第101話 摩天楼の取引と五千万ドルの消しゴム
アメリカ合衆国、ニューヨーク。
マンハッタンの摩天楼を眼下に見下ろす、セントラルパークに面した超高級レジデンスの最上階。
そこは、アメリカの巨大メディア・コングロマリットを一代で築き上げた総帥、ウィリアム・ヴァンダービルトの個人的な城であった。大理石が敷き詰められた広大なフロア、壁を彩るルネサンス期の絵画、そして天井から降り注ぐ特注のシャンデリアが放つ煌びやかな光。彼が手に入れた巨万の富と、世界を動かす権力の象徴が、このペントハウスには溢れ返っている。
だが、その豪奢な部屋の奥、防弾ガラス越しに灰色の空を眺めるウィリアムの背中は、ひどく丸まり、小さく、そして脆く見えた。
彼は重篤な肺ガンを患っていた。
アメリカ全土から最高の医療チームを呼び寄せ、最先端の分子標的薬や免疫療法、遺伝子治療から未承認の実験的治療に至るまで、考え得るすべての治療を試みた。保険の適用など気にする必要はない。数千万ドルという莫大な資金を惜しげもなく投じてきた。
しかし、現代医療の限界は、非情にも彼に「余命数ヶ月」という宣告を突きつけた。
呼吸をするたびに、肺の奥で錆びたナイフをかき回されるような鈍い痛みが走り、四六時中、酸素吸入器が手放せない。彼が築き上げたメディア帝国も、スイスの銀行口座に眠る天文学的な数字も、彼の肺に巣食う悪性の腫瘍を一つとして消し去ることはできなかった。
「死」という絶対的な平等の前では、ビリオネアであろうと路地裏のホームレスであろうと、等しく無力なのだという残酷な真実が、彼を内側から食い荒らしていた。
「……ゼェ、ゼェ……」
ウィリアムは、特注の車椅子に深く沈み込みながら、弱々しい息を吐いた。
その時、マホガニーの重厚な扉が静かに開き、彼の長年の秘書が緊張した面持ちで入室してきた。
「会長。……タイタン・グループから、特使がお見えです」
「……タイタン・グループ?」
ウィリアムは、掠れた声で眉をひそめた。
タイタン・グループ。アメリカ最大の軍産複合体であり、ワシントンの政財界を裏から操る「影の政府」の中核とされる巨大企業だ。彼らとはメディア戦略において持ちつ持たれつの関係にあったが、自分が死にかけの今、一体何の用だというのか。
「通せ……。どうせ、私が死んだ後の、メディアの株の譲渡や編集方針のすり合わせの話だろう。血の匂いを嗅ぎつけたハイエナどもめ……」
ウィリアムが毒づくと、秘書は恭しく道を開け、一人の男を招き入れた。
仕立ての完璧なダークスーツに身を包んだ、三十代半ばほどの男だった。彼の振る舞いは極めて洗練されており、その瞳には冷徹なビジネスマンとしての光と、任務を必ず遂行するというエージェント特有の鋭さが宿っている。
彼はタイタン・グループの次期総帥、ノア・マクドウェルの直属の使者であった。
「お初にお目にかかります、ヴァンダービルト会長。本日はお加減の優れない中、貴重なお時間をいただき感謝いたします」
使者は、深々と一礼した。
「……前置きはいい。私の残された時間は少ないのだ。タイタン・グループが、この死に損ないの老人に何の用だ? 遺言書の書き換えでも提案しに来たのか?」
ウィリアムの刺々しい言葉に対しても、使者は表情一つ変えず、ただ穏やかな微笑みを浮かべたまま、手元のスマートなアタッシュケースをテーブルの上に置いた。
「本日は、会長のメディア帝国の事業承継のお話ではありません。……会長ご自身の『命』に関する、極秘のご提案を持参いたしました」
「命、だと?」
「はい」
使者は、声を一段階潜め、ウィリアムの濁った目を真っ直ぐに見据えた。
「実は、貴方だけに特別にご紹介したい『ガン治療』があるんですよ」
「……馬鹿なことを言うな」
ウィリアムは鼻で笑い、酸素マスク越しに荒い息を吐いた。
「私はアメリカで受けられる最高の治療はすべて受けた。MDアンダーソンがんセンターのトップチームですら、これ以上の治療は不可能だと匙を投げたんだぞ。今更、新手の抗がん剤の治験など受ける気はない。残りの時間を、苦痛にのたうち回って過ごすのは御免だ」
だが、使者はその言葉を全く意に介さず、淡々と続けた。
