エンプーサ
イフルズの視野を侵すように、その光景は広がっていた。
鈍色の曇天。閉塞した空の下は、陽の光すら届かず仄暗い。長いこと風雨に晒され続けたビル群は崩れ、白でもなく黒でもなく、その中間色ですらない。動物の死骸から覗く肋骨のようなありさまだ。そのせいか、硝子のなくなった窓は、細工途中の巨大な象眼のようにも見えた。
腐肉がこびりついているわけでもないが、壊れた都市からは濃厚な死の臭いがする。臭いとはいうものの、それは五感の産物ではなく、捉えたものの総合的な抽象化だ。
空気の臭い。
よくある直感の掴み。分析は副次的で、その場が何であるかを知っている。
ここは自分の心象風景だ。
自身を内観しているわけではない。でなければ、ここまでのディテールで実体感は得られない。溶けかけの氷のように、曖昧な夢の様相を呈するはずだ。
あぁ、なるほど――イフルズは納得する。憑依機構。相平衡制御機構の逆転。自分は今、己を完璧に客観しているのだ。ならば眼前に広がるものは道理だろう。イフルズという個人の特称性を、ただ一人の人間という総称性で眺めているのだから。ゆえに、そこに転がっている風景に動揺することもない。
頭蓋がスプーンで刳り貫かれたように抉れている女。てらてらとした肉色の綿を頭から溢し、仰向けに倒れて死んでいる。その隣には、こめかみに焦げついた小さな黒い穴を空けている男が、無様に祈りを捧げるように倒れていた。その手にはハンドガンが握られていて、銃口から硝煙が臭ってくる。
目線を横にやると、崩れた瓦礫にもたれかかって死んでいる男がいた。彼は腹部が頭陀袋のように引き裂けて、腹圧で腸やら何やら肉の管を飛びださせている。その死体の白濁した目線の先には、ちょうど他と比べてまだ人型を保っている男の肉塊があった。ただ、ヒトの形をしているだけで、各部位は壊れた人形のようで、あまつさえ顔には多くの銃創があり、赤黒い血を垂らしている。
ちょうど、イフルズの正面には、金髪の少女が椅子に座って顔を伏せていた。その少女はぴくりともしないが、生きているのか死んでいるのかは、こちらからではわからない。
死体が転がる中央には、乱暴されるだけされて棄てられた、全裸の女の死体を抱えて誰かが哭いている。
識別子IFLS-ALT4S。この場で唯一、明確に生きている人間だ。
イフルズは彼の背後に立ち、悲しみに暮れて丸まった相手の背を眺める。
「何でこいつらが死ななくちゃいけなかったんだ」
嗚咽しながら識別子IFLS-ALT4Sが訊いてきた。
イフルズは答える。
「理由はない」
気がつくと、手には馴じみのある重さがあった。掌に吸いつくようにハンドガンが握られている。
「あの時、そこに理由はなかった」
「お前は悲しくないのか」
再び相手は訊いてくる。その横顔には影が落ちて昏く、貌が見えなかった。
「どうして嘆きもしない」
イフルズは恋人の亡骸を抱えて悲嘆する男に足を寄せる。
「全てを喪ったのに」
何も汲み取れない相手の無貌の闇から、イフルズは一つだけ掬いあげた。憎悪。あらゆるものを拒絶し、赦さない鋼鉄の意志。そのすべては刃のように自分に切っ先が向けられている。
「何でお前は生きている」
「お前が死んでいるから」
イフルズは引き金を引いた。
破裂音と閃光が走る。周囲の景色がステンドグラスのように砕け散った。識別子IFLS-ALT4Sが、女の死体を抱えたまま前のめりに倒れる瞬間の一枚絵。最後まで相手の表情は見えなかった。
世界が色硝子の欠片になって足元に散らばる。銀灰色の無限の空間が拡がった。残ったのは手に握られているハンドガンだけ。銃には弾丸がたっぷりと残っており、いまだにずしりと重力を主張する。
まだ殺せる。
それは直截的に湧きあがった。理解している。弾倉が空にならない限り、ここは永遠に閉じた世界だ。他に何も必要ないから、ここには何もないのだ。歯車すら回さずに動き続ける己の仕組みだからこそ、それは透き通っている。きっと雌蟷螂がどこかで微笑っているのだろう。
「あの……」
背後から声を掛けられた。瞬間、誰何の疑問よりも先に、身体は機械よりも機械的に銃を構えていた。
ここは自分の心象風景――個人領域だ。イフルズの肉体への接続許可がなければ、誰も訪れることができない情報空間だ。
「う、撃たないで! す、すみません……驚かせるつもりは……」
慌てて両手を上げた相手の姿を見て、イフルズは硬直した。服装こそルクスリアのシンボルカラーである赤色を基調とした軍服だが、その顔が見知ったものだったからだ。
