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だから「裁矢菜穂子」という殺人鬼に置いて、薬物による殺害は衝動性があったとしても説明ができる。
「…そう、ですか」
白岡蓮司という言葉にも、明津優芽という言葉にも、菜穂子の態度の変化は見られない。
捜査が進めば必ず辿り着かれてしまう相手だと、菜穂子自身も考えていたのだろうか。
だが彼女にとって、この両者はどちらも晴翔殺害における大きな分岐点になったはず。
少なくとも明津優芽に会った菜穂子は、目の前に突き付けられた真実に言葉を失っていたのだから。
「裁矢晴翔が死んだ前日、白岡蓮司の母親と一戦交えたそうだな」
「まるで殴り合いの喧嘩でもしたかのような物言いですね」
「同じようなもんだろ。あんたの頬を引っ叩いたって言ってたぞ」
「向こうが一方的にしてきたことです。私は手どころか口も出していません」
机に視線を落として菜穂子は言う。
過去を思い出しているのか、それとも頭の中で必死に粗が出ないように考えているのか。
どちらにせよ、菜穂子がそこまで真の動機を語らず取り繕うとするのは、そこには彼女自身ですら認めたくない真相があるからだ。
母親としてではなく、1人の人としての、目を背けたい程の利己的動機が。
「そうだろうな。あんたが一方的に白岡蓮司の母親にボコボコにされた。その頬を引っ叩かれ、息子が死んだのはお前のせいだと罵られた」
菜穂子が鋭い視線で審馬に向ける。今までとは違ったその怒気に、審馬は舌舐めずりしそうになるのをぐっと堪える。
彼女にとって触れられたくないのは、やはりその事実か。
「法律家になるためにずっとひたむきに努力していたあんたが、声を大にして正義を語りたかったはずのあんたが、お前のせいで死んだんだと言われたら、どんな気分だろうな」
菜穂子の正義は未完成だ。ロースクールに通うも頓挫し、家庭に沈んで飛ばない鳥のままでいる。
菜穂子がまともに法律家として生きていれば、こんな中途半端な正義を語ることはなかったのだろうか。
未完成だったからこそ、壊れた。人と正義の間で、崩れるしかなかった。
「妻としても、嫁としても、母親としても、綻びなくまともであろうとしたあんたが、加害者だと罵られて思うことは、一体何だろうな」
まぁ、「綻びなくまともであろうとした」は、審馬の想像でしかないが。
綾香という人間を通して菜穂子を見ているだけに過ぎない。
それでも、全くの見当違いでもないはず。少なくとも家庭という世界から一歩外に出た菜穂子は、そんな「まともな人間」としてあろうとしていたのだから。
「…晴翔に、自分の息子に、憤りを感じたか?」
まともであろうとしたのに、まともでなくなっていく。加害者の親とて加害者なのだと、そんな罵倒が襲ってくる。
審馬の言葉に揺れる菜穂子の瞳をじっと見つめる。
彼女の瞳のその奥をまっすぐ見つめるほど、綾香がそこで訴えかけてきているような錯覚に陥っていく。
ーーー凄く自分が親として責められているような気持ちになるんだよね。普段どんな風に躾けてたら、床に寝転んでぎゃんぎゃん騒ぐような子になるの?って。お前の責任だろ?って。
けれど、その姿と重なった先に見えているのは、もう綾香ではなかった。
今、審馬の目の前で揺れているのは、確かに裁矢菜穂子という一人の女だ。
理性の鎧が溶けていく。冷静などではいられない。その瞬間に見える世界は、「正しさ」も「愛」も一度全て溶けて、ただの人間の限界しか残らない。
憎悪ではない。攻撃衝動でもない。そこにあるのは、抹消したいほどの不可避性の現実。
憎しみでなく、虚無で自己否定で恐怖で、普通でいられない絶望。
菜穂子はそんなものに追い詰められていく。
「殺してしまいたいと、思うほど」
ほんの一瞬、息が途切れた。
空気が動く。気付けば菜穂子が、審馬の胸倉を掴んでいた。
慌てて止めに入ろうとした記録係の警察官を制して、審馬はそのまま菜穂子を見上げる。
菜穂子の瞳に宿るのは、憤りと恥と、後悔だろうか。
そこにあるのは加津子の時と同じ、仮面の下にあった菜穂子の本来の感情だ。
暫くお互いにそのまま何も言わずにいた。先に動いたのは菜穂子の方だ。ゆっくりと胸倉を掴んでいた手を放して、彼女は静かに椅子に腰掛ける。
「…これは、正当な裁きです」
