第100話 五百万ドルのイレイザーと欧州への劇薬
東京都千代田区永田町、首相官邸。
地下五階に位置する『特別情報分析室』は、今日もまた外界の喧騒から完全に切り離された絶対の静寂に包まれていた。分厚い鉛と最新の電磁波吸収材で覆われた壁の向こうでは、季節風が冷たく吹きすさび、行き交う人々がコートの襟を立てて歩を急いでいる頃だろう。だが、この部屋には風の音ひとつ届かない。
円卓の上座に座る副島内閣総理大臣と、その傍らでタブレット端末を操作する内閣官房参事官の日下部。彼らの視線は、壁面の巨大モニターに映し出されたアメリカ・ワシントンD.C.のセキュア・ルームの映像に注がれていた。
暗号化通信の向こう側にいるのは、アメリカの「影の政府」を実質的に統べる二人の人物——CIA長官のエレノア・バーンズと、巨大軍産複合体タイタン・グループの若き総帥、ノア・マクドウェルである。
日下部は手元のコンソールを操作し、通信ラインのセキュリティレベルが最高状態にあることを確認すると、マイクに向かって静かに口を開いた。
「——さて、本日の緊急協議を始めましょう。まずは、ロシアの市場復帰に関する件から」
『ええ、その件については現在進行中です』
エレノア長官が、手元のファイルに視線を落としながら、氷のように冷たく透き通った声で報告を始めた。
『キャサリン・ヘイズ大統領は現在、ヨーロッパ歴訪の真っ最中ですよ。イギリス、フランス、ドイツの首脳と会談を重ね、例の「ロシアに対する経済制裁の一部緩和と市場復帰プロセス」について、粘り強い説得を行っています』
「ヘイズ大統領の様子はいかがですか? 彼女は正義感が強い。ロシアの制裁緩和という、一見すると妥協にも思える政策を推し進めることに、抵抗はなかったのでしょうか」
副島総理が、探るような視線で尋ねた。
『ご心配には及びません、ソエジマ総理』
ソファに深く腰掛けていたノアが、優雅な笑みを浮かべて引き取った。
『我々は彼女に、ロシアをこれ以上孤立させて暴発させるより、我々の経済システムというルールの枠内に組み込んで監視する方が、真の世界平和に繋がるのだと。……彼女は自身のクリーンで理想主義的な「平和と統合のシンボル」としての使命感に燃え、見事にヨーロッパの強硬派を抑え込みつつあります』
「なるほど。彼女の清廉潔白なイメージを、最大限に利用しているわけですね」
『ええ。彼女が表舞台で美しい理想を語ってくれるおかげで、ヨーロッパの首脳たちも無碍に反発できない空気が醸成されています。……ロシアを我々の経済圏という巨大な生簀に囲い込む計画は、概ね順調に進行中と言ってよいでしょう』
ノアの言葉には、アメリカの民主主義の頂点に立つ大統領すらも、自分たちの描いた盤上の駒に過ぎないという圧倒的な傲慢さが満ちていた。
日下部は、内心で微かに冷や汗を流しながらも、表面上は穏やかに頷いた。
「それは重畳です。ヘイズ大統領の熱意ある外交努力には、我が国としても深く敬意を表します。
……ですが、エレノア長官、ノア氏。本日の緊急通信の真の目的は、そのロシアの件ではありません」
日下部が一歩前に進み出た。
その言葉に、モニターの向こうのノアが、面白そうに青白い瞳を細めた。
『ほう。ロシアの処遇以上に優先すべき議題ですか。
……また、我が国の度肝を抜くような新しいカードでも切るつもりですか? 貴国の極秘地下施設にいるという、あの「正体不明の天才科学者」が、また何かとんでもないモノを発明したとでも?』
ノアの口元に浮かぶのは、神への崇拝と極上のエンターテインメントを心待ちにする観客の笑みだ。
アメリカ側は、日本のオーバーテクノロジーの源泉を「日本政府が極秘裏に囲っている、倫理観の欠如したマッドサイエンティスト(あるいはそのチーム)」と「彼らが開発したナノ工作機械」であると信じ込んでいる。日下部たちは、その「正しい誤解」を全力で維持し続けていた。
絶対に、異世界の存在や、工藤創一という名が漏れてはならないのだ。
「ええ。我々が抱える『例の技術者』が、また一つ、新しい成果物を組み上げましてね」
日下部は、手元のコンソールを操作し、モニターの画面を分割した。アメリカ側に送信されたのは、日本国内で極秘裏に行われた「ある臨床試験」のデータと映像である。
「……先般、我々は日本国内において、新たなナノマシン製剤の検証を完了させました。
正式名称は『腫瘍選択除去ナノマシン治療キット』。
……開発者である例の天才による通称は、『消しゴム君(Eraser-kun)』です」
『イレイザー、クン?』
エレノアが、思わずといった様子で綺麗に整えられた眉をひそめた。
