第二話 私は待合室へ来たのではありません
遅すぎた足音は、白い廊下を乱暴に叩くように近づいてきた。
神殿の大扉が開く。
扉の向こうに立っていたのは、ディオン・ハーグレイヴ様だった。
婚約式用の白い礼装。
乱れた前髪。
息の上がった胸。
そして、こちらを見つけた瞬間に浮かんだ、ほっとしたような表情。
まだ間に合うと思っている顔だった。
「アリシア」
彼は私の名を呼んだ。
「すまない。遅れた」
遅れた。
その一言で済むと思っているのだろう。
舞踏会の時も。
晩餐の時も。
王妃殿下への挨拶の時も。
いつも、彼はそうだった。
すまない。
遅れた。
でも仕方なかった。
そして私は、最後には頷いてきた。
けれど今日は違う。
今日だけは、もう違う。
私は署名台の横に立っていた。
青い縁取りの不成立確認書には、すでに封蝋が押されている。
立会神官の署名も、公証人の署名も、王家婚姻登録院の監督印もある。
つまり、それはもうただの紙ではない。
今日この場で、私とディオン様の正式婚約が成立しなかったという記録だった。
「アリシア?」
ディオン様の声に、少しだけ不安が混じる。
彼の視線が、署名台へ落ちた。
青い封蝋を見る。
立会神官を見る。
公証人を見る。
最後に、私を見る。
「それは何だ」
「婚約不成立確認書です」
「不成立?」
彼は、聞き慣れない言葉を聞いたような顔をした。
「なぜ、そんなものが」
「あなたが定刻にいらっしゃらなかったからです」
「だが、私は戻った」
「半刻を過ぎました」
「少しだろう」
少し。
また、その言葉だった。
少しだけ待ってほしい。
少しだけ彼女のそばにいたい。
少しだけ遅れる。
その少しが、私の時間から削られていくことを、この人は本当に考えたことがなかったのだろう。
「神殿規定では、半刻を過ぎれば延期または不成立確認へ移行します」
「なら、延期すればいい」
「延期は選びませんでした」
「なぜだ」
ディオン様の声が、少し荒くなる。
ハーグレイヴ侯爵夫人が青ざめた顔で立ち上がりかけ、侯爵がその手を制した。
私の父は黙っている。
母も、扇を握ったまま何も言わない。
ここで私が何を選ぶかを、両親は見ている。
止めようとはしない。
そのことが、どれほど心強いか、私はこの時になって初めて知った。
「私は今日、婚約式へ来ました」
私は言った。
「待合室へ来たのではありません」
礼拝堂が、静まり返った。
ディオン様の顔が強張る。
「何を言っている」
「あなたと正式な婚約を結ぶために来ました。両家も、神殿も、公証人も、王家婚姻登録院も、そのために揃いました」
「だから、今から」
「いいえ」
私は静かに首を振った。
「その時刻に、あなたはいませんでした」
「セシリアが苦しんでいたんだ」
「医師は?」
「何?」
「ロイス男爵家の医師は、あなたが行かなければ命に関わると診断なさったのですか」
「そこまでは」
「神殿医師へ連絡は?」
「アリシア、今はそういう話では」
「そういう話です」
声は荒げなかった。
でも、言葉だけははっきり置いた。
「正式な婚約式の時刻に誓約者が不在だった理由として、記録に残せるかどうかの話です」
ディオン様は言葉を詰まらせた。
彼は、たぶん初めて、自分の行動が感情ではなく記録として扱われていることに気づいたのだろう。
ヴィクトル・レオニス大公子が、一歩前へ出た。
王家婚姻登録院の監督官としての顔だった。
「ディオン・ハーグレイヴ侯爵令息」
「……はい」
「定刻より半刻を過ぎても、あなたは聖アリア神殿に到着していませんでした」
「事情が」
「事情の有無は、後ほど確認します」
ヴィクトル様の声は淡々としていた。
「現時点で確認されている事実は、あなたが正式婚約式の時刻に不在だったこと。アリシア・エルヴェイン公爵令嬢が延期ではなく不成立確認を選択したこと。立会神官、公証人、王家婚姻登録院監督官のもとで記録が完了したことです」
「だが、私は戻った」
「記録完了後です」
「そんな」
「婚約式は、戻ってきた者をいつまでも待つための儀式ではありません」
その言葉に、ハーグレイヴ侯爵夫人が小さく息を呑んだ。
ディオン様は、なおも納得できない顔で私を見る。
私はその視線を受け止めた。
以前なら、ここで揺れたと思う。
彼が困っている。
彼が傷ついている。
彼も悪気があったわけではない。
