第154話 総理、勝って退く
東京都千代田区永田町、首相官邸。
地下五階に設けられた『特別情報分析室』は、外界の喧騒や天候の変化から完全に切り離された、無機質で冷徹な絶対の密室である。分厚い鉛と特殊コンクリートに守られたこの空間には、空調の微かな稼働音と、高度な電子機器が発する微細な熱気だけが滞留していた。
円卓を囲むのは、副島内閣総理大臣を筆頭に、官房長官、内閣官房参事官の日下部、そして外務、防衛、経産、厚労の各省から選抜されたコアメンバーたちだ。彼らの表情には、連日のオーバーテクノロジー対応による深い疲労と、それ以上に重い「現実」が刻み込まれている。
「——ジャミング、オン」
官房長官が手元のコンソールを操作し、低く短い声で宣言した。
ブゥン……という、内臓の奥底を微かに震わせるような極低周波の駆動音が室内の空気を満たす。テラ・ノヴァの技術を応用した『位相干渉装置』が稼働し、室内の照明が警戒を示す薄暗い赤色へと切り替わった。いかなる最新鋭の盗聴器や傍受衛星であろうと、この部屋の音や電磁波を外部に持ち出すことはできない。完全な秘匿が担保された。
総理が、手元に置かれた極秘の資料束を静かに開いた。
「では、アンノウン関連技術の進捗確認から始めよう」
総理の視線が、円卓の向かいに座る日下部へと向けられる。
「……日下部くん、顔色が悪いな」
総理の軽い労いの言葉に、日下部は表情をピクリとも変えずに答えた。
「最近、顔色が良かった記憶がありません」
「それもそうか」
総理が苦笑すると、円卓のあちこちから、同じように疲労困憊の官僚たちによる、力ない笑い声が漏れた。
この異常な状況下で、彼らはお互いの胃痛と睡眠不足を労うことでしか、精神の均衡を保てないのだ。
「まずは、エネルギー分野からだな」
総理の促しを受け、経済産業省の担当官が居住まいを正し、タブレットを操作してメインスクリーンに資料を投影した。
「13m級教育用核融合炉については、現在、数理モデルの複数パターン検証に入っています」
スクリーンに、複雑なプラズマの挙動を示すシミュレーション映像と、膨大なパラメーターの羅列が表示される。
「アンノウン機関のトップ科学者たちは、すでに『基礎教科書群』の理解を完全に終了しております。
構築された13m級教育炉の数理モデルに対し、現在、通常運転、高負荷運転、燃料供給の変動、冷却系の異常、磁場制御のフェイルセーフ、そして最も重要な『緊急停止』時の挙動など、あらゆる過酷な条件下でのストレステストをシミュレーター上で回し続けています。……もちろん、アンノウン製の超絶的な演算資源を活用してのことですが」
経産省担当は、そこで一呼吸置き、確信に満ちた声で報告を締めくくった。
「現時点では、シミュレーション上に大きな破綻は確認されていません。材料負荷の長期予測もクリアしています。……早ければ、来月には『限定実証試験』へ移行できる可能性があります」
会議室が、微かに、しかし確かにざわめいた。
「いよいよ、練習用とはいえ核融合炉を動かすのか」
総理が、深く息を吐き出しながら唸るように言った。
人類が何十年も夢見て、何兆円もの予算を注ぎ込んでも到達できなかった「地上の太陽」。それが、日本の地下組織の管理下で、ついに現実のものとして産声を上げようとしているのだ。
「はい。実証場所は、予定通りヤタガラス内部の閉域研究区画を想定しています」
日下部が、淡々と確認する。
「国内地上施設ではないのですね」
防衛省担当が、少しだけ残念そうに……あるいは安堵したように尋ねた。
「現段階では避けるべきです」
日下部は即答した。
「万一の事故、安全保障上のリスク、情報漏洩、無用な見物人、そしてメディアの過剰な取材。……地上でやれば、全てが面倒な政治的火種になります。物理的に隔離された環境でなければ、このレベルの技術実証は不可能です」
「ヤタガラスなら、完全に閉じた空間で試せる。良いのではないか」
総理も、その判断を支持した。
「はい。正直、ここまで来ると、ヤタガラスがあることの利点が大きすぎます」
日下部は、本音を漏らした。
彼にとって、ヤタガラスはもはや「アンノウンが勝手に作った厄介な飛行物体」ではなく、地球の面倒な法律やしがらみから逃れるための、極めて便利な『特区』になりつつあった。
「問題は、ヤタガラスそのものが最大級の機密であることだな」
官房長官が、痛いところを突く。
「そこは考えないようにしています」
日下部は、真顔で答えた。
「考えろ」
「考えると胃が痛むので」
日下部の身も蓋もない返答に、会議室の空気が少しだけ緩んだ。
「アメリカとフランスの進捗はどうなっている?」
総理が、次の議題へと話を移す。
「アメリカ、フランスについても、日本側モデルを主系統として検証作業に移行しました」
