第61話 屋根があっても、住める場所とは限らない
第61話です。
前回、第60話で第五部・下流交易都市編は一区切りとなりました。
リヴァールでは、倉庫にある食料が市場へ届かず、市場暴動が目前まで迫っていました。
澪たちは、倉庫在庫を見えるようにし、荷船から麦を降ろし、粉にし、焼き、札で守り、列に来られない人へ届け、水と器を整え、赤水や食べ残しまで管理していきました。
そして最後に、町の道そのものを《通り分け》で整えます。
その結果、市場暴動予測は解除され、下流交易都市ヘックスの局所臨界は回避されました。
しかし、食料が届き始めたことで、次に見えてきたものがあります。
食べた人々は、どこで眠るのか。
橋下区画。
北岸仮小屋群。
旧船溜まり水上小屋。
外縁に広がる避難居住帯。
そこには、屋根らしきものはあっても、住むには危うい場所が広がっていました。
密集。
夜間冷却。
湿った床。
煙。
糞尿処理の未整備。
井戸や青水系統への二次汚染。
今回から第六部・外縁避難居住帯編に入ります。
今回の条件は、
《屋根があっても、住める場所とは限らない》
食料の次は、住まいと衛生です。
食料の道がつながっても、人は道の上では眠れない。
下流交易都市リヴァールの朝は、奇妙な静けさから始まった。
市場の怒号は、昨日より少ない。
共同焼き場には行列があるが、押し合いではなく順番になっている。
湯気道を通る湯壺も、青急ぎ道を通って橋下へ向かっている。
粉袋の荷車は一方通行を守り、商用荷箱は時間帯を待っている。
完全ではない。
それでも、第五部で作った流れは動いていた。
神代澪は、その光景を見て、ほんの少しだけ安心しかけた。
本当に、ほんの少しだけ。
その瞬間、調律核が赤く点滅した。
《広域難民移動:再計算》
《仮小屋群:滞留長期化》
《橋下区画/北岸仮小屋群/旧船溜まり水上小屋:一時居住化》
《住居密度:危険域》
《夜間冷却:高》
《湿床反応:増加》
《煙滞留:増加》
《糞尿処理:未整備》
《井戸・青水系統への二次汚染リスク》
《疾病発生予測:上昇》
《次期調律対象候補》
《外縁避難居住帯》
《条件候補:屋根があっても、住める場所とは限らない》
「出た……」
ライカが隣で小さく言った。
「食べたら次は寝る場所」
「そうなりますよね」
澪は目元を押さえた。
食料を届けた人々が、どこへ戻るのか。
橋下の布屋根。
北岸の仮小屋。
水上小屋。
古い荷置き場。
壊れた倉庫。
使われていない馬車待機場。
そこが、いつの間にか避難居住帯になっている。
食べ物の列に並べるようになっても、夜を越す場所が危険なら、次に来るのは病気と寒さだ。
フィリアが静かに言う。
「昨日、橋下の子どもたちは温かいものを食べられました。でも、濡れた床で眠れば、また体を冷やします」
アオイも頷いた。
「食料だけでは、守りきれません」
ミルカが大通りの外れを見た。
「仮小屋群、木組みが危ないところがある。荷物を屋根にかけすぎてる」
ルシェリアは風を読む。
「外縁の煙が低く流れています。小さな火を小屋の中で使っている可能性があります」
サヴィが顔をしかめる。
「水上だけじゃない。北岸の仮小屋でも、夜は冷えるから火を入れたがる」
オルグは疲れた顔で記録板を閉じた。
「食料供給の次は、居住管理か」
ナジルが青ざめる。
「都市の外縁居住帯は、まだ正式な区画ではありません。仮滞在扱いで……」
ライカがぽつりと言う。
「仮って、何日くらい?」
ナジルは答えられなかった。
その沈黙が答えだった。
仮の場所が、長く使われ始めている。
でも、仮のままだから、管理の線が引かれない。
線がないから、寝床も火も水も汚れも混ざる。
澪は息を吸った。
「外縁避難居住帯へ行きます」
ライカが少しだけ眉を下げる。
「休まないの?」
「少し休みたいです」
「うん」
「でも、今夜まで放置すると、たぶん悪化します」
「だよね」
徹夜続きの身体で、こういうの本当にやめてほしい。
そう思いながらも、澪は歩き出した。
***
外縁避難居住帯は、リヴァールの北東側に広がっていた。