「既存の医療の枠組みでお考えにならないでください。我々がご提案するのは、アメリカのいかなる医療機関にも存在しない、全く新しい次元のアプローチです。
……事前の適性検査をパスしていただき、アメリカから日本へと極秘に渡航して貰えば、数十分で、今貴方を苦しめているそのガンが、完全に無くなりますよ……?」
その言葉が、静寂なペントハウスの空気を凍りつかせた。
「……数十分で、ガンが無くなる?」
ウィリアムは、自分が幻聴を聞いたのかと思い、瞬きを繰り返した。
数ヶ月、数年単位の凄惨な闘病生活を強いるのがガン治療の常識だ。それをたった数十分で消し去るなど、オカルトかSF映画の世界の話でしかない。
だが、ウィリアムの脳裏に、最近ネットや政財界の裏ルートでまことしやかに囁かれている「ある都市伝説」がフラッシュバックした。
一部の特権階級だけが秘密裏に使用しているという、どんな病も治す魔法の医療ポッド。タイタン・グループの先代であるアーサー・マクドウェルの孫も、不治の病から劇的な回復を遂げたという噂があり、それが先日の大統領選挙を揺るがす大スキャンダルにまで発展した。
「……メドベッドというやつか?」
ウィリアムは、震える手で車椅子の肘掛けを握りしめながら尋ねた。
使者は、ふふっと楽しげな笑い声を立てた。
「ハハハ……。皆さん、メドベッドを信じているようですね」
使者は、呆れたような、しかしどこか優越感に浸ったような表情で首を横に振った。
「残念ながら、巷の陰謀論で騒がれているような、人がスッポリと入って光を浴びて若返るカプセル型の魔法のベッドではありません。
今回ご提供するのは、ガン細胞のみを選択して物理的に破壊・治療する『注射器』ですよ。メドベッドではありません。
……しかし、確実に治る……!」
使者の言葉には、一切の迷いも嘘も感じられなかった。
彼は、日本政府からタイタン・グループへと極秘裏に提示された『腫瘍選択除去ナノマシン治療キット』——通称『消しゴム君』の存在を、確固たる事実として語っていたのだ。
「ちゅ、注射器……? それで、この肺にこびりついた腫瘍が消えると言うのか……?」
「はい。特殊なナノマシンが、貴方の正常な細胞を一切傷つけることなく、ガン細胞だけを精密に分解し、老廃物として体外へ排出します。副作用は皆無。手術のメスを入れる必要もありません」
使者は、タブレットを取り出し、日本で行われた5名のVIPの臨床データを、ウィリアムの目の前に提示した。
そこには、絶望的な進行ガンを患っていた日本の患者たちが、たった1回の投与でガン細胞を完全に消滅させ、健康体を取り戻したスキャン画像とバイタルデータが克明に記録されていた。
ウィリアムは、震える手でタブレットを受け取り、食い入るようにそのデータを見つめた。
それは、彼が何千万ドルを積んでも決して手に入らなかった、「命の確約」であった。
「……信じられん。だが、タイタン・グループが、わざわざ私を騙すメリットもない……。本物、なのだな」
ウィリアムの目から、ポロリと一筋の涙がこぼれ落ちた。
死の恐怖から解放されるという希望が、彼の枯れ果てた心に猛烈な勢いで染み込んでいく。
「無論、これは世界でもごく限られた、我々タイタン・グループが『アメリカの未来に必要不可欠である』と認めた超富裕層および権力者の方々にのみ、特別にご案内しているクローズドなプログラムです」
使者は、ビジネスマンの顔に戻り、冷徹に告げた。
「費用につきましては、1回の治療につき『5000万ドル』から受け付けております」
5000万ドル。
日本政府が「5億円」と設定した価格を、タイタン・グループは自らのマージン(仲介料)と、アメリカの超富裕層の金銭感覚に合わせて、さらに十倍以上の「5000万ドル」にまで釣り上げていた。
一般人からすれば、宝くじに当たっても一生かかって使い切れないほどの天文学的な金額である。
だが。
「……5000万ドル?」
ウィリアムは、呆気にとられたような顔をして使者を見た。
そして、次の瞬間、彼は腹の底から、酸素マスクを揺らすほどの大声で笑い出した。
「ハハハハハ! 5000万ドルだと!?
