表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約者がまた病弱な幼なじみのお見舞いへ行ったので、婚約式は私ひとりで終わらせました【連載版】  作者: 本城オブリゲータ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/6

第一話 婚約式の鐘が鳴る時刻に、彼はいませんでした

※短編「婚約者がまた病弱な幼なじみのお見舞いへ行ったので、婚約式は私ひとりで終わらせました」を加筆・再構成した連載版です。


短編未読でも読めるように進めます。


まずは第一章完結まで更新予定です。

 婚約式の鐘が鳴るはずの時刻に、私の婚約者になるはずだった人は、神殿にいなかった。



 聖アリア神殿の控え廊下は、白い石でできている。

 磨かれた床は、足音をよく響かせる。

 だから、誰かが来ればすぐに分かる。


 けれど、式の開始を告げる小鐘が一度鳴り、参列者たちのざわめきが扉の向こうで静まっても、私が待っている足音は聞こえなかった。


 婚約式のために整えられた白い廊下。

 両家の紋章が入った花飾り。

 署名台に置かれた誓約書。

 立会神官、公証人、王家婚姻登録院の監督官。


 すべてが揃っている。


 揃っていないのは、ただ一人。

 ディオン・ハーグレイヴ侯爵令息。


 私と正式な婚約を結ぶはずだった人だった。



「アリシア様」



 王妃宮の女官長ミレーヌが、静かな声で私を呼んだ。


 彼女は王妃殿下の命により、今日の婚約式の進行確認に立ち会っている。

 感情を表に出さない方だが、今はほんの少しだけ目元が硬い。



「時刻です」


「ええ」



 私は答えた。

 声は震えなかった。

 震えないようにしたのではない。


 たぶん、震える時期はもう過ぎていたのだと思う。

 今日が初めてではなかったから。



 私は、待たされることに慣れてしまっていた。



 扉の向こうには、私の父であるエルヴェイン公爵がいる。

 母もいる。

 ハーグレイヴ侯爵夫妻もいる。

 両家の親族、神殿関係者、王家婚姻登録院の職員まで揃っている。


 この婚約式は、ただの私的な約束ではない。

 貴族婚約には、二つの段階がある。


 まず、両家が取り交わす婚約内約。

 これは家同士の合意であり、社交上は婚約者として扱われる。


 そして次に、神殿で行う正式な婚約式。

 本人同士が出席し、立会神官と公証人の前で誓約書に署名し、王家婚姻登録院へ登録される。


 私とディオン様は、前者までは済ませていた。

 だから王都では、すでに婚約者として見られていた。


 けれど、法的な正式婚約は今日の式で成立する予定だった。

 つまり、今日この場に彼が来なければ。

 私たちは、まだ正式な婚約者にはならない。



「神殿規定では、誓約者の一方が定刻に不在の場合、半刻までは待機できます」



 ミレーヌ女官長が言う。



「半刻を過ぎれば、延期または不成立確認へ移行します」


「存じています」


「延期には、両家および本人双方の同意が必要です」


