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良い親ではなくて、まともな親。
その言葉に、ずっと語っていなかった菜穂子の本心の全てが込められているような気がした。
子どもにとっての良い親であることは、きっと言葉にするほど簡単な話ではない。
絶対的な子どもの味方。隣人に友人に蔑まれようとも、子どものために自分を犠牲にできる親。
以前に綾香が言っていた「杏のためならどんなに傷ついても良い、辛いことは何でも乗り越えられるって思えるほど、私は強い母親にはなれない」という言葉の意味を、今こうして菜穂子の言葉を通じてまざまざと感じる。
一人一人当たり前のように個性が違う「子ども自身」を見ているのではなくて、誰とも知らない「外からの視線」にとって「まともに見える親」でありたかった。
外から評価される親であれば、自分自身は責められずに済むのだと思っていたかった。
「良い親」は子どもを見ていて、「まともな親」は世間を見ている。
わかりやすく言ってしまえば、そういうことなのだろう。けれど実際は、そんなに単純な話ではない。
ーーー類が綾香の方へと両手を伸ばす。「ママ、抱っこ」と言う息子を彼女は鼻を啜って抱きしめる。
「何で泣いてんだ」
審馬の言葉に、綾香は頬を流れる涙を類の肩で拭きながらもう一度鼻を啜った。
「…わかるから。許せないけど、許しちゃいけないけど…わかるから」
堪え切れずに涙が溢れ出す綾香の頭を、審馬はそっと自分の胸に引き寄せる。拒否する気力も残っていなかったのか、彼女はそのまま審馬に寄りかかって静かに涙を流す。
世界が一度、ひどく静まり返ったように思えた。
審馬は顔を上げた。じっと菜穂子の瞳を睨みつけて、言葉もなく暫く2人で見つめ合う。
駄目だとわかっていながら共感してしまうとしても、同じ苦しみに晒された母親同士だとしても、菜穂子と綾香では天と地ほどの差がある。
殺した者と殺さなかった者。殺せなかった者。
その違いは何だったのだろうか。環境か、人間性か、状況か。あるいは、たまたま越えられなかった一線の問題だったのかもしれない。
少なくとも綾香にとっては、「失う怖さを知った」事が全てだった。本当に自分の元からいなくなってしまかもしれない恐怖を、その身で味わったからだった。
そしてその恐怖が、溢れかえる愛へと変わっていったから。
菜穂子にとっては何だったのだろう。何故彼女は、「殺さない者」になれなかったのだろうかーーー。
どこで境界が途切れ、どこで支えが折れていく。
まともな親でありたいという呪いが、本来であれば越えることのない境界を静かに侵食していく。
そんな地獄のような場所で、菜穂子は1人彷徨っていたのだろうか。
「…そろそろ行くぞ。このままじゃ遅刻だ」
綾香の頭を支えていた手を下ろして、審馬は言った。こちらを見上げる類の頭もポンっと撫でて、菜穂子の方へと歩み寄る。
菜穂子は肯定も拒否もしなかった。ただ審馬に促されるまま、パトカーに乗り込む。
ーーー後部座席に2人並んで座ると同時に、車が静かに発車する。
過ぎゆく景色は当然昨日と今日で変わることはない。それでも違って見えるのは、審馬自身の心境に大きな変化があったからだろうか。
清々しい前向きな気持ちではない。けれど幾分か前を向いている。
窓の外を茫然と見て、そして隣に座る菜穂子の横顔を見る。
そこにあるのは、美しき殺人鬼の終末。
犯罪者として終わっていくのではなくて、真っ当な人として生きていく彼女の存在しない未来を想像したくなるのは、恋心にも似た感覚なのだろうか。
できることなら、刑事と犯罪者としてではなく、洒落たバーで出会いたかった。けれどそんな世界線で、審馬は綾香の苦しみを理解することができなかったかもしれないと思うと、この恋心は儚く散っていくしかない。
審馬の視線に気付いたのか、菜穂子がゆっくりとこちらを向く。相変わらず何を考えているかわからない視線が、じっと審馬を見つめている。
彼女のその様子は、全てが終わって肩の荷が降りたようには到底見えなかった。
菜穂子は何も言わない。何を考えているのかもわからない。けれどその瞳の奥がまだ僅かに何かを秘めているような気がして、審馬は目を離せなくなる。
そしてだからこそ、昨日から、そのもっと前から抱いてい他はずの違和感が自分の中で沸々と湧き上がってきて、心臓の鼓動が速くなっていく。
菜穂子が審馬から目を逸らす。背筋を真っ直ぐ伸ばしたまま前を見つめて、彼女はふと思い出したように口を開く。
「…今日は、何日ですか」
審馬を試していると言うよりは、本当に時間の感覚がわからなくなっているような様子だった。
逮捕という状況に、いや、もしかしたら晴翔を殺した時からずっと、菜穂子の中にあったはずの当たり前の感覚が欠落してしまっていた。
「28日だ」
「そう…ですか」
人殺しが正常な精神状態でい続けられる方がおかしいのだろう。
だから、今までと同じようにそこに宿る僅かな違和感に気づけないまま、審馬はまた手放してしまいそうになる。
ーーーけれど、今日ばかりはその糸を手繰り寄せてぐっと自分の方へと引き寄せる。
今手放してはいけないのだと、審馬の中で何かが警告を鳴らしていた。
「どうしてそんなことが気になるんだ」
今日が何日かなど、ありふれた雑談だ。おかしいところなどない。
けれど思い返せば、菜穂子は取り調べの間、警察署へ来てから何日経っているのかをずっと気にしている様子だった。
それは、雑談のような自然さの中に紛れた、小さな違和感だ。
「ただ、何となく」
相変わらず何を考えているのかもわからない顔で前を見つめたまま答える菜穂子に、審馬はぐっと詰め寄る。
「一体、何を隠している。話していないことがあるなら全部吐け」
「隠していることなど、何も」
「嘘だな」
「嘘ではありません」
「じゃあ俺の目を見て言えるか」
動悸が大きくなっていく。重大なことを見逃しているかのような焦りが、審馬を内側から追い立てる。
「嘘じゃねぇって、俺の目を見て言えるのか」
菜穂子が静かに審馬の方を向く。
そこにいる彼女は、怯えているわけでも苦しんでいるわけでも、助けを求めているわけでもなかった。
自分は正当な判決を下しただけだと、そう本心を嘘で塗り固めて、自分自身ですら騙して、堂々と取調室の椅子に座っていた裁矢菜穂子の姿が、そこにはあった。
だから直感的に気付く。
裁矢菜穂子の裁判は、まだ終わっていないのだと。
「嘘では、ありません」
揺るぎない菜穂子の瞳を見ながら、こちらの視線が大きく揺れる。
頭の中で必死にこれまでの取り調べを振り返る。そこに分散していた違和感の種を一つ一つ手繰り寄せる。
次回投稿は12/17(水)
を予定しております。