もともとは、馬車の待機場、空き倉庫、古い荷置き場、修理待ちの船材置き場だったらしい。
そこに、流れ込んできた人々が布を張り、板を立て、荷車を壁にし、壊れた帆を屋根にして暮らしている。
一見すると、屋根はあった。
だが、近づくほど、澪はその言葉の危うさを感じた。
屋根はある。
でも、低すぎる。
風が抜けない。
雨水が端から垂れ、床が湿っている。
寝床が重なりすぎて、通路がない。
火鉢のようなものが小屋の中に置かれ、煙がこもっている。
荷物と寝床と食料と汚れた布が、同じ場所に積まれている。
子どもが咳をしていた。
老人が湿った毛布にくるまっていた。
母親が赤ん坊を抱え、煙を避けるように小屋の外へ出ている。
調律核が赤く点滅する。
《外縁避難居住帯:到達》
《収容密度:危険域》
《通路幅:不足》
《湿床率:高》
《煙滞留:高》
《夜間冷却:高》
《病人・幼児混在:高》
《火源位置:不適切》
《寝床区分:未成立》
《条件候補:屋根があっても、住める場所とは限らない》
「これは……」
澪は言葉に詰まった。
ライカが鼻をひくつかせる。
「寒い匂いと煙の匂いと、湿った布の匂い。あと、具合悪い人の匂い」
ミルカは小屋の柱を見ていた。
「この帆布、荷物を吊りすぎてる。雨が降ったら水を吸って落ちる」
アオイが通路を見る。
「人が倒れた時、運び出せません」
フィリアが子どもへ近づき、咳の様子を見る。
「煙を吸っています。火を中に置かない方がいいです」
その時、一人の女性が小屋の奥から出てきた。
四十代ほど。
短く結んだ髪。
手には小さな帳面。
顔には疲れが深く刻まれている。
「また役所の人ですか」
声には警戒があった。
ナジルが慌てて前に出る。
「リーネ、こちらは調律者の澪殿だ。食料配布を整えてくださった方で……」
女性、リーネは澪を見る。
「食料は助かりました。でも、ここから人を追い出すなら困ります」
「追い出しに来たのではありません」
澪はすぐに答えた。
「ここで安全に眠れるようにするために来ました」
リーネは一瞬黙った。
それから、苦く笑った。
「安全に眠る? 屋根があるだけでありがたいと言われますよ」
「でも、屋根があっても、煙で咳が出て、床が濡れて、通路がなければ危険です」
リーネの目が少しだけ揺れた。
彼女は、分かっている顔をしていた。
分かっている。
でも、どうしようもなかったのだ。
「人が多すぎます」
リーネは言った。
「昨日よりまた増えました。橋下から移ってきた人も、水上小屋から来た人もいます。夜は寒い。火を消せと言っても、赤ん坊が震えます。荷物を外へ出せと言っても、盗まれたら終わりです。通路を空けろと言っても、そこに寝るしかない人がいます」
どれも正しい。
そして、全部が詰まっている。
澪は調律核を見た。
《推奨対応:収容人数削減》
「……簡単に言う」
ライカが小声で言った。
「人を減らせって、どこへ?」
「そこです」
澪は頷いた。
人を減らす場所がなければ、削減はただの追い出しになる。
それでは虚無が濃くなるだけだ。
「まず、寝る場所を全部同じにしません」
リーネが眉を寄せる。
「どういう意味ですか」
「寝床、通路、火、荷物、病人、濡れた場所。全部を分けます」
セラフィナが記録板を開く。
「作業名を設定しますか」
澪は避難居住帯を見渡した。
仮の屋根の下に、人も荷物も煙も寒さも押し込められている。
そこに必要なのは、住まいとしての呼吸だった。
「《仮宿呼吸図》」
セラフィナが頷いた。
「記録します。《仮宿呼吸図》」
リーネが小さく呟く。
「呼吸……」
澪は言った。
「屋根の下にも、息をする道が必要です」
***
最初にしたことは、寝床を動かすことではなかった。
線を見ることだった。
どこに人が寝ているのか。
どこに荷物があるのか。
どこから煙が出ているのか。
どこが濡れているのか。
どこに病人がいるのか。
どこから逃げられるのか。
それを、地面に描く。
ミルカが棒で湿った土に線を引く。
セラフィナが記録板へ写す。
ノアは絵板を持って走る。
