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婚約者がまた病弱な幼なじみのお見舞いへ行ったので、婚約式は私ひとりで終わらせました【連載版】  作者: 本城オブリゲータ


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第三話 君なら待っていてくれると思った

 セシリア・ロイス男爵令嬢は、白いショールを胸元で握りしめていた。



 淡い金髪。

 血色の薄い頬。

 今にも倒れそうなほど潤んだ瞳。

 彼女が病弱であることは、誰が見ても分かった。


 それ自体を、私は疑っていない。


 病がちな身体で生きることは、きっと私が想像するよりずっと大変なのだろう。

 けれど。

 それは、私の婚約式を奪ってよい理由にはならない。



「セシリア」



 ディオン様が彼女の名を呼んだ。

 声には、はっきりと心配が滲んでいた。

 私へ向ける声とは違う。

 困っている者へ駆け寄る時の、柔らかく、慣れた声だった。



「どうして来た。まだ休んでいなければ」


「だって」



 セシリア様は、涙をこらえるようにまつ毛を伏せた。



「わたくしのせいで、式が遅れていると聞いて……」



 遅れている。

 その言葉に、礼拝堂の空気がわずかに沈んだ。


 もう遅れているのではない。

 終わったのだ。

 延期ではなく、不成立として。



「セシリア様」



 私は彼女の名を呼んだ。

 彼女はびくりと肩を揺らし、私を見る。



「はい、アリシア様」


「今日が、私とディオン様の婚約式だとご存じでしたか」


「……はい」


「開始時刻も?」


「はい。でも」


「でも?」



 セシリア様は、ショールを握る手に力を込めた。



「朝から胸が苦しくて、不安で、どうしてもディオン様に来ていただきたくて」


「医師は呼びましたか」


「え?」


「ロイス男爵家の主治医を」


「呼ぼうとはしました。でも、わたくし、ディオン様のお声を聞けば落ち着くと思って」


「神殿医師は?」


「そこまでは」


「では、医師の診断より先に、ディオン様を呼んだのですね」



 セシリア様の唇が震えた。

 答えられないのではない。

 答えたくないのだろう。


 それでも沈黙は、時に答えになる。



「アリシア」



 ディオン様が私を責めるように呼んだ。



「彼女は本当に身体が弱いんだ。そんなふうに問い詰める必要は」


「ディオン様」



 私は彼を見た。



「ここは、私の婚約式だった場所です」



 彼の言葉が止まる。



「あなたが彼女を守りたいと思うこと自体を、責めてはいません」


「なら」


「けれど、そのために私を待たせてよい理由にはなりません」



 礼拝堂の奥で、公証人のペンが静かに動いている。

 今のやりとりも記録されている。


 ()()()だとか、()()だとかの話をする気はない。

 感情ではなく、事実。

 それが、私の背中を支えていた。



「セシリア・ロイス男爵令嬢」



 ヴィクトル様が口を開いた。

 その声に、セシリア様がさらに小さくなる。



「はい」


「あなたは本日、ディオン・ハーグレイヴ侯爵令息へ使いを出しましたね」


「……はい」


「内容は、ご自身の体調不安により、来てほしいというもの」


「はい」


「その時点で、ディオン令息が聖アリア神殿で正式婚約式を行う予定であることを知っていましたか」


「知っていました」


「婚約式の開始時刻も」


「……知っていました」


「医師の緊急診断は受けていない」


「はい」


「神殿への救急要請も出していない」


「はい」


「では、記録します」



 ヴィクトル様は、公証人へ視線を向けた。



「セシリア・ロイス男爵令嬢は、正式婚約式の時刻を知った上で、医師または神殿を通さず、私的にディオン・ハーグレイヴ侯爵令息を呼び出した」


「お待ちください!」



 セシリア様が、初めて少し大きな声を出した。



「わたくし、そんなつもりでは」


「つもりではなく、事実を記録しています」



 ヴィクトル様の声は変わらない。

 冷たいのではない。


 ただ、動かない。

 その動かなさが、今の場では必要だった。



「病弱であることを、責めているのではありません」



 ヴィクトル様は続けた。



「しかし、正式な婚約式当日に、医師でも神殿でもなく、誓約者本人を私的に呼び出したことは別の問題です」



 セシリア様の目から涙がこぼれた。

 ディオン様が反射的に動きかける。


 だが、ハーグレイヴ侯爵がその腕を離さなかった。



「父上」


「動くな」



 侯爵の声は、低く鋭かった。



「ここでまた彼女の方へ行けば、お前は本当に何も分かっていないことになる」



 ディオン様の顔が歪む。

 それでも、彼は動かなかった。

 そのことに、私は少しだけ胸の奥が痛んだ。


 もっと早く。

 もっと前に。

 彼がこうして一度でも立ち止まってくれていたら、違う未来もあったのかもしれない。


 でも、今それを考えても仕方がない。



「アリシア様」



 セシリア様が、涙声で私を呼んだ。



「わたくし、本当にあなたを困らせるつもりではなかったのです」


「ええ」


「わたくし、ただ怖くて」


「ええ」