そう思って、私の方が先に折れていた。
でも今日は、違う。
「アリシア」
ディオン様は低く言った。
「君は、私がセシリアを見捨てればよかったと言うのか」
「いいえ」
「なら」
「セシリア様を案じるなら、医師を呼ぶべきでした」
「彼女は私を呼んだんだ」
「では、あなたは呼ばれたから行ったのですね」
「ああ」
「婚約式よりも」
ディオン様の口が止まる。
礼拝堂の空気が、少しだけ変わった。
「あなたは、選びました」
私は言った。
「セシリア様の不安と、私との婚約式。その二つが同じ時刻に重なった時、あなたはセシリア様を選びました」
「そんな言い方は」
「ほかに、どのような言い方がありますか」
彼は何も返せなかった。
私も、それ以上は言わなかった。
ここは責める場ではない。
婚約が成立しなかった事実を確認する場だ。
ハーグレイヴ侯爵が、重い足取りで前へ出た。
彼は息子を一度だけ見た。
その目には怒りよりも、深い失望があった。
「エルヴェイン公爵」
侯爵は、私の父へ深く頭を下げた。
「このたびは、当家の不手際により、貴家ならびにアリシア嬢へ多大な非礼を働いた」
父はすぐには答えなかった。
重い沈黙のあと、静かに口を開く。
「不手際というには、あまりに重い」
「承知している」
「娘は今日、婚約式へ来た。あなたの息子を待つためではない」
「……返す言葉もない」
ハーグレイヴ侯爵夫人が、涙をこらえるように口元を押さえた。
彼女もまた、私を責めることはできないと分かっているのだろう。
けれど、家の未来がこの場で大きく崩れたことも分かっている。
ディオン様は、両親の様子を見て、ようやく顔色を変えた。
自分だけの問題ではないのだと、今になって理解したようだった。
「父上」
「黙れ、ディオン」
侯爵の声は低かった。
「お前は今、婚約式に遅れたのではない。公爵家との正式婚約を成立させる場を、自分の意思で空けたのだ」
「私は、セシリアを」
「その名をここで盾にするな」
ディオン様が言葉を失う。
侯爵は続けた。
「病弱な令嬢を案じること自体は責めん。だが、正式婚約式の時刻を知っていながら、医師も神殿も通さず私的な呼び出しへ向かった。これは優しさではない」
侯爵は、そこで苦い声を落とした。
「責任から逃げただけだ」
ディオン様の顔が、明らかに歪んだ。
その言葉は、私が言うよりずっと深く彼に刺さったのだと思う。
ヴィクトル様が、公証人へ視線を向ける。
「記録を続けてください」
「はい」
公証人が新しい用紙を出した。
不成立確認後の経過記録。
冷たい名前だ。
けれど、今の私にはその冷たさがありがたい。
感情ではなく、事実として残る。
誰がいつ到着し、何を言い、どのような理由を述べたか。
それが後から書き換えられない形で残る。
「ディオン・ハーグレイヴ侯爵令息」
公証人が読み上げる。
「あなたは、定刻より半刻経過後、婚約不成立確認書の封蝋後に聖アリア神殿へ到着しました。相違ありませんか」
「……ありません」
「不在理由は、セシリア・ロイス男爵令嬢の体調不安により、ロイス男爵邸へ向かったため。相違ありませんか」
「ありません」
「医師または神殿を通じた緊急要請はありましたか」
「……ありません」
「以上を記録します」
ペンの音が、礼拝堂に響いた。
ディオン様は、その音を聞くたびに肩を強張らせていた。
たぶん今まで彼は、自分の行動がこのように書面になることを想像していなかったのだろう。
優しさ。
事情。
仕方がない。
その言葉で包んできたものが、今は一行ずつ分解されている。
「ロイス男爵家へ、神殿医師を派遣してください」
ヴィクトル様が言った。
「必要ですか」
立会神官が確認する。
「必要です。正式婚約式の誓約者が不在となった理由が、令嬢の急な体調不良である以上、緊急性の有無を確認します」
「承知しました」
ディオン様が顔を上げた。
「セシリアを疑うのですか」
「確認するのです」
ヴィクトル様は淡々と答えた。
「病であれば医師が必要です。不安であれば、今後同じことを繰り返さないために記録が必要です」
「彼女は繊細なんだ」
「繊細さは、記録を避ける理由にはなりません」
その一言に、ディオン様はまた黙った。
私は、ヴィクトル様を少しだけ見た。
この人は、誰の感情にも溺れない。
私の悲しみにも。
ディオン様の焦りにも。
セシリア様の病弱さにも。
