第六話:忘れ物
「忘れ物には気をつけなさいよ」
子供の頃、祖母から耳にタコができるほど言われた言葉だ。単に物を失くすなという意味だと思っていたが、あの夜の出来事を経験してからは、その本当の「意味」を理解し、背筋が凍る思いがしている。
会社員の直樹が、お気に入りのビニール傘を居酒屋に忘れてきたことに気づいたのは、深夜の一時を回った頃だった。
外はあいにくの土砂降り。おまけにその傘は、人気ブランドのもので、少し値が張るお気に入りだった。店は自宅から徒歩五分ほどの場所にある。今から行けば、まだ店員が片付けをしていて開けてくれるかもしれない。
直樹はフード付きのパーカーを深く被り、雨の中を走った。
夜の住宅街は、雨音にかき消されて静まり返っている。街灯の鈍い光が、濡れたアスファルトを白く照らしていた。
居酒屋の前に到着すると、案の定、看板の電気は消えていたが、店内の明かりがうっすらと漏れていた。直樹は勝手口のほうへ回り、ガラス戸を叩いた。
「すみません、さっきまで飲んでいた者ですが、傘を忘れてしまって……」
奥から、エプロン姿の店員が怪訝そうな顔で出てきて、ドアを少しだけ開けた。
直樹が事情を説明すると、店員は「あ、これですか?」と、レジの横に立てかけてあった直樹の傘を持ってきてくれた。
「わざわざすみません。助かりました」
「いえ。……でも、夜道は気をつけてくださいね。最近、この辺り、物騒ですから」
店員はそう言って、妙に怯えたような目で外の暗闇を見つめ、すぐにドアを閉めて鍵をかけた。
直樹は傘を差し、再び雨の夜道を歩き始めた。
お気に入りの傘が戻ってきた安堵感からか、足取りは軽かった。雨はさらに激しさを増し、傘の布地をバチバチと激しく叩いている。
家まであと三分という、細い路地の十字路に差し掛かった時だった。
(……ん?)
背後に、違和感を覚えた。
土砂降りの雨の音に混じって、何かがアスファルトを叩く音が聞こえる。
パシャ、パシャ、パシャ。
足音だ。それも、靴を履いていない、裸足で水たまりを激しく踏みつけるような音。
直樹は足を止めた。すると、後ろの足音もピタリと止まった。
気のせいかと思い、再び歩き出す。
パシャ、パシャ、パシャ、パシャ!
今度はさっきよりも速い。明らかに直樹との距離を詰めてきている。
直樹は恐怖を覚え、振り返らずに早歩きになった。心臓の鼓動が速くなる。傘を握る手にじっとりと汗がにじんだ。
すぐ後ろまで、その足音が迫ってくる。
パシャパシャパシャパシャ!!!
「うわっ!」
直樹は耐え切れず、走り出した。
背後の足音も、猛烈な勢いで追いかけてくる。それはもう人間の走るテンポではなかった。まるで四足歩行の獣が、濡れた地面を狂ったように叩きつけているような、凄まじい速度の「パシャパシャパシャ!」という音が、耳元のすぐ後ろまで迫る。
直樹は無我夢中で自宅のマンションへ滑り込み、エントランスの自動ドアをすり抜けた。
オートロックのドアが閉まった瞬間、外の雨の中に、何かが激しく激突する音がした。
ドンッ!!!
直樹は恐怖に震えながら、ガラスドア越しに外を見た。
しかし、激しい雨の向こうには、街灯に照らされた無人の路地があるだけだった。誰もいない。
「一体何だったんだよ……」
直樹は肩で息をしながら、エレベーターに乗り、三階の自分の部屋へと戻った。
部屋に入り、ドアの鍵とチェーンを厳重にかける。ようやく一息ついた彼は、濡れたパーカーを脱ぎ、持って帰ってきた傘を玄関のたたきに立てかけようとした。
その時、傘の「手元(持ち手)」を見て、直樹は凍りついた。
(……違う)
それは、直樹の傘ではなかった。
ブランドも、色も、形も、自分のものと酷似していたが、持ち手の部分に、直樹の傘にはない「黒い細紐」が巻き付けられていた。
居酒屋の店員が、よく似た他人の傘を間違えて渡してしまったのだろう。
「なんだよ、せっかく取りに行ったのに……。明日、また返しに行くか」
直樹はため息をつき、その見知らぬ傘を玄関の隅に立てかけた。
お風呂に入り、温かいシャワーを浴びているうちに、先ほどのストーカーのような恐怖も徐々に薄れていった。あれは、雨の夜に変な酔っ払いに絡まれそうになっただけだ、そう思うことにした。
深夜の三時頃、直樹はベッドに入り、電気を消した。
外の雨は一向に弱まる気配がなく、窓ガラスを激しく叩き続けている。
うとうとと眠りに落ちかけた、その時だった。
ピチャリ。
部屋の中で、水滴が落ちる音がした。
直樹は目を覚ました。
ピチャリ、ピチャリ。
音は玄関の方から聞こえる。濡れた傘から雨水が床に垂れているのだろう。明日の朝、拭けばいい。そう思って寝返りを打った。
しかし、音がだんだんと近づいてくる。
ピチャリ……ピチャリ……ピチャリ……。
それは、水滴が落ちる音ではなかった。
濡れた足が、フローリングの床を歩いている音だ。
玄関から、廊下を通り、直樹が寝ているこの寝室へ向かって、ゆっくりと近づいてきている。
家の鍵は閉めたはずだ。チェーンもかけた。窓だって全てロックされている。
恐怖で全身が硬直した直樹は、掛け布団の隙間から、寝室の入り口の暗闇をじっと見つめた。
部屋のドアは、いつの間にか細く開いていた。
そこから、暗闇を這うようにして、何かが室内に侵入してきた。
それは、衣服を一切身にまとっていない、異様に痩せこけた「女」の姿だった。
全身が水浸しで、長い黒髪からドボドボと泥水を床に滴らせている。その手足は異常に関節が柔らかく、まるで蜘蛛のように床を這い回っていた。
女は、ゆっくりと直樹のベッドに近づいてきた。
直樹は息を止め、目を瞑ろうとしたが、恐怖のあまり瞼が動かない。
女の顔が、直樹の顔の真上にまで迫った。
髪の毛から滴る冷たい泥水が、直樹の頬にポタポタと落ちる。強烈な生臭さと、川底の泥の臭いが鼻を突いた。
女の顔は、肉が腐り落ちており、白い頭蓋骨が一部覗いていた。
しかし、その目は生々しく血走っており、直樹を激しく睨みつけていた。
そして、女は濡れた手を伸ばし、直樹の首をじわじわと締め上げながら、耳元でドスの利いた、地を這うような声で囁いた。
『……それ、あたしの』
直樹はそこで意識を失った。
翌朝、直樹は激しい頭痛とともにベッドの上で目を覚ました。
夢だったのか、そう思いながら首に手をやると、そこには明確な、人間の指の形をした「黒いあざ」がくっきりと残っていた。
恐怖に駆られた直樹は、這うようにして玄関へと向かった。
玄関の床は、水たまりができたようにびっしょりと濡れていた。
しかし、昨夜そこに立てかけてあった、あの見知らぬ傘は。
跡形もなく、消え去っていた。
それ以来、直樹はどんなに雨が降っていようとも、外出先で傘を忘れた際、二度とそれを取りに戻ることはしなくなった。あの女が、自分の「忘れ物」を探して、今も雨の街を彷徨っているかもしれないからだ。