「ディオン様がいないと、息ができないような気がして」


「それは、お辛かったでしょう」



 そう答えると、セシリア様の顔にわずかに安堵が浮かんだ。

 許されると思ったのかもしれない。

 私がまた、分かってくれると思ったのかもしれない。



「ですが」



 私は続けた。



「あなたが不安になるたびに、私は待たされました」



 セシリア様の表情が固まる。



「あなたが泣くたびに、私の予定は後ろへ下げられました」


「……」


「あなたがディオン様を呼ぶたびに、私はひとりで場を終えました」


「……」


「あなたに悪気がなかったとしても、私が待たされた事実は消えません」



 セシリア様は、今度こそ何も言えなかった。

 その涙を見ても、私の心はもう揺れなかった。

 可哀想だとは思う。


 でも、私の婚約式を返してほしいとは、もう思わない。

 返せるものではないからだ。



「アリシア」



 ディオン様が、かすれた声で言った。



「君は、ここまで思っていたのか」


「はい」


「なぜ、言ってくれなかった」



 その言葉に、私は少しだけ息を吐いた。

 なぜ。

 どうして。

 もっと早く。


 そう言われることは、何となく分かっていた。



「言いました」


「え?」


「王宮舞踏会のあと、次は最後までいてほしいと」


「……」


「両家の晩餐のあと、私の両親の前で席を立つのは控えてほしいと」


「……」


「王妃殿下への挨拶のあと、正式な場では事前に医師か家人を立ててほしいと」


「……」


「母の病後回復祝いの日、私にも大切な予定があるのだと」



 ディオン様の顔色が、少しずつ変わっていく。

 思い出しているのだろう。


 私の言葉を。

 そして、そのたびに自分がどう返したのかを。



「あなたは、毎回こうおっしゃいました」



 私は静かに告げた。



「君なら分かってくれると思った、と」



 礼拝堂が、重く静まった。

 その言葉は、優しいようでいて、ずっと私を縛っていた。


 分かってくれる。

 待ってくれる。

 怒らない。

 それは信頼ではなかった。

 都合のよい予測だった。



「私は」



 ディオン様は言った。



「君を、信頼していたんだ」


「いいえ」



 私は首を振った。



「あなたは、私を後回しにしても大丈夫な人だと思っていただけです」



 彼の唇が震える。

 ハーグレイヴ侯爵夫人が、口元を押さえた。


 私の母は、静かに目を伏せている。

 父は、何も言わない。

 言葉はもう、私自身で言うべきものだった。



「ディオン様」


「……何だ」


「私は、あなたを嫌っていたわけではありません」



 彼の目が、ほんの少しだけ揺れた。



「では」


「でも、嫌っていないことと、大切にされていることは違います」



 彼は黙った。

 私は続ける。



「あなたも、私を嫌っていたわけではないのでしょう」


「もちろんだ」


「けれど、大切にはしていませんでした」



 言葉にして、胸の奥が痛んだ。

 これは彼を傷つけるための言葉ではない。

 自分で自分の痛みを認めるための言葉だった。



「私は、今日それを確認しました」



 ディオン様が一歩近づきかける。

 けれど、ヴィクトル様が静かに手を上げた。

 それだけで、彼は止まった。



「アリシア」



 ディオン様は、今度は本当に弱い声で言った。



「やり直せないか」


「何をでしょう」


「婚約式を」


「いいえ」


「日を改めれば」


「いいえ」


「私は、次は必ず」


「いいえ」



 三度目の否定で、彼の言葉が止まる。

 私は彼をまっすぐ見た。



「婚約式は、私があなたを待てるか試すための場ではありません」


「そんなつもりでは」


「それでも、結果としてそうなりました」



 公証人のペンが走る。

 私はその音を聞きながら、これでよいと思った。


 言葉が残る。

 私の感情だけで消されない。



「君なら」



 ディオン様が、かすれた声で言った。

 私は、次の言葉を知っていた。

 何度も聞いたから。

 けれど、今度は最後まで聞くことにした。



「君なら、待っていてくれると思った」



 その言葉が、礼拝堂に落ちた。

 あまりにも聞き慣れた言葉。

 そして、今日で終わりにする言葉。


 私は微笑んだ。



「ええ」



 静かに答える。



「だから、今日まで待ちました」



 ディオン様の顔から、最後の希望が消えた。

 彼は、ようやく理解したのだと思う。


 今日私は、突然怒ったのではない。

 ずっと待った。

 何度も待った。

 言葉にし、飲み込み、また待った。


 その最後が今日だっただけだ。



「二度と待たない、という意味ではありません」



 私は続けた。



「誰かを待つこと自体は、悪いことではありませんから」



 ヴィクトル様が、わずかにこちらを見る。

 私は自分の言葉を確かめるように、ゆっくり言った。



「けれど、待つかどうかは、私が決めます」



 ディオン様は何も返せなかった。

 セシリア様も。

 ハーグレイヴ侯爵夫妻も。


 礼拝堂にいる誰も、しばらく言葉を発しなかった。



 沈黙を破ったのは、神殿医師の到着を知らせる女官だった。