外務省担当が、海外のインテリジェンス・レポートを読み上げる。
「両国とも、独自に数理モデルの構築を試みていましたが、アンノウンの設計思想を自国のコンピューター上で再現することに難航していました。
結果として、彼らは自前モデルの構築に見切りをつけ、日本から提供された『完成済みの数理モデル』を受け取り、それをベースに検証を進める方針へ転換しました」
「アメリカとフランスも、こちらのモデルで進むか」
総理が、少しだけ優越感を含んだ声で言う。
「はい。彼らはプライドより速度を取った形です。賢明な判断だと思います」
日下部が、冷徹に評価する。
「アメリカは自前のモデルを比較用として残しているようですが、実質的には日本のモデルに依存しています。フランスのITER関連施設でも、このモデルをベースにした実証準備が急ピッチで進んでいます」
「EU議会はまだ揉めているのか?」
防衛省担当が、欧州の泥沼の政治状況について尋ねる。
「はい。フランスのITER関連施設を使うなら欧州全体で管理すべき、というEU議会からの要求は続いています」
外務省担当が、苦々しい顔で答える。
「こちらは?」
総理が、日本側のスタンスを確認する。
「あくまでフランス政府との個別協議案件です。EU全体への拡大は現時点では時期尚早であり、情報保全の観点から絶対に認められません。フランスにもその線で抑えてもらいます」
日下部が、きっぱりと言い切った。
「フランスは持つか?」
「かなり強硬です。『最初にプライドを捨てて頭を下げたのは我々だ。美味しいところだけ持っていこうとするな』という姿勢ですね」
「まあ、それは事実だ」
総理が、フランスの主張に理解を示す。
「はい。あの時点でプライドを捨てて弟子入りしたのはフランスです。今さらEUの名で成果共有を求められても、フランスとしては納得しないでしょう」
日下部は、フランスを「防波堤」として使い続けるための心理的計算を、完璧に終えていた。
「次に、医療分野……人工義手・義足についてです」
厚生労働省担当が、新たな資料をスクリーンに投影した。
「アメリカへ提供した機能回復型人工義手・義足の初期症例について、非常に良好な結果が報告されています」
画面には、アメリカの退役軍人病院でのリハビリ映像が映し出される。
両足を失った元兵士が、不自然な歩き方ではなく、極めて滑らかに、そして自然な足取りで歩いている。両腕を失った患者が、義手の指先で小さなネジをつまみ上げている。
「アメリカ傷痍軍人会と退役軍人省を通じて患者が選定され、装着手術は全て成功しました。
初期稼働は極めて良好で、何より……『触覚、温度感覚、圧覚が生身に近いレベルで再現されている』と、患者本人から強い証言が得られています」
会議室が、驚きに包まれる。
「歩行、把持、指先操作の性能は想定通り。耐水性もあり、装着したままシャワーを浴びることも可能です。メンテナンスは3か月に1回で済み、出力は常人範囲に制限されていますが、医療目的としては極めて高い評価を受けています」
「アメリカ側からは、傷痍軍人向け協力枠の拡大について正式に協議を希望されています」
厚労省担当が、アメリカからの強い要請を伝える。
「まあ、それは当然だろうな」
総理が、映像を見ながら呟く。
「戦場で四肢を失った兵士が、生身に近い感覚を取り戻せる。アメリカ社会でのインパクトは絶大でしょう」
防衛省担当も、その社会的影響力の大きさを指摘する。
「はい。こちらとしても人道的には拒みにくい案件です」
日下部が、外交的な落とし所を模索しつつ同意する。
「問題は軍事転用だな」
総理が、鋭く核心を突いた。
「その通りです」
日下部の表情が、一段と険しくなった。
「それと、人工義手・義足に搭載している小型バッテリーについてですが……」
科学技術担当大臣が、少し言いにくそうに報告を切り出した。
「ああ。アメリカが驚いていた件か」
総理が、思い出したように言う。
「はい。既存のバッテリーと比較して、少なくとも数百倍、条件次第では1000倍級のエネルギー密度を持つ可能性があるとの見方が出ています」
1000倍級のエネルギー密度。
以前の彼らであれば、この数字を聞いた瞬間に会議室の空気が完全に凍りつき、パニックに陥っていただろう。
だが、今回は違った。
「まあ、アンノウン製ならそれくらいはあるか」
官房長官が、あっさりと受け入れた。
「四か月充電不要という話だったな」
防衛省担当も、特に驚く様子もなく確認する。
「機能回復型義肢としては、患者の負担が少なく非常に優れていますね」
厚労省担当に至っては、純粋に医療機器としての利便性を評価している。
「バッテリーが超高性能でも、義手義足の中に入っているだけなら、まあ良いのではないか?」
総理が、軽く結論づけようとした、その時。
