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大きな溜息が漏れた。それは、菜穂子のものであり、審馬のものでもあった。
ぐっと固く目を閉じた菜穂子が、椅子の背もたれに体を預ける。
審馬の体にも疲労が一気に落ちてくるようだった。疲れたという一言では語れない想いが、溜息と共に体外へと吐き出されていく。
そのままお互いに何も言わない時間が流れる。もうこれで終わってしまうことへの名残惜しさだったり、離れ難さのようなものがあったと思う。
たった3日間だったけれども、途方もないほどの長い時を過ごしたかのようだった。
手にしていたファイルを閉じる。その音が審馬と菜穂子の間で反響する。
「…これで、取り調べを終了する」
そう言って審馬が立ち上がると、場の緊張の糸が解れたような感覚がした。
張りつめていた空気が解けた途端、妙に場の温度が低く感じてくる。
その落差に、審馬はふっと気が抜ける。
取調室を出る。すぐに監視室から四方と東が出てきて、彼らも疲れ果てたように息を漏らす。
「…お疲れ様でした」
言ったのは東だった。審馬からファイルを受け取ると、彼女は軽く頭を下げる。
「疲れた。本当に疲れた。すぐにでも癒されたい。早退してキャバクラ行ってくる」
「審馬さん。私は、審馬さんという人をずっと誤解していました。不真面目ですし、お荷物ですし、うるさいしタバコ臭いし酒臭いし」
「全部悪口じゃねぇか」
「ですが、審馬さんが動機の墓守と言われる所以がわかったような気がします。それは揶揄した言葉でもなんでもなくて、そこまでの熱量で被疑者と真っ向からぶつかり合える審馬さんに対する、敬意の言葉だったのだと」
「…そりゃぁどうも」
「正直、係長に言われた後も、私は裁矢菜穂子だから審馬さんがこんなに必死なんだって、そう思ってたんです」
東が四方をちらりと見て言う。
そう言えば以前、審馬が何故こんなにも菜穂子に固執するのかという疑問に対して、四方が東を説得していたことを思い出す。
菜穂子に執着しているのではなく、菜穂子の動機に執着しているのだと、その時の四方は言っていた。
「裁矢菜穂子が美人で、人妻だからなのだと。でも違うとわかりました。動機の墓守。それこそが、審馬さんの刑事としての揺るぎない信念なのですね」
東があまりに純粋な尊敬の眼差しを向けてくるものだから、審馬は思わず視線を逸らす。
「いや、間違ってないけど」
「…え?」
「裁矢菜穂子が美人な人妻だから頑張っただけだ。これが不細工な野郎だったらさっさと送検して精神鑑定に出す」
「…はぁ?」
歪んだ尊敬の眼差しを東はそのまま四方へと向ける。バツが悪そうに苦笑いをした四方は、東の鋭い視線に耐えかねたのか後退りをする。
「係長…話が違います。せっかく審馬さんのことを見直したというのに」
「審馬。せっかくお前を庇ってやったってのに」
「知らねぇし頼んでもいねぇ」
「係長?」
東に詰め寄られる四方の救いの目から逃げるようにして、審馬はその場を後にする。
そのまま適当に言い訳をして審馬は帰路に着いた。家に帰るなり、ここ数日の寝不足を取り返すように惰眠をむさぼる。眠ったというよりは気絶に近かかったのかもしれない。
いくつかの違和感を抱えたまま、けれどそれを明日また考えれば良いと思わずにはいられなかったのは、ずっと緊張状態にあってすっかり疲れ切っていたせいだ。
この3日間、油断をしたら飲み込まれてしまいそうだった。裁矢菜穂子という殺人鬼の中に隠されていた真実は、他人事だと流すにはあまりに審馬の心を抉った。
見ないように避けていた過去と向き合わずにはいられなかったからだ。
向き合って、綾香と話をして、果たしてそれで何が変わったのかはわからない。変えられるかもわからない。
けれどヤケになって生きていた5年間より遥かに価値があって彩りのある未来がそこにはあって、柄にもなく希望のようなものを抱かずにはいられない。
そんな前向きな気持ちの中で見た夢は、どこかぼんやりとしていて、掴みどころないものだった気がした。
ーーー朝になって、審馬は菜穂子のもとに向かった。
麻布署内の留置場。これから菜穂子は東京地検に移送される。
留置担当官に留置房を開けさせる。金属製の扉が静かに開かれると、すぐそこに目を閉じて正座をする菜穂子がいた。
菜穂子の瞳がゆっくりと開く。審馬を見上げた彼女は、何も言わずに立ち上がる。
諦念なのか、受容なのか、その表情からは読み取れなかった。
菜穂子のその細い手首に、審馬は手錠を掛ける。辺りに金属音が響けば、これで本当に終わったのだという実感が込み上げてきた。
手錠を見つめる菜穂子に、審馬は小さく「行くぞ」と声を掛ける。
署を出て、移送用のパトカーの方へと歩いていく。
ーーーその時、朝の冷たい空気を裂くように、誰かの声が響いた。何やらどこからか騒がしい言い合う声が聞こえて、審馬は視線を上げる。
「あの、ですから、ここから先は部外者は立ち入り禁止ですので」
東の声だ。署の表の方で、何やら一般市民相手に揉めている。
「いや、なので、部外者ではないです。審馬匠の知り合いです」
「でしたら、表の事務の方へお願いします。内線で審馬を呼びますから」
「でもそれじゃあ…確か、72時間ですよね。昔、審馬に聞いたことがあります」
「何がですか」
自分の名前が聞こえた気がした。どうやら審馬のことを知っている人らしい。
目を凝らして、東とその人を見る。
そこにいたのは、審馬と同い年くらいの、5歳くらいの男の子を抱っこした女性ーーー。
審馬は近くにいた高橋に菜穂子を任せ、東の方へと走る。
「何やってんだ、お前ら」
次回投稿は12/10(水)
を予定しております。