ただ、何が起きたのかを見て、必要な形へ落としこむ。
それだけのことが、今はやけに心強かった。
ハーグレイヴ侯爵夫人が、ようやく私へ向き直った。
「アリシア様」
「はい」
「本当に、延期ではいけませんか」
その声は、母親としての声だった。
侯爵家の夫人ではなく、息子の未来が崩れるのを止めたい人の声。
だからこそ、私は少しだけ胸が痛んだ。
「夫人」
「はい」
「もし今日が初めてなら、私は延期を選んだかもしれません」
夫人の唇が震える。
私は続けた。
「ですが、これは今日だけのことではありません」
「……」
「舞踏会も、晩餐も、王妃殿下への挨拶も、何度も同じことがありました。そのたびに、私は待ちました」
ディオン様が、かすかに息を呑んだ。
自分では忘れていたのかもしれない。
私が一つずつ覚えていることを、考えていなかったのかもしれない。
「今日は、婚約式でした」
私は言った。
「これ以上待てば、私は自分で自分の時間を軽んじることになります」
侯爵夫人は、何も言えなかった。
ただ、深く目を伏せた。
それが謝罪なのか、諦めなのかは分からない。
でも、もう説得ではなかった。
父が私の横へ来た。
大きな手が、ほんの少しだけ私の背へ添えられる。
子どもの頃、転びかけた時に支えてくれた時と同じ距離だった。
「アリシア」
「はい、お父様」
「よく言った」
たったそれだけの言葉で、目の奥が熱くなった。
式の間、私は泣かなかった。
ここでも泣かない。
でも、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
「エルヴェイン公爵家としても、婚約不成立確認を受け入れる」
父は礼拝堂へ向けて告げた。
「娘アリシアに瑕疵はない。この点について、王家婚姻登録院および神殿の記録を求める」
「記録します」
ヴィクトル様が即答した。
「本日の婚約不成立は、ディオン・ハーグレイヴ侯爵令息の式不在によるもの。アリシア・エルヴェイン公爵令嬢には瑕疵なし」
公証人のペンが走る。
私はその音を聞きながら、初めて深く息を吸えた。
瑕疵なし。
その言葉は、慰めではない。
でも、私を守る言葉だった。
「アリシア」
ディオン様が、もう一度私の名を呼んだ。
今度の声は、先ほどよりずっと弱い。
「私は、君を傷つけるつもりはなかった」
「そうでしょうね」
「なら」
「でも、傷つけるつもりがなければ傷つかない、ということにはなりません」
彼は言葉を失った。
私は、ゆっくり続ける。
「あなたは毎回、私なら分かってくれると思ったのでしょう」
「……」
「私なら待つと」
「……」
「私なら怒らないと」
ディオン様は、ついに視線を落とした。
「そうかもしれない」
「では、今日で終わりです」
その言葉は、自分で思っていたより静かだった。
「私は、もう待ちません」
礼拝堂の外から、遠く小さな足音が近づいてくる。
神殿医師を呼びに行った者ではない。
女官の足音でもない。
もっと細く、急いでいるのにどこか頼りない足音。
扉の向こうで、誰かが止まった。
女官が小さく告げる。
「ロイス男爵令嬢が、お越しです」
ディオン様が顔を上げた。
その動きは反射のようだった。
私ではなく、扉の向こうを見た。
その一瞬で、私は最後に残っていた迷いまで消えていくのを感じた。
ああ。
この人は、まだそちらを見るのだ。
扉が開く。
白いショールをまとった、細い少女が立っていた。
セシリア・ロイス男爵令嬢。
侍女に支えられ、目元に涙を浮かべ、今にも倒れそうな顔をしている。
とはいえ、自分の足で神殿まで来るだけの体力はあるらしい。
彼女の体調を心配する思いもあったが、爽健そうでなによりだ。
「ディオン様」
彼女は震える声で呼んだ。
ディオン様は、一歩動きかけた。
けれど、ハーグレイヴ侯爵がその腕を掴んだ。
ヴィクトル様の視線が、静かに二人を止める。
礼拝堂は、再び重い沈黙に包まれた。
そしてディオン様は、私が二年かけて一番聞き飽きた言葉を、今にも口にしようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
第三話は19:10に投稿予定です。
セシリア登場と、ディオンの言葉の決着に入ります。
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