「ここ、通路です! 寝床じゃありません!」
すると、すぐに怒号が返ってきた。
「じゃあ、どこで寝ろって言うんだ!」
「そこを空けたら、うちの場所がなくなる!」
「荷物をどかすな!」
当然だった。
通路を作るということは、誰かの寝床や荷物を動かすことでもある。
澪は声を張った。
「寝床を減らすためではありません。倒れた人を運べる道を作るためです!」
男が言い返す。
「倒れる前に寒さで死ぬぞ!」
トマが火かき棒を持って前へ出た。
「火を中に置いたら煙で咳き込む。燃えたら全員逃げ場がない」
「火を外に出したら寒い!」
「だから火と寝床の間に、温め場を作る」
澪は言った。
「小屋の中で火を焚くのではなく、外の石床に火受けを置く。そこから温めた石や湯を寝床へ運びます」
リーネが驚いたように聞く。
「温めた石?」
ミルカが頷く。
「布で包めば、寝床の足元に置ける。火そのものを持ち込むより安全」
フィリアが続ける。
「病人や子どもには、温かい湯と柔食も回します。火を囲む場所と寝る場所を同じにしない方がいいです」
ルシェリアが風を読む。
「煙は上へ逃がします。屋根の低いところに火を置くと、煙が眠る人へ戻ります」
澪は線を引いた。
仮宿呼吸図は、五つに分ける。
第一、寝床帯。
乾いた床を優先する。
病人、子ども、高齢者は、風下の煙が来る場所から外す。
第二、通り帯。
人が一人ではなく、担架代わりの布を持った二人が通れる幅。
ここには寝ない。
荷物も置かない。
第三、荷置き帯。
荷物は寝床の上に積まない。
屋根の柱に吊りすぎない。
預かり札を使い、通路の外へまとめる。
第四、火受け帯。
火は小屋の中ではなく、外の石床へ。
煙の向きと水桶を確認する。
第五、湿り帯。
床が濡れている場所。
今夜の寝床にはしない。
藁や板で乾かすまで待つ。
「寝床にも赤黄青を使います」
澪は言った。
ライカが遠い目をした。
「住む場所まで赤黄青」
「赤床、黄床、青床」
ミルカが即座に言う。
「青床は今夜寝られる。黄床は板や藁を敷けば寝られる。赤床は湿り、煙、柱の危険があるから寝ない」
「分かりやすいですね」
セラフィナが記録する。
《青床:使用可》
《黄床:処置後使用》
《赤床:使用禁止》
《通り帯:確保》
《火受け帯:屋外》
《荷置き帯:預かり札》
リーネは、その板をじっと見ていた。
「これなら、説明しやすい」
「今までは?」
「危ないからどいて、火を消して、荷物を片づけて、そう言うしかありませんでした」
「それだと、ただ奪われるように聞こえます」
「はい」
リーネは小さく頷いた。
「だから、誰も動きませんでした」
***
最初の移動は、北側の大きな帆布小屋で始まった。
最も人が多く、最も危険な場所だ。
帆布は大きく、屋根らしく見える。
だから人が集まる。
だが、中央の柱は傾き、梁には荷物が吊られすぎていた。
床の左側は湿っている。
右側には小さな火鉢。
奥には咳をする子ども。
入口は荷物で半分塞がっていた。
調律核が赤く光る。
《北側帆布小屋:危険》
《収容人数:過密》
《支柱負荷:高》
《湿床:左側》
《煙滞留:右奥》
《出口閉塞:中》
《火源近接:寝床》
《倒壊・煙害・避難遅延リスク》
「まず火」
トマが言った。
「火鉢を外へ」
「寒い!」
中の女性が叫ぶ。
「子どもが震えてるんだ!」
フィリアがすぐに子どもへ近づく。
「先に温かい布と湯を回します。火鉢は外の火受け帯へ移します」
「火を消すんじゃないのか」
「消しません。中から外へ移します」
ミルカが火鉢の下を見る。
「床板が焦げてる。あと少しで穴が空く」
その焦げ跡を見て、周囲の人々の顔が変わった。
目に見える危険は、言葉より強い。
アオイとトマが火鉢を慎重に外へ運ぶ。
ルシェリアが煙を上へ逃がし、屋根の下にこもった煙を外へ流す。
子どもが咳き込み、フィリアが温かい湯を少し飲ませる。
次は荷物。
梁に吊られた袋を下ろす。
だが、持ち主は強く抵抗した。
「盗まれる!」
「外に置いたらなくなる!」
澪は預かり札を見せた。