国家の最高機密通信で飛び出した、あまりにも間の抜けたネーミング。通訳ソフトがそのまま「Eraser-kun」と音声出力したことで、アメリカ側の二人は一瞬、どう反応すべきか迷ったようだった。
「……ネーミングセンスについては、彼独特のユーモア……あるいは常人とは掛け離れた感性の表れですので、どうかお気になさらず。彼は機能性さえ追求できれば、名前などどうでもいいというタイプの人間でしてね」
日下部は、自身の胃の痛みを堪えながら、必死に真顔を保ってフォローを入れた。
本当に、どうしてあの男は世界を揺るがす兵器や薬に、こんな脱力するような名前をつけるのか。プレゼンする側の威厳が丸潰れである。だが、アメリカ側に「ちょっと頭のおかしい天才」という印象を植え付けるには、かえって都合が良いとも言えた。
『……ふふっ、ハハハハ! イレイザー・クンですか。相変わらず愉快で、貴国の「アンノウン・ジーニアス」らしい素晴らしいネーミングですね。まあ、名前はどうでもいい。問題はその機能です』
ノアが声を上げて笑い、すぐに冷徹なビジネスマンの顔に戻った。
送られたデータを瞬時に読み解いた彼の目が、驚愕に見開かれる。
『……ガン細胞のみを選択的に識別し、物理的に分解・除去する。
なるほど……。これは、以前我々が受け取ったオリジナル版の「医療用キット」から不老不死や部位再生といった機能を削ぎ落とし、特定用途へ特化させたダウングレード版……いや、実用化に向けた「特化版」というわけですか』
「その通りです」
日下部が頷く。
「この『消しゴム君』は、オリジナルのような細胞の完全初期化(若返り)や、欠損部位の再生といった機能は一切持っていません。
適応範囲も、初期から中期にかけての『場所が比較的はっきりしている固形ガン』——肺がん、胃がん、大腸がんなどに限られます。白血病のような血液ガンや、全身に転移した末期症状、脳深部の複雑な腫瘍には、現在のアルゴリズムでは安全に処理しきれないという制限があります」
日下部は、武藤元副総理をはじめとする5名の政財界VIPが、わずか数十分の投与でガンを完全に消し去ったという実証データを示した。
「ですが、適応条件さえ満たせば、成功率は100パーセント。副作用は一切なく、外科手術も抗がん剤も不要です。……我々は日本国内の重要人物5名に対し極秘の臨床試験を行い、全員のガンを完全に『消しゴムで消すように』除去することに成功しました」
『アンビリーバブル……!』
エレノアが、息を呑んでモニターに食い入った。
彼女の脳内で、この技術がもたらす戦略的価値が凄まじい勢いで計算されていく。
『ガン治療専用のナノマシン……! これは素晴らしい。
不老不死をもたらすオリジナルキットは、効果が劇的すぎて、我々としても本当に限られた一部の超重要人物にしか使えなかった。世界に100本以下という絶対的な制約もありましたしね。
……ですが、ガン治療に特化したものであれば、社会に与える不自然なインパクト(若返り現象)を最小限に抑えつつ、確実に対象者の命を救うことができる。
……手札としては最高です。量産は? 普及はできるのですか!?』
エレノアの顔には、諜報機関の長としての強烈な野心が剥き出しになっていた。
ガン患者はアメリカにも星の数ほどいる。政界、財界、軍のトップ層にも、病に怯える者は無数に存在する。もしこの薬をアメリカ政府がコントロールできれば、彼ら全員の首に「命の鎖」を繋ぐことができるのだ。
「量産についてですが……残念ながら、工場でベルトコンベアに乗せて無限に作れるようなものではありません」
日下部は、逸るエレノアに冷水を浴びせるように、静かに首を横に振った。
「このナノマシンは、患者一人ひとりの事前のスキャンデータに基づいて、開発者である『彼』自身が個別にプログラミングを行い、パラメーターを調整してやる必要があるのです。
つまり、完全な『オーダーメイド品』であり、彼の稼働時間……彼がコンソールの前でコードを打ち込む時間が、物理的なボトルネックとなります。……世界中に広くばら撒くような普及は、不可能です」
もちろん、テラ・ノヴァの工藤創一は超高速思考の持ち主であり、やろうと思えばかなりの数を処理できる。だが、ここで「無限に作れる」と言ってしまえば、アメリカの強欲が際限なく膨れ上がるのは目に見えている。「天才の手間がかかる」という理由で、供給量を意図的に絞るのが日下部の狙いであった。
『……なるほど。属人性が高いわけですね。彼が一人でコードを書いている以上、生産数には自ずと限界があると』
ノアが、納得したように顎を撫でた。
『ですが、逆に言えば、その天才の手が回る範囲であれば、確実に追加製造は可能ということですね?