「はい」


「不成立確認には、不在でない側の意思表示と、公証人の記録が必要です」


「はい」



 私は頷いた。

 その規定は、昨日読み返した。


 いいえ。

 昨日だけではない。


 この婚約式が決まってから、何度も確認していた。

 そういう性格なのだと、人は言う。

 公爵令嬢らしい慎重さだと、母は微笑む。


 けれど本当は少し違う。

 私は、どこまで待てばよいのかを、規定の中に探していたのだ。



 ディオン様は優しい人だった。

 それは間違いない。


 困っている人を見捨てられない。

 弱っている人の声を、無視できない。


 その優しさに、私はかつて惹かれていたのだと思う。


 けれど、優しさは、向ける先を間違えれば誰かを置き去りにする。

 そのことを、私はこの二年で知った。



 一度目は、王宮舞踏会だった。


 初めて二人そろって王妃殿下へ挨拶する夜。

 ディオン様は途中で帰った。

 幼なじみのセシリア・ロイス男爵令嬢が発熱したという知らせが届いたからだ。



 二度目は、両家の晩餐だった。

 セシリア様が夜に強い不安を訴えたという使いが来て、彼は食後の挨拶を待たずに席を立った。



 三度目は、観劇の日。

 四度目は、慈善市。

 五度目は、王妃殿下への正式挨拶の打ち合わせ。

 六度目は、私の母の病後回復祝い。

 七度目は、私の妹の成人祝い。


 数えるのをやめたのは、十度を過ぎた頃だった。

 数えなくなったのではない。

 数えたくなくなっただけだ。


 それでも、私の中には一つずつ残っている。

 白い手袋のまま冷めていった紅茶。

 ひとりで踊らなかった舞踏会の隅。


 父の向かいで空席になった晩餐の椅子。


 王妃宮の控え室で、二刻待った夜。

 そして、そのたびにディオン様が言った言葉。



「君なら分かってくれると思った」



 分かっていた。

 セシリア様が病弱であることは、彼女の罪ではない。


 不安になる夜があることも、きっと本当なのだろう。

 幼い頃から共にいた相手に頼りたくなる気持ちも、理解できないわけではない。


 けれど、分かることと、待ち続けることは違う。

 私は、今日それを確かめるために来たのかもしれなかった。



 控え廊下の向こうから、足早な音がした。


 私ではなく、ミレーヌ女官長が先に顔を上げる。

 現れたのは、ディオン様本人ではなかった。

 ハーグレイヴ家の従者だった。


 彼は礼装のまま、顔色を失っている。

 その手には、封をされた短い伝言があった。



「エルヴェイン公爵令嬢」



 従者は深く頭を下げた。



「ディオン様より、急ぎの伝言でございます」


「読み上げてください」



 私は封に手を伸ばさなかった。

 触れたくなかったのだと思う。

 従者は一瞬ためらい、それから封を開けた。



「セシリア様が強く不安を訴えられ、呼吸が乱れておいでです。ディオン様は、ロイス男爵邸へ向かわれました。落ち着かれ次第、すぐ神殿へ戻られるとのことです。アリシア様には、どうか少しだけお待ちいただきたい、と」