「総理。皆さん。かなり感覚が麻痺していますよ」
日下部が、ひどく疲れた声で、円卓の全員に冷や水を浴びせた。
会議室が、シーンと静まり返る。
「……ただ、正直に言えば、私も見落としていました」
日下部は、自らの失態を認めるように深く息を吐いた。
「人工義手・義足本体の制御中核や神経接続のブラックボックス化に気を取られ、内部の電源ユニットの価値を過小評価していました。アンノウン基準では単なる『補助部品』でも、地球の基準では世界をひっくり返す劇薬です」
「日下部君でもか」
総理が、少し意外そうに言う。
「はい。強くは言えません。ですが、バッテリー技術を単体で解禁すると、電気自動車、ドローン、ロボット、軍用装備、宇宙機、災害用電源……現代文明のすべてのインフラに波及します」
「電気自動車関連は特に大きいですね。既存の自動車産業の構造が、根底からひっくり返ります」
経産省担当が、青ざめた顔で補足する。
「ですので、現時点ではあくまで『義手義足関連の部品』に限定すべきです。バッテリー単体での技術解禁はしません」
日下部が、強硬な方針を打ち出す。
「義肢の一部としてのみ扱う、か」
総理が確認する。
「はい。医療機器の内部部品として厳重に管理します。単体での取り外し、解析、他用途への転用は一切禁止です」
「アメリカへ追加条件を提示します」
日下部は、タブレットを操作し、アメリカへの要求事項を箇条書きで表示した。
・人工義手・義足は医療目的に限定。
・傷痍軍人・事故被害者など機能回復目的に限る。
・健常者強化は禁止。軍事強化用途への転用禁止。
・制御中核へのアクセス禁止。
・バッテリーユニットの単体取り外し禁止。分解・破壊解析禁止。
・非破壊検査も事前申請制。
・メンテナンスは日本側認定チームまたは認定施設のみ。
・異常ログは日本側にも共有。
・国防総省研究部門への横流し禁止。
・違反時は供給停止。
「アメリカ軍は抜け道を探すでしょう」
防衛省担当が、軍の強欲さを知る者として懸念を示す。
「探します。だから契約に書くのです。文字にしておけば、後で違反を咎める口実になりますから」
日下部が、冷徹な外交官の顔で言い切る。
「信じていないのか」
総理が問う。
「信じています。だからこそ監査します。信用と監視は矛盾しません」
日下部の迷いのない答えに、総理は少しだけ笑った。
「実に日下部君らしい」
技術的な報告と、それに対する政治的・外交的な対応策の確認。
いつものように、重苦しくも着実に、アンノウン案件の処理が進んでいく。
日下部は、手元の資料にチェックを入れ、本日の議題がすべて消化されたことを確認した。
「はい。本日の主な技術案件は以上です」
日下部がそう締めくくると、会議室の空気がふっと緩んだ。
誰もが、今日もまたアンノウンの投げ込んだ爆弾の処理が無事に終わったと安堵し、深く息を吐き出した。
「核融合炉は順調。人工義手・義足も医療としては良好。バッテリーは義肢内に限定。EU対応はフランスと歩調を合わせる。話題はこれくらいか」
総理が、資料をパタンと閉じながら確認する。
「はい。その認識で間違いありません」
日下部が頷く。
「さて、技術の話はここまでにしよう。次は政治の話だ」
総理が、不意に声のトーンを変え、全く別の資料をテーブルの中央に置いた。
会議室が、少しだけ固まる。
資料の表題には、こう書かれていた。
『次期衆議院総選挙および党総裁任期について』
「衆議院の任期満了が近い。任期満了による総選挙となれば、かなり久しぶりのことになるな」
総理が、静かに、だが重みのある声で切り出した。
「選挙準備は既に進めています」
官房長官が、実務的な対応状況を即答する。
「今回は、アンノウン政策への信任を問う選挙になるだろう」
総理は、円卓の閣僚たちを見回した。
「核融合炉、人工臓器、人工義手・義足、宇宙開発、中東との巨大ファンド設立、そして国際社会における強硬な外交姿勢。……これまで我々が密室で進めてきた政策を、国民に問うには、ちょうどよい時期だ」
「世論調査では、アンノウン政策への支持は極めて高いです」
経産省担当が、前向きなデータを報告する。
「医療関連への期待も、依然として絶大です」
厚労省担当も同意する。
「外交面でも、日米仏の強固な連携と、我が国の主導権確保への評価は高い」
外務省担当も、自信を持って応じる。
日下部は、無言で総理の話を聞いていた。
ここまでは、至極自然な政治の流れだ。圧倒的な成果を上げている現政権が、その追い風に乗って選挙に打って出る。当然の判断だ。
「ならば、正面から信任を受けるべきだ」
総理が、力強く宣言した。
「そして、選挙後のことだが」
総理は、そこで一拍置いた。
そのわずかな「間」に、日下部は微かな違和感を覚えた。
「私は、勇退しようと思っている」
——え?