「荷置き帯へ移します。荷主札と控え札を出します。荷置き番も置きます」
「信用できるか!」
マルセが、なぜかそこにいた。
商用待ち場の調整を終え、外縁まで来ていたらしい。
彼は男へ言った。
「荷物を柱へ吊ったまま屋根が落ちれば、荷も人も失う。札つきで荷置き場へ移す方がましだ」
男は商人を見る。
「商人が言うと信用ならない」
マルセは肩をすくめた。
「信用ならない商人でも、荷の扱いくらいは知っている」
サヴィが横から笑った。
「悔しいが、その通りだ」
男はしばらく黙り、やがて袋を下ろした。
一人が動けば、次が動く。
荷置き帯へ荷物が移される。
梁の負荷が下がる。
ミルカが支柱を確認する。
「まだ危ないけど、今すぐ倒れるほどではなくなった」
次は寝床。
赤床から人を動かす。
湿った左側。
煙がこもる右奥。
支柱の真下。
そこから、青床と黄床へ移す。
ただし、青床は足りない。
黄床を処置する必要がある。
ベルドたちが板を運んできた。
畜舎戻し路で使った経験から、湿った床に厚く藁を積めば腐ることを彼は覚えていた。
「厚く敷けばいいってもんじゃなかったな」
ベルドが言う。
ミルカが頷く。
「下にすのこ板。薄く乾いた藁。湿った布は外で乾かす。濡れた藁を寝床へ入れない」
「分かった。薄く、乾いたやつだ」
ベルドはもう、ただの力仕事係ではない。
ちゃんと仕組みを理解し始めている。
澪はそれを見て、少し嬉しくなった。
北側帆布小屋は、少しずつ変わった。
中央に通り帯。
左右に寝床帯。
入口の荷物は荷置き帯へ。
火鉢は外の火受け帯へ。
湿った床は赤床から黄床へ。
病人と子どもは煙の来ない青床へ。
完全ではない。
狭いことに変わりはない。
それでも、誰かが倒れた時に外へ運べる道ができた。
煙が寝床に戻りにくくなった。
荷で屋根が落ちる危険が減った。
調律核が黄色から青へ変わる。
《北側帆布小屋:仮宿呼吸図適用》
《火源:屋外火受け帯へ移動》
《支柱負荷:低下》
《通り帯:形成》
《赤床使用:停止》
《病人・幼児寝床:青床へ移動》
《煙滞留:低下傾向》
《倒壊リスク:低下》
リーネが、何度もその表示と現場を見比べていた。
「屋根の下を空けると、住む場所が減ると思っていました」
澪は言った。
「でも、通路がないと、住む場所ではなく詰め込む場所になります」
リーネは深く息を吐いた。
「その通りです」
***
だが、すべてが順調には進まなかった。
次に向かった東側の仮小屋では、住民がまったく動こうとしなかった。
理由は、荷物でも火でもない。
場所取りだった。
「ここは昨日からうちが取った場所だ!」
「青床だろうが黄床だろうが関係ない!」
「奥へ移されたら、配布が遅れる!」
「入口に近い方が食料をもらえる!」
澪は、その言葉で気づいた。
寝床の場所は、単なる寝る場所ではない。
食料列への近さ。
水への近さ。
出口への近さ。
見張りやすさ。
盗まれにくさ。
それらが全部絡んでいる。
青床へ移れと言っても、それが配布から遠い場所なら、人は動かない。
「寝床と配布の道もつながっている」
ライカが言った。
「うん」
澪は頷いた。
「住む場所だけ見ても駄目ですね」
セラフィナが記録する。
《寝床移動抵抗:発生》
《理由:配布地点距離/水場距離/荷物監視/出口近接》
《仮宿呼吸図:単独運用不十分》
リーネが困った顔をする。
「だから入口ばかり埋まるんです。奥は空いているように見えて、誰も行きたがらない」
ミルカが仮小屋の奥を見る。
「奥は空気が悪い。あと、床も少し下がってる。雨水が溜まる」
「つまり、本当に悪い場所ですね」
「うん」
ただのわがままではない。
奥に行かない理由がある。
それを無視して移動を命じれば、不信が生まれる。
澪は仮小屋の入口に立ち、全体を見た。
「入口に近い場所を、寝床にしない代わりに、受け取り口を増やします」
住民たちがざわつく。
「受け取り口?」
「食料や湯を入口だけで配らない。通り帯の先に小受け台を作ります。奥の人も、入口へ押し寄せなくていいように」
ノアが目を輝かせた。