オリジナルのような奇跡の産物ではなく、彼の手による「工業製品」であると』
「はい。その通りです」
「ならば十分です。誰にでも配れる薬に価値はありません。限られた者だけが手に入れられるからこそ、権力者はそれに縋り付くのですから」
ノアは、冷酷な笑みを浮かべた。
「是非とも、アメリカ国内での検証を進めたいですね。
アメリカでもガンに苦しむ富裕層や政治家は多い。彼らにこの『イレイザー』を提供すれば、タイタン・グループとアメリカ影の政府の基盤は、文字通り磐石なものとなるでしょう」
「ええ。我々としても、同盟国であるアメリカでの運用を歓迎します。
……そこで、価格の設定についてすり合わせを行いたいのです」
日下部は、手元の資料に目を落とし、最も重要な数字を口にした。
「日本政府としては、この治療の対象を『社会的・経済的に極めて影響力の高い層』に限定するため、そして希望者が殺到するのを物理的に防ぐためのフィルターとして、まずは超富裕層向けの自由診療という形式を取ります。
……価格は、1回の治療につき『5億円』で設定しています」
5億円。
一般庶民にとっては一生かかっても稼げない天文学的な数字であり、宝くじにでも当たらなければ絶対に支払えない金額だ。
しかし、モニターの向こうのノアは、その数字を聞いてキョトンとした顔をした。
『……5億円?
現在の為替レートで、およそ500万ドルといったところですか?』
「はい。そのくらいですね」
『……安すぎませんか?』
ノアは、本気で不思議そうに首を傾げた。
『ガンという確実な死の恐怖から、無痛で、しかも数十分で100パーセント解放されるのですよ?
アメリカの富裕層——ウォール街のヘッジファンドCEOや、シリコンバレーのテック長者、あるいはハリウッドのトップスターたちから見れば、500万ドルなどプライベートジェットの維持費や、ちょっとした別荘の購入費にも満たない端金です。
その程度の値段では、フィルターとして機能しませんよ。希望者が殺到して、あっという間に貴国の天才科学者の処理能力がパンクします』
「端金、ですか……」
日下部は、日米の富裕層の「スケール」の違いに、内心で少しだけ眩暈を覚えた。
日本では5億円と言えば、財界のトップクラスでもポンと出せるかどうか躊躇する金額だ。だが、ビリオネア(十億ドル長者)がゴロゴロしているアメリカの資本主義の頂点から見れば、文字通りポケットマネーの範囲なのだ。
『ええ。アメリカ国内で提供するなら、最低でも2000万ドル……いや、5000万ドルからオークション形式にしても良いくらいです。
命の値段としては、それでも安いくらいですよ』
ノアが平然と釣り上げを提案してくる。
だが、日下部は慌てて手を振って制止した。
「い、いえ。アメリカ国内での販売価格については、そちらの事情に合わせてアメリカ政府の皆様にお任せします。
……ですが、我々が『5億円』という価格に設定したのには、単なる金儲け以上の、重要な『政治的意図』があるのです」
『意図、ですか』
「はい。この値段は、『既存のガン治療産業を完全に破壊しないため』の絶妙なラインなのです」
日下部は、真剣な表情で語り始めた。
「考えてもみてください。もしこの薬を、誰でも払えるような数百万、数千万円レベルで提供してしまえば、どうなるか。
世界中の巨大製薬会社が何兆円もかけて開発してきた抗がん剤は全てゴミになり、放射線治療機器のメーカーは倒産し、ガン治療に携わる何百万という医療従事者が職を失います。
……それは、医療インフラの崩壊を意味します。我々は、そのような経済的な大パニックを引き起こすことは避けなければならない」
副島総理が、日下部の言葉に深く頷きながら引き継いだ。
「その通りだ。
5億円(あるいは500万ドル)という価格であれば、恩恵を受けられるのはごく一握りの『特別な人間』に限られる。
一般の患者たちは、これまで通り既存の病院で抗がん剤治療や手術を受け続けるしかない。