日下部の思考が、一瞬だけ完全に停止した。
「総理?」
官房長官が、目を丸くして問い返す。
「勇退、ですか?」
防衛省担当も、信じられないというように身を乗り出した。
会議室が、一瞬、本当に静かになった。
アンノウンの超技術の報告を受けた時でさえ、これほどまでの静寂は訪れなかった。
常に冷静沈着な日下部が、珍しく動揺を隠せずに声を上げた。
「総理、少し待ってください。まだ任期があります。それに、総裁任期も……」
「そろそろ総裁の任期だ」
総理が、穏やかに遮る。
「ですが、3期目もあります。今の支持率なら、党内で反対はほぼ出ないはずです」
日下部が、早口で食い下がる。
「総理が続投を望めば、総裁選は形式的なものになるでしょう」
官房長官も、深く頷いて同意する。
だが、総理は静かに笑った。
「だからこそ、だ」
総理は、円卓の全員を、一人一人慈しむように見つめた。
「アンノウン技術を国家として受け止める初動。工藤氏との接触。日下部君を中心とした管理体制の構築。アンノウン機関の設立。アメリカ、フランスとの外交的枠組みの構築。人工臓器と義肢の制度設計。……ここまでは、私の政権で何とか形にした」
「総理の判断がなければ、ここまでうまく回りませんでした」
日下部が、即座に、そして強い口調で否定する。
「いや。工藤氏とアンノウンを、国家機関として機能するまでに育て上げたのは、全て日下部君のおかげだ。私は、たまたまその時の総裁だったに過ぎない」
総理が謙遜すると、日下部はさらに強く言い返した。
「それは違います」
会議室の全員が、日下部の強い口調に驚き、彼に視線を向けた。
「貴方でなければ、ここまで回りませんでした。
工藤氏を過度に囲い込まずに自由を与え、日米関係も壊さずに手綱を握り、フランスを受け入れて欧州の防波堤とし、アンノウン機関という器を作り、医療と安全保障の厳しい線引きをした。
それは全て、総理の高度な政治的判断があったからです」
日下部の言葉には、普段の冷徹な官僚としての姿からは想像もつかないような、熱い感情がこもっていた。
「買いかぶりだよ」
総理が、少し照れたように笑う。
「いえ。少なくとも私はそう思っています」
日下部は、きっぱりと言い切った。
そして、ふと、普段の彼なら絶対に口にしないような、一人の人間としての弱音を、ボソリと漏らした。
「……それに、まだ任期があるし……こう言っては何ですが、最後まで地獄までお付き合いしてほしかったんですが」
会議室が、一瞬、変な空気に包まれた。
あの、冷酷無比で機械のように正確な日下部参事官が、総理に対して個人的な「寂しさ」と「泣き言」を漏らしたのだ。
総理が、声を上げて笑った。
「ははは。流石に勘弁してくれ。これ以上胃を痛めると、本当にがんしぼり君のお世話になりかねんからな。先に勇退させてもらうよ」
総理は、笑いを収めると、優しいが決して揺るがない口調で語りかけた。
「日下部君。これは民主主義だ。
どれほど支持があっても、どれほど政策が順調でも、権力は必ず腐敗する。ある程度の交代は絶対に必要なのだ」
「しかし、今は非常時です」
「非常時だからこそ、一人の総理が抱え続ける形にしてはならない」
総理の言葉に、会議室の全員が静かに耳を傾けた。
「アンノウン技術は、この先十年、二十年、いや百年先まで国家の根幹に関わる。
核融合炉、医療、義肢、宇宙、エネルギー、外交。
これを一人の総理の属人的な判断だけで回しているように見せてはならないのだ」
「制度として回すための勇退、ですか」
日下部が、総理の真意を悟り、低く呟く。
「そうだ。私が退いても、体制が盤石に続く。それを国民にも、海外にも明確に見せる必要がある」
「総理……」
官房長官が、感服したように声を漏らす。
「勝って退く。これ以上ないだろう」
総理の言葉は、政治家としての究極の美学であった。
敗北でもなく、不祥事でもなく、圧倒的な支持を背景にしたまま、次世代へバトンを渡す。
「後継は、どなたを想定しているのですか」
日下部が、現実的な確認に移る。