「小受け台なら、湯気道の小籠で運べます!」
「はい」
澪は頷いた。
「入口を寝床にしない。その代わり、奥にも届く道を作る」
フィリアが続ける。
「病人や高齢者は、奥の青床でも食料を受け取れるようにします」
サヴィが言う。
「荷物は荷置き帯。でも見張りを置く。見えない場所に持っていかれたと思わせない」
マルセが小さく笑った。
「また札と番人か」
「必要です」
澪は答えた。
「人は、失うと思うと動けません」
東側仮小屋には、奥受け台が作られた。
入口。
中央通り帯。
奥受け台。
荷置き帯。
火受け帯。
水桶置き。
これで、入口を塞いでいた寝床の一部が動き始めた。
「奥でも食料が来るなら……」
「荷物に札があるなら……」
「通路があれば、夜に出られるなら……」
少しずつ。
本当に少しずつ。
赤床から黄床へ。
黄床から青床へ。
入口から中央へ。
荷物は荷置き帯へ。
人の不安を一つずつ減らさないと、寝床は動かない。
澪は改めて思った。
住まいは、ただ面積の問題ではない。
安心の問題だ。
調律核が青く光る。
《東側仮小屋:奥受け台形成》
《入口寝床:一部移動》
《通り帯:形成》
《荷置き帯:預かり札運用》
《寝床移動抵抗:低下傾向》
《仮宿呼吸図:更新》
「一つ進んだ」
ライカが言った。
「はい」
澪は頷く。
「でも、まだ外縁全体には足りません」
「知ってた」
***
夕方までに、外縁避難居住帯には、仮宿呼吸図が広がり始めた。
すべての小屋ではない。
北側帆布小屋。
東側仮小屋。
橋下から移ってきた家族の一角。
水上小屋から来た人々の一時寝床。
その程度だ。
けれど、赤床、黄床、青床の考え方は分かりやすかった。
通り帯を作る。
火は外の火受け帯へ。
荷物は荷置き帯へ。
病人と子どもは煙の来ない青床へ。
湿った床はすぐに寝床にしない。
奥にも食料の小受け台を作る。
線と札と絵板で、少しずつ説明していく。
調律核が青く光る。
《外縁避難居住帯:仮宿呼吸図 一部適用》
《青床/黄床/赤床:区分開始》
《通り帯:複数形成》
《火受け帯:屋外化》
《荷置き帯:預かり札運用》
《病人・幼児寝床:改善》
《煙滞留:一部低下》
《湿床使用:一部停止》
《条件候補:一部達成》
《屋根があっても、住める場所とは限らない》
リーネは、記録板を見ながら深く息を吐いた。
「住める場所にするには、屋根より先に線が必要だったんですね」
澪は頷いた。
「屋根は大事です。でも、屋根の下に何を置くか、どこを空けるか、火をどこへ出すか。それを決めないと、危険が屋根の下に集まります」
リーネは小さく笑った。
「屋根があるから安心、ではない」
「はい」
「でも、屋根がないよりはずっといい」
「だから、屋根を壊すのではなく、住める形にします」
その時、フィリアが一つの寝床のそばで眉をひそめた。
「この子、また熱が上がっています」
澪はすぐに近づいた。
橋下で温食を受け取っていた子どもだ。
外縁に移ってきたものの、夜の寒さと煙で体調が悪化したらしい。
母親は青床へ移されたばかりで、涙ぐんでいる。
「昨日より食べられたのに……」
フィリアが子どもの額に手を当てる。
「食べ物は入っています。でも、冷えと煙、それから……」
彼女は言葉を切り、寝床の外を見た。
小屋の裏。
人々が使っている簡易の汚れ場がある。
布で隠しているだけの場所。
そこから、嫌な匂いが風に乗って戻ってきていた。
ライカが顔をしかめる。
「これは、駄目な匂い」
ルシェリアも表情を硬くする。
「風向きが変わると、寝床へ戻ります」
ミルカが地面を見る。
「雨が降ったら、ここから水が流れて青床側へ来る」
調律核が赤く点滅した。
《外縁避難居住帯:新規異常》
《簡易汚れ場:寝床近接》
《風向変化時、臭気逆流》
《雨天時、汚水流入予測》
《青床・黄床への二次汚染リスク》
《疾病発生予測:上昇》
《次条件候補:寝床のそばに、汚れを置いてはいけない》
リーネの顔が青ざめた。
「そこまで、手が回っていませんでした……」
澪は調律核を見つめた。
屋根の下を整えた。
通路を作った。
