第158話 制裁解除の春と、核融合炉の冬
モスクワ、クレムリン。
厚く垂れ込めた鉛色の雲が、赤の広場を底冷えのする陰鬱な影で覆い尽くしていた。凍てつくような冬の風が城壁に吹きつけ、微かな唸り声を上げている。
だが、その歴史的建造物のさらに地下深く——核攻撃やあらゆる電磁パルス、最新鋭の盗聴技術から完全に隔絶されるよう設計された大統領府安全保障会議室には、地上の寒さも喧騒も一切届かない。
そこにあるのは、無機質で完璧に調整された空調の微かな稼働音と、国家の命運を左右する重圧だけである。
この部屋の空気は、極東の島国の技術に狂奔し、不老不死の妙薬に目が眩んで怒号を飛び交わせるような他国の地下室とは、根本的に異なっていた。
欲望で目を血走らせて喚き散らす老人たちはここにはいない。誰も声を荒らげず、誰も夢物語を語らない。
ただ、恐ろしいほどの静寂と、冷徹な現実主義だけが、この分厚いコンクリートの壁の間に重く沈殿していた。
円卓を囲むように座る各省庁のトップたちの視線は、壁面を覆い尽くす巨大なスクリーンに注がれている。
そこには、現在のロシアと世界を取り巻くあらゆる情報が、冷たい数字とグラフ、そして地図となって表示されていた。
欧州への天然ガス需要の長期予測グラフ。フランス南部に位置する核融合炉関連施設の衛星画像。日本・アメリカ・フランスを結ぶ強固な技術協力の相関図。ロシア国内におけるインフラの更新計画。氷が溶けつつある北極航路の運用状況。欧州電力市場の価格変動予測。そして、かつての制裁解除後にロシアへ復帰した外国企業のリスト。
それらのデータ群は、ロシアという大国の「現在」の安定と、「未来」の破滅という、二つの極端な現実を容赦なく可視化していた。
重厚な防音扉が音もなく開き、ウラジーミル・ボグダノフ大統領が静かな足取りで入室してきた。
円卓の閣僚たちが一斉に立ち上がり、無言で敬意を示す。ボグダノフは軽く右手を挙げて彼らを制し、上座の重厚な革張りの椅子に深く腰を下ろした。
彼の灰色の瞳は、スクリーンに並ぶ情報を一瞥した後、円卓の面々へと向けられた。
「始めよう。日本の総理が交代したようだな」
ボグダノフの低く、一切の感情を交えない声が、会議の幕開けを告げた。
大統領府安全保障補佐官のオルロフが、手元の極秘ファイルを開き、居住まいを正した。
「はい。副島前総理は、選挙での敗北や党内抗争による失脚ではなく、自らの意志で退く『勇退』という形を取りました。任期満了に伴う総選挙においては、与党・自民党が歴史的な大勝を収めており、政権移行は極めて円滑に行われています。後任は、矢崎薫総理です」
ボグダノフは、手元のタブレットに表示された新総理の経歴に少しだけ目を落とし、短く問いかけた。
「ほう。付け入る隙はあるか?」
オルロフ補佐官は、微塵の躊躇もなく即答した。
「現時点では、ほぼありません」
会議室に、短い、しかし重い沈黙が落ちた。
通常、一国のトップが交代する時期というのは、権力の空白や方針のブレが生じやすく、他国にとっては情報工作や外交的揺さぶりをかける絶好の好機となる。だが、今の日本にはそれが当てはまらないというのだ。
ボグダノフは少しだけ目を細め、先を促すように指を動かした。オルロフは報告を続ける。
「矢崎総理は、副島前総理の路線を完全に継承する構えです。のみならず、彼女は法務や医療分野での実務経験が豊富であり、アンノウン技術を国内の法制度に組み込む現在のフェーズにおいて、最も適任と評価されています。
特筆すべきは、政権の顔が変わったにもかかわらず、アンノウン関連の政策を裏で取り仕切る官邸の実務ライン——内閣官房の極秘チームが、そのまま一切の変更なく継続している点です。頭がすげ替わっても、首から下のシステムは完全に維持されています」
