狂ったような笑顔を浮かべ、死んだ目で和也を見つめながら、一斉に手元のキーボードを叩き始めた。

フロア全体に、鼓膜を破らんばかりのタイピング音が鳴り響く。

ガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタ!!!

『終わらない』『終わらない』『終わらない』

モニターの画面に、赤い文字が津波のように埋め尽くされていく。

目の前の佐藤の怪物が、顎が外れるほど大きく口を開け、和也の首筋に向けて飛びかかってきた。

「うわあああああああ!」

和也は無我夢中で鞄を放り出し、非常口へと走った。

背後からは、何十もの「何か」が、四足歩行で床や壁を這いながら、凄まじい速度で追いかけてくる音が聞こえる。

階段を転がり落ちるようにして駆け下り、オフィスの外へ飛び出した時、夜空にはすでに薄明るい朝の光が差し始めていた。

その後、和也は会社を無断退職し、二度とあのビルに近づくことはなかった。

しかし、彼の恐怖は終わっていない。

今でも自宅で静かに過ごしていると、ふとした瞬間に、耳元で聞こえるのだ。

カタ、カタ……タッ。

それは、自分のスマートフォンの画面の裏から、あるいは、閉め切ったクローゼットの奥から。

あのオフィスの暗闇に取り残された「彼ら」が、和也を次の『同僚』として迎え入れるためのコードを、今も叩き続けている音なのだ。


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