……つまり、製薬会社や病院の『既得権益』を脅かすことなく、医療経済という巨大なシステムをそのまま温存させることができるのだ。
我々は、既存のビジネスモデルを壊すことなく、その頂点のさらに上の層にだけ、新たな『神の特権』という市場を構築したいのだよ」
その冷徹極まりない「為政者の論理」を聞いて、エレノアとノアは深く感銘を受けたように息を吐いた。
『……なるほど。見事な計算です、ソエジマ総理、日下部参事官』
エレノアが、微かに称賛の笑みを浮かべた。
『確かに、ガンという病気がこの世から完全に消滅するのは、人道的には素晴らしいことですが……経済的影響を考えれば、それは「悪夢」でしかありません。
巨大な医療ビジネスは、アメリカのGDPを支える重要な柱の一つです。それを一瞬で吹き飛ばすような真似をすれば、我々ディープステートの資金源すら危うくなる。
……「庶民には今まで通り高い薬を買わせて苦しんでもらい、エリートだけがこっそりと魔法で治る」。極めて残酷ですが、体制を維持するためには、最も正しく、そして安全な選択ですね』
「ご同意いただけて何よりです」
日下部もまた、微かな苦笑で応じた。
命の平等を真っ向から否定する、悪魔の算盤。
だが、世界を急激な変化による崩壊から守るためには、この歪な構造を維持するしかなかった。
「……さて、アメリカでの展開については、貴方たちにお任せするとして。
本日はもう一つ、重要な提案があります」
日下部は、モニターに映し出された世界地図を操作し、アメリカと日本から、さらに視点を西へと移動させた。
映し出されたのは、ヨーロッパ大陸である。
「この『消しゴム君』……。
アメリカ国内だけでなく、ヨーロッパ方面の富裕層や権力者へも、アメリカ経由でアプローチしていただくことは可能でしょうか?」
『ヨーロッパへ?』
ノアが、興味深そうに目を輝かせた。
『我々アメリカを通じて、ヨーロッパのVIPにこの薬を提供するということですか?』
「はい。
ただし、『薬の現物』をヨーロッパに輸出するわけではありません。技術流出のリスクが高すぎますからね。
スキームとしては、『アメリカの信頼できる仲介者の紹介を受けたヨーロッパのVIPが、極秘裏に日本へ渡航し、日本の指定された特別医療施設においてのみ治療を受ける』という形を取りたいのです」
日下部は、その計画の裏にある「真の目的」を語り始めた。
「先ほどの報告にもありましたが、ロシアは現在、アメリカと中国から締め出され、最後の活路を求めてヨーロッパへのスパイ網と影響力の拡大に血道を上げています。
彼らはヨーロッパの政財界に食い込み、そこから日本の技術のおこぼれを掠め取ろうと必死です」
「……ええ。彼らの動きは、我々の『グラス・アイ』で手に取るように見えています」
エレノアが頷く。
「だからこそ、先手を打つのです」
副島総理が、力強い声で言った。
「ヨーロッパの王族、旧貴族、巨大多国籍企業のCEO、そして各国の有力な政治家たち。
彼らもまた、病と老いの恐怖には勝てません。彼らに『日本に行けば、ガンを消し去る奇跡の治療が受けられる。ただし、アメリカの特別な推薦状が必要だ』と囁くのです。
そうすれば彼らは、こぞってアメリカと日本に対して絶対的な忠誠と恩義を感じるようになる。
我々は、彼らの命を握ることで、ヨーロッパの支配層の首に直接『見えない首輪』をかけることができるのです」
総理の眼光が、鋭く光った。
「ヨーロッパの支配層が日米に完全に依存するようになれば、ロシアの工作員がどれだけ彼らにすり寄り、甘い言葉で買収しようとしても、全て無駄になります。
ロシアからの経済的利益よりも、日米が提供する『命の保証』の方が、何万倍も価値があるからです。
……これで、ロシアがヨーロッパに張ろうとしている蜘蛛の糸を、完全に焼き払うことができる。彼らは永遠に、凍てつく大地の中で孤立し続けることになる」