「外交面はどうだ。アメリカは新政権をどう見ている」
「アメリカの動きは尋常ではありませんでした」
オルロフは、一枚の報道写真をスクリーンに映し出した。羽田空港に降り立つエアフォース・ワンと、出迎える矢崎総理の姿だ。
「キャサリン・ヘイズ大統領は、矢崎新政権発足直後に即時来日を果たしました。異例のスピードです。両者はヘイズ大統領が検事だった時代からの旧知の仲であり、首脳会談では極めて親密な個人的信頼関係をアピールしました。
結果として、日米同盟の絆には一切の揺らぎがないこと、そしてアンノウン技術の国際的な管理枠組みにも変更が生じないことが、全世界に向けて強烈に発信されました」
ボグダノフは、スクリーンの写真を見つめながら、低い声で確認した。
「日本側の内部に、混乱はない、か」
その言葉を受け、対外情報庁(SVR)長官のマロゾフが口を開いた。彼の顔には、情報機関のトップとしての苦渋の色が滲んでいた。
「少なくとも、外から見える範囲においては、まったく隙がありません。……大統領、我が国が日本国内に築き上げてきた諜報網は、現在かなり壊滅的な状態にあります」
マロゾフは、手元の報告書を忌々しげに見つめた。
「日本の『監視システム(グラス・アイ)』による異常な監視能力により、我が国のエージェントの多くが活動を制限され、あるいは排除されました。現在の状況は、ロシアと比較的良好な関係を維持している第三国の協力者ルートを経由して、かろうじて情報を集めている状態です。
ですが、その協力者たちからの分析を総合しても、矢崎政権への引き継ぎは万全の体勢で行われており、我々が介入して内部分裂を煽るような余地は残されていません」
「日本国内の網は、まだ使えんか」
「危険です」
マロゾフは断言した。
「接触ルートの多くは沈黙を余儀なくされています。残ったわずかな協力者も、こちらから無理に深く踏み込ませれば、即座に日本の防諜網に捕捉され、完全に消滅する可能性が高い。彼らを失えば、我々は日本の内情について完全に盲目となります」
ボグダノフは、ゆっくりと息を吐き出し、深く頷いた。
「まあ、そんなに甘くはないか」
大統領のその一言で、日本の政権交代に乗じて何らかの工作を仕掛けるという選択肢は、完全にテーブルから排除された。
もし相手が中国であれば、焦りから無理な工作を命じ、結果として貴重な情報網をさらに失う羽目になっていたかもしれない。だが、ロシアは今、無駄な血を流すような賭けには出ない。退くべき時は退く。それが静かな熊の流儀であった。
◇
「それより、ヨーロッパの新たな火の状況は?」
ボグダノフが話題を切り替えると、エネルギー相のグロモフが手元の端末を操作した。
スクリーンの中央に、フランス南部にある巨大な研究施設の衛星画像と、その施設内部で計測されたエネルギー波形のデータが拡大表示された。
「フランスが、アンノウン式13m級教育用核融合炉の『1分間限定起動』に成功しました」
グロモフのその報告に、会議室の空気が一段と重く、冷たく沈み込んだ。
「日本のモデルを元にした実証実験です。出力はあくまで限定的で、本格的な商業発電にはまだ程遠い段階ではありますが……炉心内のプラズマ反応、磁場の自律制御、そして何より『安全停止』のプロセスが、彼らの規定範囲内に完璧に収まったと見られます」
核融合。
化石燃料に依存するロシアにとって、それがいかに致命的な技術であるかは、この場にいる全員が痛いほど理解していた。
ボグダノフは、眉間に深いシワを寄せ、冷徹に問うた。
「このペースなら?」