 少しだけ。

 その言葉が、白い廊下に落ちた。

 軽い言葉だ。


 けれど、何度も重ねられれば、人の時間を削るには十分な重さになる。



「医師は」


「え?」


「ロイス男爵家の主治医は、ディオン様が行かなければ命に関わると診断なさったのですか」


「そ、それは」


「神殿医師へ連絡は」


「存じ上げません」


「そうですか」



 私は頷いた。



「伝言は受け取りました」



 従者は、ほっとしたような顔をした。

 私がいつものように待つと思ったのだろう。


 困った顔をして、少しだけ目を伏せて、それでも最終的には許すと思ったのだろう。

 たぶん、ディオン様も同じように考えている。


 私なら待つ。

 私なら分かる。

 私なら、今日も自分の時間を後ろへ下げる。

 でも。



 今日は、婚約式だった。



 私は、扉の方へ目を向けた。

 向こうには、参列者が待っている。

 父も、母も、ハーグレイヴ侯爵夫妻も、王家婚姻登録院の監督官も。

 そして、誓約書がある。


 婚約式は、待つためのものではない。

 相手の時間に、自分も出席するためのものだ。



「ミレーヌ女官長」


「はい」


「立会神官と公証人、それから登録院の監督官へお伝えください」



 私は、ゆっくり息を吸った。

 これを言えば、もう戻れない。

 けれど、戻りたい場所など、もう残っていなかった。



「定刻より半刻まで、規定どおり待機します」


「承知いたしました」


「半刻を過ぎてもディオン様が不在であれば、延期ではなく、不成立確認へ移ります」



 従者が息を呑んだ。



「アリシア様、それは」


「あなたへの伝言ではありません」



 私は静かに言った。



「ハーグレイヴ家の正式な使者であれば、立会神官の前で記録を受けてください。ただの従者として伝言を届けに来たのであれば、これ以上の発言は不要です」



 従者は顔を白くして、深く頭を下げた。

 ミレーヌ女官長がすぐに別の女官へ合図を出す。


 動きは早かった。

 王妃宮は無能ではない。

 神殿も、婚姻登録院も、手続きを知らないわけではない。


 ただ、これまでは私が待つことで、手続きが動く前にすべてが曖昧になっていただけだった。



 半刻。

 長い時間ではない。

 けれど、待つには十分長い。


 私は控え廊下の椅子に座った。

 母が選んでくれた白い婚約式用のドレスが、膝の上で静かに広がる。


 袖口には小さな銀糸。

 胸元にはエルヴェイン公爵家の真珠。

 花嫁衣装ではない。

 婚約式のための、清楚で控えめな白だった。


 この服を着るために、私は朝から何度も鏡の前に立った。


 侍女たちは嬉しそうだった。

 母は、少し泣きそうな顔で髪飾りを挿してくれた。

 父は不器用に「よく似合う」と言った。

 それらを思い出すと、胸が痛んだ。



 私は何を失っているのだろう。


 ディオン様だろうか。

 ハーグレイヴ家との縁だろうか。

 今日の式だろうか。

 それとも、何度も待てばいつか報われると思っていた、昔の自分だろうか。



 廊下の端に、ひとりの男性が立っている。


 深い紺の礼装。

 銀の飾り紐。

 静かな灰青の目。

 王家婚姻登録院の監督官として出席している、ヴィクトル・レオニス大公子だった。


 レオニス大公家の次男。


 王家の婚姻登録や神殿式の不備を監督する立場にある方で、王妃殿下の甥でもある。

 私はこれまで、数度しか言葉を交わしたことがない。

 けれど彼は、こちらを憐れむ目では見ていなかった。


 怒ってもいない。

 気の毒がってもいない。

 ただ、何が起き、誰が何を選ぶのかを見ている。


 その目が、今の私にはありがたかった。



「アリシア・エルヴェイン公爵令嬢」



 ヴィクトル様が、こちらへ一歩だけ近づいた。

 近すぎない距離で止まる。



「確認します」


「はい」


「あなたは、半刻後に不成立確認へ移行する意思を示しました」


「はい」


「これは、感情的な拒絶ではなく、神殿規定および王家婚姻登録院規定に基づく意思表示ですね」


「はい」


「延期ではなく、不成立確認を選ぶ理由を聞いてもよいでしょうか」



 私は少しだけ目を伏せた。

 理由。

 たくさんある。


 数えきれないほどある。

 けれど、公的な場で残すべき理由は一つだった。



「誓約者本人が、婚約式の時刻に出席していないためです」


「よろしい」



 ヴィクトル様は頷いた。



「私情ではなく、記録に残せる理由です」


「記録に残せない理由も、あります」


「でしょうね」



 その返答が、あまりにも淡々としていたので、私は思わず顔を上げた。

 ヴィクトル様は続ける。



「ですが、今あなたを守るのは、記録に残せる理由です」