机を睨みつけたまま、菜穂子は呟くようにそう言った。
感情的になった自分を抑え込み、コントロールしようとしている。
その隙を与えてはいけないと、審馬は畳み掛けるようにして口を開く。
「違う。裁きじゃない。息子が加害者になったことで、自分の尊厳を傷付けられた。だから殺した」
「被告人裁矢晴翔は裁かれるべき大罪を犯した。けれど司法は彼を裁かなかった。だから私が代わりに判決を下した」
「大層ご立派な動機だな。頭のおかしい殺人鬼に成り下がっても、母親としての自分の立場は守りたいか」
「母であることは関係ありません。判決結果に私的な感情など不要です」
机を叩いて審馬は立ち上がる。菜穂子の方へぐっと顔を近づけて、その無駄に整った顔を間近で睨みつける。
「自分の弱さから目を背けるな。人が人である限り抱かずにはいられない負の感情を正当化しようとするな。母親が子どもを殺した。あぁ、確かに、なんて酷い親なんだ、こういう大人の犠牲になるのはいつだって子どもだ、周りは好き勝手言うだろう。その一線を超えたのは紛れもなくあんただ。でもそれが、あんたの人としての限界だったんじゃないのか。自分を守るための防衛行動の結果が、衝動的に息子を殺すことだったんじゃないのか」
「判決というのは、議論に議論を重ね、最終的に最も合理的な判断のもとに下されるものです。衝動的なものであってはいけない」
「考えに考え抜いた結果が死刑判決なら、救いようもない無能な裁判官だ」
「彼らの罪状は既に申し上げたでしょう。法が届かない家庭という名の密室において、誰かが法を再定義し統治するしかなかった」
「自分がしたことが間違っていたと認めることが、そんなに怖いか。自分は衝動的に誰かを殺すような人間だったと認めることが、そんなに嫌か。これは正義なんだと、間違っているのはお前らの方なんだと、そんな虚構に縋るしかなかった弱い自分を否定して、見ないようにして、自分を嘘で塗り固めて死んでいくことが、そんなに大事か」
「私は正義を論じているのではありません…あるべき秩序を語っているだけです」
「だったらどうして役所になんて行ったんだ。自分のしたことが本気で正しいと思うなら、それがあるべき秩序だと言うなら、家族を殺した後に自分で自分に判決を下せば良かったんだ。わざわざ自分の罪を晒しに行ったのは、あんたがあんたの罪を誰かに裁いて欲しかったからだ。そこにあったのは、あんたの中に残った僅かな罪の意識だ。自分では認めたくない、認められない。でも誰かに止めてもらわなければ。そんな自己防衛と自罰が重なった結果が、役所に行くことだったんじゃないのか」
…止める?
何をだ?
菜穂子の殺人はもう終わったーーーはずだ。
だとしたら、彼女は一体何を止めて欲しかったのか。
違和感の点と点が線でつながろうとしているのに、上手くいかずに手からすり抜けていく。
「仮にそうだったとして、貴方には何の関係もないでしょう」
審馬の言葉を受け入れ反論するのではなく、ただ一方的に突き放す。
菜穂子の鉄壁が崩れ始めているのを感じる。
正義の判決という名の砂上の楼閣が、はらはらと散ってその姿を失っていく。
「…じゃあ良いんだな」1つ息を飲んで、審馬は言葉を続ける。「あんたは頭のおかしい殺人鬼のままで、精神鑑定に出されて、その生きた言葉の一つ一つ、全部信用できないものだと思われて、まともであろうとした過去なんて全部なかったことになって、あんたの言葉が、全部誰かに勝手に理解されて作られた言葉になっていく。それで良いんだな」
ずっと、菜穂子の揺れる瞳から目が逸らせないでいる。それはきっと彼女も同じで、その大きな瞳は熱を帯びた審馬の瞳をじっと見つめ返している。
知れば知るほど、理解しようとすればするほど、菜穂子に対する苦しいほどの想いが込み上げてきた。
恋人同士でもないのに、甘い情すら交わすことのできる距離で、審馬は溢れ出る感情を菜穂子にそのままぶつける。
「あんたが人として、辛くて、苦しんで、壊れてしまうほどの叫びが全部っ!…全部、なかったことにされて、それで…良いんだな」
吐き出すような吐息が漏れた。それが果たして自分のものだったのか、それとも菜穂子のものだったのかはわからない。
「俺はあんたを、そんな殺人鬼にしたくない」
次回投稿は12/3(水)
を予定しております。