「我々の想定を遥かに超える速度です」
グロモフは、厳しい表情で答えた。
「アメリカと日本から提供された『教科書』と『設計図』の精度が異常なまでに高いのでしょう。フランスの科学者たちは、既存のITER(国際熱核融合実験炉)での知見を総動員し、このアンノウン技術を恐ろしい速度で消化吸収しています。
……このペースで実証実験が進めば、5年後には、欧州において核融合炉を商業ベースに乗せても不思議ではありません」
「5年後、か」
経済相のヴォルコワが、少しだけ首を横に振って口を挟んだ。
「通常の地球の技術開発のスピードであれば、5年など楽観的すぎる見通しです。施設の大規模化、送電網との接続、安全基準の法制化。クリアすべき壁は山ほどあります。
……ですが、アンノウン関連の技術においては、我々の考える『楽観的すぎる見通し』が、そのまま現実のスケジュールとして突きつけられることが多いのも、また事実です」
ボグダノフは、両手を組んで顎を乗せた。
「ロシアとしては、かなり危機的な状況か」
「はい」
グロモフが力強く頷いた。
「もし5年後に、欧州で核融合炉が実用化のフェーズに入り、それが普及し始めれば……我が国のエネルギー外交は、根本から揺らぎます。いや、完全に崩壊すると言っていいでしょう」
◇
だが、会議室に蔓延しかけた絶望感を払拭するように、ヴォルコワ経済相が手元の資料を切り替えた。
スクリーンには、現在のロシア経済の各種指標——GDP成長率、インフレ率、為替相場、外貨準備高などが表示された。そのグラフの多くは、明確に上向きの曲線を描いていた。
「……ただし。現時点でのロシア経済は、決して悪くありません。むしろ、かつての制裁時代からは完全に脱却し、明確に回復基調に乗っています」
ヴォルコワは、落ち着いた声で報告を始めた。
「ウクライナでの休戦合意後、我々に対する欧米の経済制裁は段階的に解除されました。そして何より、北方領土の返還という歴史的カードを切ったことで、日本との関係も安定化し、アジアからの莫大な資本流入が再開しました。
これを契機に、一度はロシア市場から撤退していた欧州企業の多くも、再びこの巨大な市場へと再参入を果たしています」
画面には、モスクワやサンクトペテルブルクで再オープンする外資系ブランドの店舗や、活気を取り戻した工業地帯の映像が次々と映し出される。
「ルーブルは安定し、インフレも沈静化傾向にあります。
制裁解除によって得た外貨収入を元手に、シベリアや極東地域で長年放置されていた老朽化した鉄道、道路、港湾施設、そして送電網の更新工事が急ピッチで進められています。
これらの一連の公共投資により、地方都市での雇用は劇的に改善しました。国民の生活水準は、制裁下で苦しんでいた時代に比べれば、明らかに良くなっています。スーパーには商品が溢れ、人々は再び休日の買い物を楽しむ余裕を取り戻しました」
ヴォルコワは、最後に政権の支持率を示すグラフを提示した。
「国民は、再び訪れたこの平穏な生活に満足しています。ボグダノフ政権への支持率も、回復傾向にあります」
ボグダノフは、その報告を聞いて静かに頷いた。
「つまり、このまま経済発展を続ける路線を維持できるなら、現状では何も問題はないということだな」
「短期的には、その通りです」
ヴォルコワは肯定した。
今は、冬の嵐が過ぎ去った後に訪れた、束の間の「春」なのだ。
だが、その春が永遠に続くとは、この部屋の誰も信じてはいなかった。
グロモフ・エネルギー相が、ヴォルコワの言葉を引き取るようにして、冷や水を浴びせた。
「問題は、その『短期』がいつまで続くかです」
「核融合炉が、欧州全域に広がるまで、か」