 胸の奥が、少しだけ震えた。

 慰めではない。

 優しい言葉でもない。


 けれど、今の私に必要な言葉だった。



「ありがとうございます」


「礼は、まだ早い」


「はい」


「半刻後までに彼が戻れば、あなたには改めて選ぶ権利があります」


「戻らなければ」


「あなたがすでに示した意思どおり、不成立確認へ移ります」


「分かりました」


「それから」



 ヴィクトル様は、ほんの少しだけ声を低めた。



「あなたは、待たされているのではありません」



 私は瞬きをした。



「今は、規定上の待機時間を使っているだけです」



 その言い方に、少しだけ笑いそうになった。

 待たされているのではない。

 待機時間を使っているだけ。


 あまりにも事務的で、けれどひどく正確だった。



「では、私はこの半刻を、私の意思で使っているのですね」


「その通りです」


「そう考えると、少し楽です」


「なら、そう記録しておきましょうか」


「それは困ります」


「では、私の記憶にだけ」


「それも少し困ります」



 ヴィクトル様の口元が、わずかに動いた。

 笑ったのかもしれない。

 ほんの一瞬で、すぐに監督官の顔へ戻ったけれど。



 半刻は、静かに過ぎていった。

 扉の向こうからは、ときおり低い声が聞こえる。

 ハーグレイヴ侯爵夫人の不安げな声。


 父の抑えた声。

 立会神官の説明。

 誰も大声を出していない。

 それが、かえって式の重さを示していた。



 小鐘が二度鳴った。

 半刻が過ぎた合図だった。

 ディオン様の足音は、まだ聞こえない。


 ミレーヌ女官長が、私の前へ進み出る。



「アリシア様。規定の待機時間を過ぎました」


「はい」


「改めて、ご意思を確認いたします」



 私は立ち上がった。

 白いドレスの裾が、石床の上でかすかに鳴る。



「本日の婚約式は行いません」



 声は、静かだった。

 自分でも驚くほど。



「婚約不成立の確認をお願いいたします」



 ミレーヌ女官長が深く一礼する。

 ヴィクトル様が公証人へ合図を出す。

 立会神官が、神殿の扉を開いた。


 その向こうに、両家と参列者が待っている。

 私の父は立ち上がっていた。

 母は扇を強く握っている。

 ハーグレイヴ侯爵夫妻の顔は、青ざめていた。



 私は、その中へ歩き出した。

 婚約式のためではない。

 終わらせるために。



 祭壇の前には、署名台がある。

 本来なら、そこに私とディオン様が並び、誓約書へ署名するはずだった。

 けれど、署名台の上には別の書面が用意されていた。


 青い縁取りの紙。

 婚約不成立確認書。



 公証人が、静かな声で読み上げる。



「アリシア・エルヴェイン公爵令嬢。本日、聖アリア神殿において、ディオン・ハーグレイヴ侯爵家嫡男との正式婚約式を執り行う予定であったこと」


「はい」


「定刻より半刻を過ぎても、相手方誓約者が不在であること」


「はい」


「延期ではなく、婚約不成立として記録することを望むこと」


「はい」


「以上に相違ありませんか」


「ありません」



 ペンが差し出される。

 私は白い手袋を外した。

 素手でペンを取る。


 指先が少しだけ冷たい。

 けれど震えてはいない。



 アリシア・エルヴェイン。



 まだハーグレイヴではない名。

 そして、これからもハーグレイヴにはならない名。

 私はその名を、ゆっくりと書いた。



 公証人が確認し、立会神官が署名する。

 ヴィクトル様が監督官として記録欄へ印を入れる。

 最後に、青い封蝋が押された。


 音は小さかった。

 けれど、その音で何かが確かに終わった。



 私は深く息を吐いた。

 その瞬間、胸の奥が鋭く痛んだ。


 悲しくないわけではない。

 悔しくないわけでもない。


 今日のために整えたドレスも、母の髪飾りも、父の言葉も。

 全部、婚約式のためのものだった。

 それを自分の手で不成立に変えたのだから、痛くないはずがない。



 でも。

 私はもう、空席の隣で待つためにここへ来たのではなかった。



 神殿の大扉の向こうで、慌ただしい足音が響いた。

 誰かが息を切らして走ってくる音。

 白い廊下に響く、遅すぎた足音。


 私は振り向かなかった。


 まだ、振り向く必要はない。



 なぜなら、手続きはもう終わっていたからだ。

読んでいただきありがとうございます。


短編版とは一部展開を加筆・再構成しています。

本日は第三話まで投稿予定です。


面白ければ、ブックマークや評価で応援いただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