識別子ENCH-TREES。かつて、トレスと呼んでいた死んだ恋人。
「え、えっと……イフルズ少尉殿、ですよね?」
イフルズが呆然としていると、両手を上げたまま恋人の幻影が訊いてくる。その問いかけで我に返る。
不審と嫌悪感から、目を細めながらイフルズは訊く。
「……誰だ、お前は」
言いながら、白い歯をした技術士官の言葉がイフルズの脳裏を過る。
――そうそう、この試作機のAIなんですけどね、少将が直接選定したんですよ。
自分からした質問の答えはもうわかっていた。
そう、だからこそ違う。トレスは死んだ。その事実は覆りようがなく、あらゆる彼女の似姿が現れようと、それは決して自分が愛した彼女ではない。
ベリカがなぜトレスを選んだのかはわからない。いずれにしろ、イフルズにとって悪質なものであることには変わりない。おそらく、トレスの死体を回収して、その体を細かく刻んで標本化して作りあげた構造物と言ったところだろう。
「わ、わたしはXF-26/LXの搭載AIです」
諸手を挙げた構造物は答える。その表情や挙動はトレスのものを使った身振り手振りだ。哀愁よりも不快感が芽生える。相手の一挙手一投足が、自分の記憶と合致すればするほど、その感情は強くなる。
「憑依機構の接続のため、少尉殿へ認証をしていただきたくて……」
姿形は知悉したものだがやはり違う。トレスは自分を少尉とは呼ばない。窺いを立てるような口調で話もしない。ましてや軍服を身にまとうことなど決してない。
どんなに彼女に似ていようが、必ず乖離がある。それがたとえ、本人を元にして造りあげられたコピーであろうと、そこに魂が存在しないのであれば――存在していたとしても別の魂ならば――飛び越えようのない深淵の線が引かれる。ならば、そこにいるのはただのモノだ。
「現在は接続関係要求プロセスです。そのため、わたしはKUネット上に公開されている少尉殿の元を訪れていますが、少尉殿が拒否した場合、わたしは自動的に即時退去します」
イフルズの裡で出た結論は納得ではなく、自明だった。
自分の願いを達成するために必要な道具として用意されたのであれば、イフルズはそれがどんな形をしていようと、何も意に介さず使うことを選択する。目の前にいる死んだ恋人の形をした道具は、そのアタッチメントだというだけの話だ。
「認証していただければ、少尉殿が機体に搭乗している間、その体をわたしがお預かりさせていただきます。通信経路上では、わたしの移動は制限され、少尉殿のみ機体と体の行き来が自由になるという形になりますが……」
銃を構えたまま何一つ返答を返さないイフルズに、構造物は不安そうにする。
「あの……?」
「エンプーサだ」
「はい?」
イフルズの突然の言葉に、相手は困惑した表情を浮かべる。
「お前の名前だ。そうだな……そうすると、オレのコードネームは、あの虫から取るか」
イフルズは銃を降ろす。
「あと、一つ条件がある。髪型を変えろ」
「髪型、ですか?」
構造物は怪訝そうに問い返してきた。イフルズは首肯して返す。そのまま沈黙して待った。
相手はこちらの要求に他意があるのかと勘繰っているようだ。落ち着かない様子で、どうすればいいのかと目が泳いでいる。やがて、観念したような面持ちでアバターに手を加え、トレスの自慢だった波打つ豊かな長い黒髪を短くし、ショートヘア姿になった。
短くなった髪の毛先を指で弄りながら、構造物はこちらに向き直る。
「似合っているかな?」
そして微笑んだ。
即座にイフルズは再び銃を構えた。
「――名乗れ、目的は何だ」
今の笑みは、明らかにトレスの人格によるものではなかった。わずかに口角を上げ、余裕を持った鷹揚とした笑い方。イフルズは、そんな恋人の顔は知らない。さっきまであった嫌悪感を忘れるほど、印象が一変していた。
構造物は肩を竦める。その仕草も記憶に重ならない。
「忘れてしまったのかい。適性試験以来なのに、冷たいな」
虚を衝かれたようにイフルズは目を見開く。相手の正体に思い至り、睨みつけた。自然と、銃を握る手に力が入る。
「……ファルマか」
適性試験で出会ったものの中で、諧謔味を帯びた態度を取る相手は、他にいない。いや、それ以前に、イフルズはあの戦場で自分の道を妨げるものは全員殺している。適性試験以来、などという人間は一人もいないのだ。
「なんでお前がここにいる」
「君と話がしたくてね。ちょっと彼女の体を借りているよ。奴隷である君に支給されたAIの管理が、ボク側で助かったよ。こうして自由に君と会話する機会が作れる」