ボグダノフの問いに、グロモフは重々しく頷いた。
「はい」
◇
グロモフは、スクリーンに新たな未来予測図を表示した。
それは、核融合炉が欧州に普及した後の、ロシア経済の崩壊シナリオであった。
「欧州に核融合炉が普及すれば、彼らの天然ガスおよび石油の輸入量は、劇的に低下します。
現在、我々が欧州に輸出しているエネルギー資源は、彼らの生活インフラを支える生命線です。だからこそ、我々は強気な価格交渉ができ、外交的な圧力をかけることができた。
しかし、彼らが無尽蔵のクリーンエネルギーを手に入れれば、ロシア産ガスの価格交渉力は決定的に低下します。石油や天然ガスから得られる収入の長期的な減少は避けられず、ロシアの国家財政の歳入構造は根底から崩れ去ります」
画面には、ロシアから欧州へと伸びる無数のパイプラインが、次第に色を失っていくアニメーションが映し出された。
「それだけではありません。
欧州の電力価格が劇的に低下すれば、彼らの産業競争力は爆発的に上昇します。製造コストは下がり、新たな技術投資への余裕が生まれる。我々が化石燃料を使ってかけてきた政治的圧力は、完全に無効化されます。
……エネルギー輸出依存国家としてのロシアの地位は、世界経済の底辺へと転落するでしょう」
「欧州に核融合炉が普及すれば、我が国の天然ガスと石油は、単なるコモディティ(資源)に成り下がる。外交の武器ではなくなる、ということか」
ボグダノフの冷たい言葉に、グロモフは悲痛な顔で同意した。
「はい。ガス管が、政治の紐ではなくなるわけです」
軍・安全保障担当のスミルノフ国防相が、さらに致命的な懸念を口にした。
「エネルギー価格が下がり、無尽蔵の電力が供給されるようになれば、欧州の産業力は我々を遥かに凌駕する次元へと突入します。
新素材の開発、大規模な製造プラントの稼働、次世代宇宙輸送インフラの構築、そして膨大な計算資源を必要とするAIの開発。さらには、それらを利用した軍需産業の飛躍的な進化。
エネルギー革命は、全てに影響します。我が軍が、核融合の恩恵を受けたNATO軍と対峙することになれば……通常戦力での勝ち目は完全に消滅します」
ヴォルコワ経済相も、重い口調で同調する。
「つまり、これは単にエネルギーの売り先がなくなるという話ではありません。
国家の産業基盤そのものの競争力が、決定的な格差を生むという話です。我々は、文明のステージそのものから取り残される危険性があります」
ボグダノフは、スクリーンに映し出された欧州の地図を、憎々しげに睨みつけた。
「新たな火は、古い帝国の影を薄くするか」
会議室は、鉛のような沈黙に支配された。
制裁解除の春を謳歌している背後で、確実に、そして圧倒的なスピードで、国家を凍死させる「核融合炉の冬」が近づいているのだ。
◇
「アメリカと日本は、中国と我が国に、核融合炉技術を渡す気がない」
ボグダノフが、確認するように言った。
中国については、医療用キットに狂奔するあまり、エネルギー技術へのアプローチすらまともにできていないという情報を得ていた。
だが、ロシアは違う。ロシアは喉から手が出るほどこの技術を欲している。
「渋っているというより、現時点では完全に門前払いです」
マロゾフSVR長官が、冷酷な現実を突きつけた。
「フランスは、彼らが特別に選んだ例外的な協力対象です。我が国は、依然として日米の最高レベルの警戒対象に分類されています。正規の外交ルートで技術共有を求めても、相手にされることはありません」
「なんとか、この状況を打破したいところだな」
ボグダノフの呟きに、スミルノフ国防相が身を乗り出した。
「直接入手は不可能なのか?