 ロイス男爵邸へ向かう前に、まずセシリア様本人を診る必要があるという。


 当然だった。

 彼女は今、ここに来ているのだから。



「セシリア・ロイス令嬢」



 ヴィクトル様が言う。



「神殿医師の診察を受けてください」


「ここで、ですか」


「はい」


「でも」


「正式婚約式の不成立理由に関わる体調不良です。記録が必要です」



 セシリア様は、助けを求めるようにディオン様を見た。

 彼は動かなかった。


 いや、動けなかったのだろう。

 父である侯爵の手が、まだ彼を止めていたから。


 けれどそれだけではない。

 彼自身も、今ここでセシリア様のそばへ駆け寄ることが何を意味するのか、ようやく分かり始めていた。



「……分かりました」



 セシリア様は小さく答えた。



 神殿医師と女性神官が、彼女を側室へ案内する。

 その姿を見送りながら、私は初めて、深く息を吐いた。


 終わったわけではない。

 この後には、侯爵家への説明も、男爵家への確認も、王妃宮への報告もある。

 けれど、私の婚約式はもう終わった。


 成立しないまま。

 私の意思で。



「アリシア」



 父が私の名を呼んだ。

 私は顔を上げる。



「疲れただろう」


「少し」


「帰るか」


「いいえ」



 私は首を振った。



「最後まで記録を確認します」



 父は少しだけ目を細めた。

 母は、今度こそ泣きそうな顔をした。


 でも何も言わなかった。

 娘が自分の足で立とうとしているのを、止めないでくれているのだと思った。



 ヴィクトル様が近づいてきた。

 手には、不成立確認書の控えがある。



「アリシア・エルヴェイン公爵令嬢」


「はい」


「本日の婚約不成立確認書の控えです。正式登録は、王家婚姻登録院で本日中に行います」


「ありがとうございます」


「あなたに瑕疵なし、という記録も添えます」


「はい」


「それから」



 ヴィクトル様は、少しだけ間を置いた。



「あなたは、婚約式を壊したわけではありません」



 私は彼を見る。

 彼は、いつものように静かな目をしていた。



「出席しなかった者がいた。あなたは、それを正しい名前で記録しただけです」


「正しい名前」


「婚約不成立です」



 その言い方があまりにも事務的で、私は少しだけ笑ってしまった。


 礼拝堂で笑う場面ではない。

 分かっている。

 でも、どうしても少しだけ。



「ヴィクトル様」


「何でしょう」


「あなたは、慰めがあまりお上手ではありませんね」


「慰めたつもりはありません」


「では、なおさらです」



 ヴィクトル様の口元が、ほんのわずかに動いた。



「ですが、あなたは笑いました」


「少しだけ」


「なら、失敗ではないでしょう」


「そういう判断なのですか」


「記録には残しません」


「それは助かります」



 また少しだけ、呼吸が楽になった。


 この人は、私を可哀想な令嬢として扱わない。

 婚約者に置いていかれた女としても。


 ただ、今この場で何を選んだ人間なのかを見ている。

 それが、今はとてもありがたかった。



 側室の扉が開いたのは、それからしばらくしてからだった。

 神殿医師が、女性神官とともに戻ってくる。


 セシリア様はその後ろにいた。

 顔色は悪い。

 けれど、倒れるほどではない。

 医師はヴィクトル様へ一礼した。



「診断は」



 ヴィクトル様が問う。



「急性の発作ではありません」



 礼拝堂の空気が、また変わった。



「強い不安による過呼吸傾向は見られます。安静は必要です。ですが、命に関わる状態ではありませんでした」



 セシリア様の目が潤む。

 ディオン様は、顔を伏せた。

 ハーグレイヴ侯爵は、深く息を吐く。



「記録してください」



 ヴィクトル様が言う。



「セシリア・ロイス男爵令嬢の本日の体調不良は、急性の発作ではなく、強い不安による過呼吸傾向。命に関わる状態ではなし。神殿医師の診断により確認」



 公証人が記録する。

 そのペンの音は、今日のどんな言葉より残酷で、必要だった。


 セシリア様が、小さく言った。



「わたくし、本当に苦しかったのです」


「ええ」



 私は答えた。



「苦しかったことは、本当なのでしょう」



 彼女が顔を上げる。



「でも、その苦しさで、私の婚約式を止めてよい理由にはなりません」



 セシリア様は、また泣いた。

 けれど今度は、誰もすぐには駆け寄らなかった。

 それが、この場で初めて正しく引かれた線だった。


 ヴィクトル様が、礼拝堂全体へ向けて告げる。



「本日の婚約不成立確認は、以上をもって完了とします」



 神殿の鐘は鳴らなかった。


 婚約成立の鐘は、最後まで鳴らなかった。

 けれど、不思議と惨めではなかった。

 私はひとりで婚約式を終わらせた。


 けれど、ひとりで置き去りにされたわけではない。

 自分で、終わらせる時刻を選んだのだ。



 そのことだけは、確かだった。

読んでいただきありがとうございます。


本日はここまでです。

第四話は明日18:10に投稿予定です。


ここから、侯爵家・男爵家への正式な処理と、アリシアの次の立場へ進みます。

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