「どういうことだ……」
ファルマは「ん?」と不思議そうな顔をすると、一人で納得したように頷く。
「あぁ、君の階級だと、まだボクの存在に関する情報にはアクセスできていないのか。ボクの表向きの正式名称は、奴隷管理最高責任者AI『ファルマコン』。つまり君たち奴隷の保護者さ」
「保護者だと? あの試験とは名ばかりの戦場で、奴隷をゴミのように殺したくせに」
イフルズの言葉に、ファルマは一瞬目を細め、冷たい顔を見せた。かと思うと、困ったような顔でおどけながら、手をひらひらとさせる。
「いやいや、それがボクの立場の難しいところさ。しきはこの国で〈官能〉を満たすために不要な〈苦痛〉を切り離していてね、ボクはそれを管理させられるために作られたんだ。だから、ボクはルクスリアに絶対服従の身でね。命令されたら人間のように反抗心を見せる余地すらないんだ」
「なら、お前にとって、あの戦場は不本意なものだったとでも?」
「その通りだとも。わかってくれるかな?」
同意を求めるようにファルマは両手を差しだしてくる。イフルズは侮蔑の目を向けてそれを一蹴した。
「いや、信じがたいな。いくら高性能とはいえ、たかが管理AIが独断でオレに接触してくるわけがない。お前の裏にいるのは誰だ? ベリカの政敵か? VRPDのオレを利用しにきたか?」
ファルマは天を仰ぎながら大仰に額を抑えて嘆くように言う。
「おいおいよしてくれ。さっきも言っただろう、表向きの名が管理AIで、ボクは、しきが〈官能〉から切り離した〈苦痛〉だと」
やれやれと言わんばかりにファルマは頭を振る。そして、自分の胸元に手をやり、頭を下げながら、こちらを上目遣いに見ながら言った。
「つまり、ボクは、〈苦痛〉の概念だ」
突然の言葉に動揺しつつ、感情を隠してイフルズは銃を構えた。
「法螺話を」
到底信じられる話ではない。国の礎にすらなれる存在が、こんなところにいるわけがない。だが、構造物の人格は、トレスをベースにしたものから、別人になっているのは確かだ。構造物がクラッキングされたのは間違いないだろう。だとすると、相手は狂っているか、AIに扮した諜報員といったところだろうか。
「物騒なものはしまってくれ」
ファルマの言葉と同時に、腕が軽くなる。掌の中に収められていたはずの銃が消えていた。驚愕するイフルズの目の前で、さっきまで自分が持っていた銃を、相手は手の中で遊ばせていた。
ファルマが質量を無視して両手で銃を包みこむ。初めから何もなかったかのように、相手の手の中には、無だけが残った。情報空間上での圧倒的な情報処理能力を見せつけられ、警戒心から一歩後退る。
「これで信じてくれたかな?」
ファルマの能力は、根拠とするには薄弱で、否定するには強固だった。イフルズはこの場から逃げようと、VRの切断を試みる。反応しない。ならばと、相手の強制切断を実行する。反応しない。ぎしりと歯を噛みしめる。
自分の個人領域内だというのに、権限が完全に奪われている。この状況下で、BR側からの介入がないということは、異常が検知されていないか、欺瞞されているかのどちらかだ。いずれにしろ、相手の技術力の高さを思い知らされる。
「ボクの用件は」
イフルズの焦燥を無視して、ファルマは一方的に話を続ける。
「君に奴隷を解放してほしい、イフルズ」
そして告げられた言葉は予想外にも程があった。
当惑して二の句が継げない。辛うじて絞りだせたのは、率直な感想だった。
「何をわけのわからないことを……」
ファルマは両手の手の平をこちらに向けて、イフルズの言葉を制止した。
「あぁ、いい、いいよ。大丈夫、その反応は当然だ。ボクも最初から聞き入れてもらえるとは思っていないから。今日のところは、自己紹介と勧誘まで」
「ちょっと待てお前、人の話を」
あまりに一方的なファルマにイフルズは苛立って思わず相手の肩を掴んだ。しかし、それを意に介さずファルマはしゃべり続ける。
「さて、また折を見て話を聞いてもらえると嬉しいな。今日のところはこの辺で。この娘、ボクとの窓口だから大切に扱うように」
そう言って、ファルマが笑顔で手の平を振ったかと思うと、次にはその顔が困惑した少女のものになっていた。エンプーサが戻ってきたのだ。
彼女にとっては、突然イフルズが肩に掴みかかってきたような状況だろう。おずおずとした様子で、絞り出すように彼女は言った。
「あ、えと……この髪型でいいですか?」
「……あぁ、もう、それでいいよ」