我々のスペツナズ(特殊部隊)やサイバー部隊を総動員して、フランスのITER施設からデータを……」
「危険が大きすぎます」
マロゾフが即座に否定した。
「日本、アメリカ、フランスの中核ルートは、現在、異常なまでの防諜体制が敷かれています。特に、日本の『監視システム』の監視網を掻いくぐって物理的なデータを奪取することは、現状の我々の能力では不可能です。失敗すれば、取り返しのつかない事態を招きます」
ヴォルコワ経済相も、経済的な観点から国防相の強硬策を諫めた。
「今、強引な工作が露見すればどうなるかお分かりでしょう。
ようやくロシアに戻ってきた外国企業は、再びパニックに陥って撤退します。欧米に、我々に対する『再制裁』の大義名分を与えることになります。
せっかく回復基調にある経済の春を、自らの手で潰すことになります」
ボグダノフは、二人の意見を聞いて、静かに頷いた。
「つまり、今は動けないということか」
「はい。少なくとも、直接的な奪取工作という形では」
マロゾフが肯定する。
ロシアは、自爆覚悟で特攻するような愚かな国ではない。
今はじっと耐え、相手の隙が生じるのを待つ。それが正しい選択であった。
◇
しかし、会議室の空気が完全に閉塞感に包まれかけたその時、グロモフ・エネルギー相が、現実的な可能性の糸口を提示した。
「大統領。現在、技術はフランス一国が日米と共同で抱え込んでいます。しかし……これがフランス一国ではなく、EU全体に核融合炉技術が『広がった』場合、状況は大きく変わります」
ボグダノフの目が、鋭く光った。
「EU全体に普及すれば、我々でもコピーできると?」
「少なくとも、技術の断片を入手できる可能性は飛躍的に上がります」
グロモフは、その理由を理路整然と並べ立てた。
「技術がEU全体に広がれば、当然ながら運用拠点はフランス以外にも増えます。それに関わる関係技術者の数も爆発的に増大する。
人材を育成するための教育機関が関わり、周辺機器を製造するための部品供給網が広がり、保守やメンテナンスを担う業者が無数に参入します。
さらに、EUという官僚主義的な組織の性質上、各国間で共有するための標準化資料や、安全性評価書、運転概要といった膨大なドキュメントが必ず作成され、流通することになります。
……そうなれば、現在のような鉄壁の情報管理の密度は、必ず維持できなくなります」
「技術は広がれば薄まります。そして秘密も、知る人間の数が増えれば、必ず薄まるものです」
マロゾフSVR長官が、諜報のプロフェッショナルとしての冷徹な真理を口にした。
「なるほど」
ボグダノフは、顎を撫でながら考えを巡らせた。
「だが、EU全体への技術の普及は、アメリカが全力で阻止するだろう。彼らは技術の拡散を何よりも恐れている」
「はい。日本も同じ思惑でしょう。そして、現在技術を独占しているフランス自身も、自国の優位性を薄めることには極めて慎重になっています」
マロゾフが同意する。
「それでも、です」
グロモフが、欧州の政治的力学の弱点を突いた。
「EU議会は、騒ぎ続けます。彼らにとって、“フランスだけが未来の無尽蔵の電力を握る”という構図は、EUの理念に反するものであり、絶対に受け入れがたいものです。ドイツやイタリアをはじめとする加盟国は、必ず技術の共有を求めてフランスとアメリカに圧力をかけ続けます」
ボグダノフの口元に、微かな、しかし酷薄な笑みが浮かんだ。
「そこを使うか」
◇
マロゾフSVR長官が、具体的な情報工作のプランを提案した。
「大統領。我々が正面からリスクを冒して技術を盗みに行く必要はありません。
欧州の内部に、『共有を求めさせる』のです」
スクリーンに、EU内部の政治的な対立構造や、環境団体、産業界のロビー活動のネットワーク図が表示される。
「具体的には、我々の息のかかったダミー団体やメディアを通じて、EU議会内の『技術共有派』を間接的に支援します。
『クリーンエネルギーである核融合炉は、一国の独占物ではなく、欧州全体の共有財産であるべきだ』という言説を育て、世論を誘導します。