そんな端金で良いのか!? 私のこの命が、たったの5000万ドルで買い戻せるというのか!!」
使者は、微かに苦笑した。
ノア・マクドウェルが事前に言っていた通りだった。ウォール街の巨頭やメディア王といった、資産が数百億ドルを超える真のビリオネアたちにとって、5000万ドルなど、最新型のプライベートジェットを一機買うのにも満たない「ポケットマネー」に過ぎないのだ。
彼らは、愛車のコレクションを一つ手放す程度の感覚で、自らの命を永遠の死の淵から救い出せるのである。
「ぜひお願いしたい! 今すぐに小切手を切ろう! いや、私の資産管理団体に連絡して、即座に指定の口座に送金させる!
頼む、一刻も早く私を日本へ連れて行ってくれ!!」
ウィリアムは、車椅子から身を乗り出し、使者の腕を必死に掴んだ。
その手は枯れ枝のようだったが、生きることへの凄まじい執着が込められていた。
「では、手配しておきますよ。ただちに渡航と適性検査の準備を進めましょう」
使者は、深々と頭を下げた。
◇
こうして、タイタン・グループの使者は、ニューヨーク、シリコンバレー、テキサス、ロサンゼルスなど、アメリカ全土の最高級の邸宅やペントハウスを極秘裏に飛び回った。
シリコンバレーを牛耳る巨大ITプラットフォーマーの創業者。
テキサスの広大な油田を支配するエネルギー財閥の重鎮。
西海岸で莫大な資産を築いた不動産王。
そして、ウォール街で最も影響力を持つヘッジファンドの帝王。
いずれも、アメリカの経済と政治の根幹を裏から支え、しかしガンという不治の病によって余命宣告を受け、死の恐怖に怯えていた超富裕層たちである。
使者が「数十分でガンが消える日本の治療」を提案するたび、彼らは一様に「メドベッドか!?」と驚喜し、それが注射器であると説明されても、その確実な臨床データを見るや否や、ウィリアムと全く同じように「そんな端金で命が買えるなら安いものだ!」と即決で商談を成立させた。
わずか数日の間に、使者は見事に5件の商談をまとめた。
総額2億5000万ドル。
だが、その金額以上に価値があったのは、これらアメリカの根幹を成す超富裕層たちの「命の恩人」としての絶対的な影響力を、日本政府とアメリカの影の政府が完全に掌握したという事実であった。
彼らは今後、日本とタイタン・グループの意向に決して逆らうことはできない。自らの命を繋ぐための「メンテナンス」を握られているからだ。
◇
数日後。
日本、東京。
在日米軍横田基地のVIP専用滑走路に、アメリカから飛来した数機のガルフストリーム(プライベートジェット)が相次いで着陸した。
民間空港である羽田や成田を避け、米軍基地を経由することで、日本の入国管理局やメディアの目を完全に欺くためだ。
厳重なスモークガラスで覆われた送迎車に乗り込んだ5人のアメリカ人超富裕層たちは、深夜の国道を走り抜け、防衛省の管轄下にある自衛隊中央病院の地下深く、外部から完全に隔離された『特別医療ブロック』へと極秘裏に案内された。
彼らはそれぞれ別々の豪華な待合室に通され、そこで最新鋭の医療機器を用いた極めて詳細な事前適性検査を受けた。
MRI、PETスキャン、そして細胞レベルでの詳細な遺伝子解析。
それらの膨大なデータは、量子暗号通信を通じて、次元の彼方にあるテラ・ノヴァの前線基地へと転送される。
そこでは、工藤創一が電子コミックを読む手を止め、「おっ、アメリカからの患者データが来たな。どれどれ……」と、5人分のガンの位置、大きさ、性質を瞬時に解析し、それぞれの患者の腫瘍のみをピンポイントで破壊するための専用アルゴリズムを、『消しゴム君』のナノマシンにプログラミングしていく。
超天才の彼にとっては、片手間で終わる数十分の簡単なコーディング作業に過ぎない。
プログラミングが完了したナノマシンのデータは再び地球へと送られ、地下医療ブロックの奥に設置された特殊な充填機によって、5本の灰色のインジェクターへと注入された。
「……お待たせいたしました。準備が整いました」
白衣を着た日本の医師が、ウィリアム・ヴァンダービルトの待つ特別個室へと入ってきた。
その手には、鈍い銀色のケースが握られている。
「これが……その注射器かね」
ウィリアムは、ベッドの上に身を起こし、ゴクリと息を飲んだ。
恐怖はない。あるのは、無限の期待だけだ。
「はい。これより、腫瘍選択除去ナノマシン製剤の投与を行います」
医師は、ケースから灰色のインジェクターを取り出した。
無機質で、何の装飾もない注射器。これが、アメリカの最高峰の医療をもってしても治せなかった自分のガンを消し去るというのか。
「投与します」
プシュッ。
医師がウィリアムの静脈にインジェクターを押し当て、トリガーを引く。