『……パーフェクトだ』
ノアが、感嘆の吐息を漏らし、静かに拍手をした。
パチ、パチ、という乾いた音が、通信回線を越えて響く。
『見事な戦略です。
ヨーロッパの富裕層や権力者たちは、歴史と伝統を重んじますが、それゆえに自分たちの血脈と命を何よりも大切にします。
ガンで苦しむ彼らに、この「イレイザー」という名の福音を我々アメリカが仲介してもたらす。
……彼らは涙を流して感謝し、自国の外交政策を、喜んで日米の都合の良いようにねじ曲げてくれるでしょう。
NATOを裏から完全に操るための、最強のジョーカーになりますね』
「ええ。我々日本にとっても、将来に向けての強固な防波堤となります」
日下部が、計画の最終的な狙いを補足した。
「いつの日か、我々の秘匿している『天才科学者の存在』や『技術の全貌』が、どうしても隠しきれずに世界に漏れ出てしまう日が来るかもしれない。
その時、最も『人権』や『独占禁止』を盾にして日本を激しくバッシングしてくるのは、間違いなくヨーロッパの人権団体やリベラルな政治家たちです。
ですが……もしその時、彼らの国のトップ層が、すでに日本の『医療技術の恩恵』にどっぷりと浸かり、命を依存する状態になっていれば……。
彼らは絶対に日本を攻撃できません。自らの命綱を切るような真似はできないからです」
日下部の顔には、将来の「最悪の事態(Xデー)」を見越した、官僚としての冷徹なリスクヘッジの計算が浮かんでいた。
『まさに、命を担保にした究極のロビー活動ですね。……同意します。我々アメリカのネットワークをフル活用し、ヨーロッパのVIPを極秘裏にリストアップしましょう』
エレノアが、冷たい笑みを浮かべて頷いた。
『日本で治療するという形式なら、彼らの国にシステムを持ち込むリスクもありません。
彼らには「静かなる医療ツーリズム」という名目で、こっそりと東京へ飛んでもらいましょう』
「確かにそうですね。ガンで苦しむ富裕層は、ヨーロッパにも星の数ほどいます。
……それで行きましょう」
日下部が深く頷き、タブレットのスケジュールに「対欧州VIP医療プロトコル」の項目を追加した。
こうして、日米の影の支配者たちの間で、新たな悪魔の取引が成立した。
5億円の「消しゴム君」は、単なる医療器具の枠を飛び越え、ヨーロッパの王侯貴族や大資本家たちの命を釣り上げるための、最も効果的で凶悪なルアー(疑似餌)となったのだ。
通信が切断され、モニターが暗転する。
特別情報分析室には、再びジャミング装置の低い駆動音だけが残された。
日下部は静かに息を吐き、無意識のうちに胃のあたりをさすっていた手を下ろした。
カバーストーリーは完璧に維持された。アメリカは日本の背後にある「異世界テラ・ノヴァ」と「工藤創一」の存在など微塵も疑っていない。
「……とりあえず、また一つ布石を打てましたね」
日下部が、空になったお茶を啜りながら呟く。
「ええ。これでヨーロッパも我々の手のひらの上だ。
……だが、どうにも胃が痛いな。我々は、世界中の権力者の命を人質に取って、一体どこへ向かおうとしているのか」
副島総理が、自嘲気味に笑った。
「どこへ向かうにしても、止まることは許されませんよ。
……我々の背後には、決して立ち止まることを知らない『あの男』がいるのですから」
日下部は、天井を見上げた。
その視線の先、次元の壁の向こう側では、工藤創一が何も知らずに、ガンを治すナノマシンを「ちょっとしたプログラミングの成功例」として無邪気に調整し続けていることだろう。
天才の気まぐれが、世界の構造を根底から書き換えていく。
その重圧に耐えながら、日本の官僚たちは今日もまた、新しい胃薬のパッケージを開封するのだった。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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