フランスの独占に対する他国の反感を刺激し、小国にもアクセス権があると主張させる。産業界には『安価な電力を全欧州へ平等に供給せよ』と訴えさせ、環境派のNGOには『化石燃料からの完全脱却のために、全欧州で技術を共有すべきだ』と声を上げさせます」
マロゾフの提案は、極めて洗練された情報戦であった。
「いきなり核心技術の開示を求めるのではありません。
最初は、ごく表面的な『成果概要の共有』を求めさせる。それが通れば、次は『環境への影響を検証するための安全データ』。そして『人材育成のための教育資料』、『運用方針の共有』と、徐々に要求をエスカレートさせていく。
……その間、我々ロシアは一切表に出ません。彼らが勝手に扉を開け放つのを、影から待つだけです」
「美しい言葉ほど、諜報には便利だ」
ボグダノフは、その陰湿で効果的な戦略を高く評価した。
「“公平”、“共有”、“人類の利益”、“環境保護”……。どれも、欧州の理想主義者たちの心にはよく響く言葉です」
マロゾフも、冷笑を浮かべて応じた。
「ただし、露骨にやればアメリカの情報機関に見抜かれますよ」
ヴォルコワ経済相が、慎重に釘を刺す。
「見抜かれるでしょう。アメリカのCIAも無能ではありません。ですが、決定的な証拠として『証明』されなければよいのです。疑われることと、国家間の非難決議に発展することは全く別の話です」
マロゾフは、一切の動揺を見せずに答えた。
「切れる線だけを使え」
ボグダノフは、短く、しかし絶対的な命令を下した。ロシア政府との繋がりが絶対に辿れない、使い捨てのルートのみを使用せよということだ。
「承知いたしました」
マロゾフが深く首を垂れた。
◇
戦略の方向性は定まった。
だが、ボグダノフはここで一度、あえて逆の視点から盤面を俯瞰し、自らの論理を疑ってみた。
「待て。少し整理しよう」
ボグダノフの言葉に、会議室の空気が引き締まる。
「核融合炉がEUに普及すれば、我々のエネルギー外交は破綻する。
だが、EU全体に普及すれば、我々にも技術断片が流れてくる可能性が高まる。
一方で、アメリカがその技術拡散を阻止するなら、EUでの普及は遅れる。
……ならば。普及が遅れるのであれば、我が国への悪影響は、そこまで急激には来ないのではないか?」
アメリカが必死にフランスの技術を囲い込もうとすればするほど、核融合の商業化と普及は遅れ、ロシアの天然ガスが売れる期間は延びる。
その矛盾した構造を指摘され、会議室に一瞬の沈黙が落ちた。
「短期的には、大統領の仰る通りです」
ヴォルコワ経済相が、冷静に答えた。
「今すぐ明日、我が国の財政が崩壊するわけではありません。アメリカの技術ブロックのおかげで、我々は当面のエネルギー収入を確保できるでしょう」
「ただし、それはあくまで『時間を稼げるだけ』です」
グロモフ・エネルギー相が、厳しい表情で付け加える。
「どれだけアメリカが拡散を抑えようとも、フランスで実証が成功したという事実は消えません。商業化に向けたステップは確実に進み、10年、20年というスパンで見れば、我が国の価格交渉力は必ず落ちていきます」
「加えて、政治的な波及効果です」
マロゾフSVR長官が、情報機関の視点から補足する。
「欧州の中で『無限のエネルギー』という成功事例が出れば、その恩恵を求める政治的な流れは、もはや誰にも止められません。たとえアメリカが軍事的な理由で拡散を抑えようとしても、欧州各国の『技術への要求』は内側から膨張し続けます。
その波に抗い続けることは、いかなる超大国でも不可能です」
「つまり、即死ではない。だが、放置すれば確実に衰弱していく、ということか」
ボグダノフが、自国の未来を冷徹に定義づけた。
「はい」
ヴォルコワが静かに頷いた。
「ならば、我々がなすべきことは明確だ。
稼いだ時間の間に、自らが変わるしかない」
◇
ヴォルコワ経済相が、スクリーンの表示を切り替えた。
そこに映し出されたのは、他国への工作ではなく、ロシア自身が生き残るための「内なる大改革」——守りの国家戦略の青写真であった。