火を外へ出した。
荷物を分けた。
寝床を青黄赤に分けた。
すると今度は、寝床の外に置かれた汚れが見えた。
住まいは、屋根と床だけではない。
眠る場所の近くに、何を置くか。
風がどちらへ流れるか。
雨が降った時、汚れがどこへ行くか。
それも、住める場所の一部だ。
ライカが小さく言った。
「次は、汚れ場?」
「はい」
澪は頷いた。
「寝床を守るには、汚れを置く場所も決めないといけません」
夕方の外縁避難居住帯で、仮の屋根が風に揺れている。
その下では、人々がようやく横になり始めていた。
けれど、そのすぐ外で、見えない汚れの流れが、次の病の入口を開こうとしていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
第61話から、第六部・外縁避難居住帯編が始まりました。
第五部では、下流交易都市リヴァールで食料の流れを調律しました。
倉庫にある麦を市場へ出し、粉にし、焼き、札で守り、列に来られない人へ届け、水と器を整え、赤水や食べ残しまで管理し、最後に道そのものを《通り分け》で整えました。
その結果、市場暴動予測は解除され、下流交易都市ヘックスの局所臨界は回避されました。
しかし、食料が届き始めたことで、次に見えてきたのは「住む場所」の問題です。
今回の条件は、
《屋根があっても、住める場所とは限らない》
でした。
外縁避難居住帯には、屋根らしきものはありました。
帆布。
板。
壊れた荷車。
空き倉庫。
古い荷置き場。
しかし、屋根があるだけでは、住める場所にはなりません。
床が湿っている。
煙がこもる。
通路がない。
荷物が梁に吊られすぎている。
火が寝床の近くにある。
病人や子どもが煙の来る場所に寝ている。
出口が荷物で塞がっている。
こうした状態では、屋根は安全ではなく、危険を閉じ込めるものになってしまいます。
そこで澪たちは、《仮宿呼吸図》を作りました。
寝床帯。
通り帯。
荷置き帯。
火受け帯。
湿り帯。
さらに、寝床を青床、黄床、赤床へ分けました。
青床は今夜寝られる場所。
黄床は板や藁などの処置をすれば使える場所。
赤床は湿り、煙、柱の危険があるため寝床にしない場所。
また、火は小屋の中ではなく、外の火受け帯へ移しました。
寒さ対策として、火そのものを中に持ち込むのではなく、温めた石や湯を寝床へ届ける方向にしました。
荷物も、通路や梁から動かすために、荷置き帯と預かり札を使いました。
人は荷物を失うと思うと動けません。
だから、ただ「どかせ」と言うのではなく、預かり札と荷置き番が必要になります。
今回の重要な点は、住まいは面積だけではない、ということです。
どこで眠るか。
どこを空けるか。
火をどこへ出すか。
荷物をどこへ置くか。
病人と子どもをどこへ移すか。
入口や奥の人にも食料が届くか。
それらが整って、初めて屋根の下は住める場所へ近づきます。
特に東側仮小屋では、入口付近から人が動こうとしませんでした。
理由は、食料列に近い、水場に近い、荷物を見張れる、出口に近いという安心があったからです。
単に奥へ移動させようとしても動きません。
そこで、奥受け台を作り、奥にも食料や湯が届くようにしました。
寝床の移動には、食料の道や荷物の安心も必要だったのです。
結果として、《仮宿呼吸図》は一部適用され、青床、黄床、赤床の区分、通り帯、屋外火受け帯、荷置き帯、病人・幼児寝床の改善が始まりました。
しかし、ラストでは新たな問題が見つかります。
寝床の近くにある簡易汚れ場です。
風向きが変わると臭気が寝床へ戻り、雨が降れば汚れた水が青床や黄床へ流れ込む危険があります。
次の条件候補は、
《寝床のそばに、汚れを置いてはいけない》
です。
次回は、避難居住帯の汚れ場、風向き、雨水、寝床との距離を扱います。
住まいを守るには、眠る場所だけでなく、汚れを置く場所まで調律しなければなりません。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:G(ChatGPT)