微細な圧縮音と共に、冷たい灰色の液体が、ウィリアムの血管へと流れ込んでいく。
「……うむ」
ウィリアムは身構えたが、何も起きなかった。
激痛も、吐き気も、熱感もない。
ただ、体内の奥深く、肺のあたりで、何かが微かにチリチリと活動しているような、奇妙で静かな感覚があるだけだった。
それは、数兆個のナノマシンが血流に乗って患部へと到達し、ガン細胞の分子結合を次々と精密なレーザーメスのように切り離し、分解していくプロセスであった。正常な細胞には一切手を出さず、エラーを起こした細胞だけを物理的に「消去」していく。
病室には、心電図モニターの規則正しい電子音だけが響いていた。
数十分の静かな時間が流れた。
ウィリアムにとっては、永遠にも等しい、祈りの時間だった。
やがて、別室でリアルタイムのモニタリングを行っていた分析医が、執刀医のインカムに報告を入れた。
執刀医は小さく頷き、ウィリアムの顔を見下ろした。
「これで終わりか」
ウィリアムが、不安と期待の入り混じった声で尋ねる。
「はい」
医師は、病室のモニターに、投与前と投与後の最新のスキャン画像を並べて表示した。
「左が数十分前の画像です。肺に大きな腫瘍の影が確認できます。
そして右が、たった今の画像です。……影は完全に消滅しています。分解された腫瘍組織は、現在無害な老廃物として尿などから体外へ排出されるプロセスに入っています」
医師は、術後の診断結果を、誇らしげに、そして明確に下した。
「完全に治癒されていますよ」
「……おお……」
ウィリアムの目から、滝のような涙が溢れ出した。
彼は震える両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣いた。
死の淵からの生還。
巨万の富でも買えなかった命を、極東の島国が提供した一本の注射器が、あっさりと買い戻してくれたのだ。
「おお神よ……!
テクノロジー進歩だな……!」
ウィリアムは、天を仰いで歓喜の声を上げた。
彼は、この奇跡をもたらしてくれた日本という国、そしてそれを仲介したタイタン・グループに対して、もはや神に対するような絶対的な畏敬の念を抱いていた。
彼の財力も、彼が保有するメディアの力も、今日からはすべて彼らのために使われることになるだろう。
同じ頃、他の4つの特別個室でも、全く同じ光景が繰り広げられていた。
シリコンバレーの天才も、テキサスの石油王も、全員が「完全に治癒」し、涙を流して日本の技術にひれ伏していた。
彼らは数日間の経過観察を終えた後、来た時と同じように横田基地から極秘裏にプライベートジェットでアメリカへと帰国していった。
だが、彼らがアメリカに持ち帰ったのは、健康な肉体だけではない。
「日本は、人類の生殺与奪を握る絶対的なテクノロジーを完成させている」という、揺るぎない事実と畏怖、そして忠誠心であった。
◇
東京の地下で、5人の超富裕層の帰国を見送った日下部参事官は、手元のタブレットで彼らから振り込まれた「2億5000万ドル」の特別会計への入金通知を確認し、静かに息を吐いた。
「……とりあえず、アメリカの富裕層へのデモンストレーションと、彼らの首輪付けは完璧に成功しましたね」
日下部は、隣に立つ鬼塚ゲンに呟いた。
「ええ。彼らはもう、我々の技術なしでは生きていけません。
次は、ヨーロッパですね。アメリカのディープステートを経由して、ヨーロッパの王侯貴族や大資本家たちにも、この『5億円の消しゴム』を売りさばく。……そして彼らの命を握ることで、ヨーロッパの政治を我々の都合の良いようにコントロールする」
「はい。ロシアがヨーロッパにスパイ網を広げて我々の秘密を探ろうとしているようですが……。そのヨーロッパのトップ層自体が、我々の『薬』の中毒患者になってしまえば、ロシアの入り込む隙など完全に無くなります。全ては日本の手のひらの上です」
日下部は、冷徹な官僚の顔を引き締めた。
一人の天才が漫画の暇つぶしで作った「ガン治療のバンドエイド」は、今や世界を裏から支配するための、最も強力で、最も洗練された「外交兵器」として、その真価を発揮し始めていた。
世界の権力者たちは、誰もがその灰色の注射器の前に跪く。
命という絶対的な価値を前にしては、国家のプライドも、莫大な富も、すべてが無力なのだから。
日本の地下から発信される「沈黙の支配」は、静かに、しかし確実に、地球全体をその網の目に絡め取ろうとしていた。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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