「我々も、資源を売るだけの国家から脱却しなければなりません。核融合炉時代において、化石燃料に依存したままでは、確実に交渉力を失い、国家は死滅します」
ヴォルコワは、次々と新たな産業投資計画の項目を読み上げていく。
「まず、化石燃料への依存を計画的に下げていく国家ロードマップの策定。
地球温暖化による恩恵を最大限に活用し、北極航路の開発と周辺インフラの整備を加速させ、世界の物流の新たな動脈を握る。
単に鉱物資源をそのまま輸出するのではなく、国内での精錬・加工施設に投資し、高付加価値化した新素材として輸出する体制への転換。
広大な国土を活かした、食料および肥料輸出の戦略的強化。
かつて我々が世界をリードしていた宇宙・航空産業への再投資。
そして、新時代においても需要が残るであろう、既存の高度な原子力技術の輸出維持」
それは、ロシアという国家の骨格を、根本から作り変えるための途方もない計画であった。
「低価格エネルギー時代が到来した時に備え、新たな製造業の基盤を再建しなければなりません。制裁解除によって戻ってきた外国企業の資本と技術を利用し、国内の産業基盤を強引にでも更新するのです。
そのためには、優秀な頭脳の海外流出を何としても食い止め、科学教育へ莫大な再投資を行う必要があります。
シベリア・極東開発を進め、アジアとの結びつきをより強固なものにする。……これらを、稼いだ時間の中で成し遂げなければなりません」
ヴォルコワの熱のこもった説明を聞き終え、ボグダノフは短く言った。
「簡単に言う」
「簡単ではありません。実現には血を吐くような痛みを伴うでしょう。ですが、やらなければ確実に衰退します」
ヴォルコワは一歩も引かずに答えた。
「我々の冬は、ガスで暖めることはできません」
グロモフ・エネルギー相が、自らの管轄する産業の黄昏を予感し、沈痛な面持ちで言った。
「詩的だな」
ボグダノフが、少しだけ口角を上げた。
「恐ろしく現実的です」
グロモフは、一切笑わずに答えた。
◇
会議が終盤に差し掛かった。
ボグダノフは、円卓の閣僚たちを見回し、本日の議論の全体を整理し始めた。
「選択肢を確認する。
第一に、日本の総理交代による政権の隙を突き、内部から揺さぶる案。
……矢崎政権の基盤は盤石であり、付け入る隙はない。不採用だ。
第二に、日本、アメリカ、あるいはフランスから、核融合の技術を直接奪取する案。
……防諜網が強固すぎ、危険が大きすぎる。不採用。
第三に、フランスに対して直接外交圧力をかけ、技術を要求する案。
……日米が即座に反応し、我々が不利な立場に追い込まれるだけだ。不採用。
第四に、EU内部の技術共有圧力を間接的に支援し、情報管理の網が緩むのを待つ案。
……リスクが低く、現実的だ。採用する。
第五に、自国の研究体制の再編と、脱化石燃料を見据えた産業構造の転換。
……時間はかかるが、国家生存のために絶対的に必要だ。採用。
そして第六に、制裁解除によって得られた現在の経済回復基調を、何よりも守り抜くこと。
……これがすべての戦略の前提となる。最優先事項として採用する」
ボグダノフは、自らが読み上げた選択肢の残酷さを噛み締めるように、低く息を吐いた。
「結論として。……我々は今、現世代では『手詰まり』だ」
誰も、その言葉を否定しなかった。
世界を震撼させた超大国が、自らの無力さを完璧に認識し、受け入れた瞬間であった。
「完全に詰んだわけではありません」
ヴォルコワ経済相が、励ますように、しかし理知的に言った。
「ああ。チェックメイトではない」
ボグダノフは、巨大なスクリーンに映る世界地図を見つめたまま、静かに言った。
「だが、こちらの手番ではない」
「状況が変わるのを、待つしかありません」
マロゾフSVR長官が、諜報の冷酷な真理を口にする。
「EU内部の亀裂が決定的なものになるか、フランスへの反発が爆発するか。あるいは、アメリカの国内政治が混乱するか、日本側が何らかの致命的な失策を犯すか。
……どれかが起きれば、硬直した盤面は必ず動きます。我々はその一瞬の隙を突くために、今はただ息を潜めているべきです」