「総裁選で決めることだ」
「建前ではなく」
日下部が、冷徹に本音を要求する。
総理が少し笑う。
「君も政治家らしくなってきたな」
「なりたくありません」
日下部が即答すると、総理は少し考え込んだ後、一人の名前を挙げた。
「……矢崎薫君が有力だろう」
会議室に、納得と緊張が同時に走った。
矢崎薫。現在の政権中枢を支える女性政治家であり、法務・安全保障・医療制度に極めて明るい。国民的な人気も高く、何より、これからのアンノウン技術を「国民生活へ下ろす」段階において、最も適任と言える人物だ。
「キャサリン・ヘイズ大統領とは検事時代からの知人ですね」
外務省担当が、外交的なメリットを指摘する。
「ああ。日米関係には確実にプラスに働く」
「矢崎氏なら、アンノウン機関の継続にも深い理解があります」
日下部も、実務面での不安がないことを確認する。
「当然、日下部君は留任だ」
総理が、事も無げに宣言した。
「……そこは、交代しないのですか」
日下部が、恨めしそうな声で尋ねる。
「しない」
「民主主義としての交代は」
「君は選挙で選ばれた総理ではない。アンノウン係だ」
「係で済む規模ではないんですが」
日下部が、心底嫌そうに反論する。
「だから君が必要だ」
総理の言葉には、絶対的な信頼が込められていた。
日下部は、深く、長く息を吐いた。
「総理だけ先に降りるのは、ずるくありませんか」
「ずるいとも」
総理が即答すると、会議室に少しだけ笑いが起きた。
「だが、君にはまだ降りてもらえない。
工藤氏、イヴ、アンノウン機関、アメリカ、フランス、人工臓器、核融合炉。
君以上に、この複雑怪奇な糸を全部繋げられる者は、日本にはいない」
「過大評価です」
「違う。事実だ」
総理は、真っ直ぐに日下部を見つめた。
「日下部君。次の総理にも、同じように嫌な顔をしながら付き合ってやってくれ」
「……承知しました」
日下部は、観念したように短く答えた。
「胃薬は増やしておくといい」
「それはもう、増やしています」
日下部の言葉に、総理が声を出して笑った。
会議の終盤。
総理は手元の資料を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。
「私は、初動の総理だった。
未知のものを受け止め、国家が壊れないように防波堤を作る。
その役割は、何とか果たせたと思っている」
日下部は、無言で総理の言葉を聞いていた。
「だが、次は違う。
アンノウン技術を、国民の生活へ下ろす段階だ。
医療、福祉、電力、産業、教育、地方、宇宙。
それは、次の総理の仕事だ」
「総理は、それを見届けたくはないのですか」
日下部が、静かに問う。
「見届けたいさ。だが、見届けることと、椅子に座り続けることは違う」
総理は、少しだけ遠い目をした。
「私は降りる。だが、逃げるわけではない。
必要なら、後ろから全力で支える」
「……分かりました」
「君は残れ」
「はい」
「そして、次の総理にも、ちゃんと胃痛を分けてやれ」
「分けられるなら、今すぐ分けたいです」
総理が、またしても豪快に笑った。
会議終了後。
閣僚たちが次々と退室し、日下部が一人、会議室に残った。
机の上には、二つの資料が置かれている。
一つは、13m級教育用核融合炉の限定実証計画。
もう一つは、次期衆議院総選挙と総裁選の資料。
神の火は、来月にもヤタガラスの奥底で動く。
人工義手・義足は、アメリカで人の感覚を取り戻し始めた。
アンノウン技術は、もう誰にも止められない。
そして、その激動の途中で、総理が退く。
敗北ではない。
逃亡でもない。
勝って、退く。
日下部は、資料をパタンと閉じた。
ポケットから、いつもの胃薬の瓶を取り出す。
一粒、口に放り込み、水も飲まずに飲み下した。
アンノウン技術が国家を変え始めてから4年。
日本の政治もまた、静かに、しかし確実に、次の段階へと進もうとしていた。
最後までお付き合いいただき感謝します。
もし「続きが読みたい」と思われた方は、ページ下部よりブックマークと評価をお願いします。