「他人のミスを待つ国家、か」
ボグダノフが、自嘲気味に呟く。
「負けている側は、しばしばそうなります」
マロゾフは、一切の慰めを含まない、ただの事実として答えた。
ボグダノフは、その容赦のない部下の言葉に、皮肉げに笑うしかなかった。
◇
「方針を決める」
ボグダノフ大統領が、最終的な決断を下した。その声には、敗北感に打ちひしがれる老人の弱さは微塵もなく、冷徹に生き残りを図る指導者の強靭な意志が宿っていた。
「日本の総理交代に付け込むような、小手先の工作は行わない。
日本、アメリカ、フランスの中核施設に対する直接的な諜報・破壊工作も、当面は控える。
フランスにおける核融合炉の進展状況を、我が国の最重要監視対象に指定する。
EU内部の技術共有に向けた圧力を、切れる線だけを使って間接的に支援しろ。我々ロシアは、決して表の舞台には出ない。技術の断片が彼らの手から零れ落ちるのを、長期的な視野で待つ。
国内においては、自国の核融合研究および次世代エネルギー研究の体制を再編する。
化石燃料への依存を計画的に下げるための国家計画を直ちに策定しろ。
制裁解除によって得られた現在の経済回復を、何よりも最優先で維持し、国力を蓄える。
老朽化したインフラの更新を継続し、北極航路、資源の高度加工、宇宙・航空産業、そして農業輸出へと、重点的に投資を振り向けろ。
……今は、状況の変化を待つ」
ボグダノフは、円卓の全員を鋭い眼光で射抜いた。
「今のロシアに必要なのは、勝つことではない。
負けを確定させないことだ」
その重苦しい、しかし国家の生存本能に満ちた命令に、閣僚たちは一斉に深く頷いた。
◇
会議が散会し、閣僚たちが足早に退室していく。
誰もいなくなった安全保障会議室で、ボグダノフは一人、上座の椅子に座ったまま、壁面の巨大スクリーンを見上げていた。
そこに映し出されているのは、欧州を中心とした世界地図である。
フランスの南部に位置する、ITER関連施設。
そこから欧州全域へと張り巡らされた、複雑な電力網。
そして、ロシアの大地から欧州へと這うように伸びる、太い天然ガスのパイプラインの網の目。
さらに視点を移せば、極東に位置する小さな島国・日本と、海を越えた超大国アメリカの姿がある。
世界の中心が、少しずつ、しかし確実に移動している。
かつては、ロシアが誇る凍てつくような「寒さ」と、それを凌ぐための「天然ガス」が、欧州の国々の首根っこを強く縛り付けていた。
エネルギーの蛇口を握る者が、政治の覇者であった。
だが今、欧州には全く別の、理不尽なまでの力を持った新しい「火」が灯ろうとしている。
その火が本格的に燃え上がれば、ロシアのパイプラインはただの鉄くずと化し、大国としての威信も、交渉力も、全てが灰燼に帰すだろう。
ボグダノフは、静寂に包まれた部屋の中で、低く、重い声で呟いた。
「……ロシアは、寒さには耐えられる。
どれほどの猛吹雪であろうと、凍える大地であろうと、我々は歴史上、常にそれに耐え、生き抜いてきた。
だが……。
未来に置き去りにされることには、耐えられん」
彼は、手元のコンソールを操作し、フランスの核融合炉に関する絶望的な予測報告書のファイルを、パタンと閉じた。
ウクライナでの休戦と制裁解除により、春は確かにロシアへと戻ってきていた。
街には外国企業が戻り、インフラ工事の槌音が響き、国民は久しぶりに、明日の生活が今日よりも良くなることを信じ始めていた。
だが、欧州の地で、日本の技術によって一分間だけ灯された「神の火」は、その穏やかな春が永遠に続くものではないことを、あまりにも残酷に告げていた。
いずれ、すべてを凍りつかせる「核融合炉の冬」がやってくる。
静かな熊は、まだ倒れない。
経済を立て直し、産業を転換し、他国のミスをじっと待ち続けるだけの、老獪な忍耐力と体力が残っている。
だが、自分たちの季節(冬)が確実に終わりつつあることだけは、世界の誰よりも早く、そして深く理解していたのであった。
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