第一話 婚約式の鐘が鳴る時刻に、彼はいませんでした
※短編「婚約者がまた病弱な幼なじみのお見舞いへ行ったので、婚約式は私ひとりで終わらせました」を加筆・再構成した連載版です。
短編未読でも読めるように進めます。
まずは第一章完結まで更新予定です。
婚約式の鐘が鳴るはずの時刻に、私の婚約者になるはずだった人は、神殿にいなかった。
聖アリア神殿の控え廊下は、白い石でできている。
磨かれた床は、足音をよく響かせる。
だから、誰かが来ればすぐに分かる。
けれど、式の開始を告げる小鐘が一度鳴り、参列者たちのざわめきが扉の向こうで静まっても、私が待っている足音は聞こえなかった。
婚約式のために整えられた白い廊下。
両家の紋章が入った花飾り。
署名台に置かれた誓約書。
立会神官、公証人、王家婚姻登録院の監督官。
すべてが揃っている。
揃っていないのは、ただ一人。
ディオン・ハーグレイヴ侯爵令息。
私と正式な婚約を結ぶはずだった人だった。
「アリシア様」
王妃宮の女官長ミレーヌが、静かな声で私を呼んだ。
彼女は王妃殿下の命により、今日の婚約式の進行確認に立ち会っている。
感情を表に出さない方だが、今はほんの少しだけ目元が硬い。
「時刻です」
「ええ」
私は答えた。
声は震えなかった。
震えないようにしたのではない。
たぶん、震える時期はもう過ぎていたのだと思う。
今日が初めてではなかったから。
私は、待たされることに慣れてしまっていた。
扉の向こうには、私の父であるエルヴェイン公爵がいる。
母もいる。
ハーグレイヴ侯爵夫妻もいる。
両家の親族、神殿関係者、王家婚姻登録院の職員まで揃っている。
この婚約式は、ただの私的な約束ではない。
貴族婚約には、二つの段階がある。
まず、両家が取り交わす婚約内約。
これは家同士の合意であり、社交上は婚約者として扱われる。
そして次に、神殿で行う正式な婚約式。
本人同士が出席し、立会神官と公証人の前で誓約書に署名し、王家婚姻登録院へ登録される。
私とディオン様は、前者までは済ませていた。
だから王都では、すでに婚約者として見られていた。
けれど、法的な正式婚約は今日の式で成立する予定だった。
つまり、今日この場に彼が来なければ。
私たちは、まだ正式な婚約者にはならない。
「神殿規定では、誓約者の一方が定刻に不在の場合、半刻までは待機できます」
ミレーヌ女官長が言う。
「半刻を過ぎれば、延期または不成立確認へ移行します」
「存じています」
「延期には、両家および本人双方の同意が必要です」
「はい」
「不成立確認には、不在でない側の意思表示と、公証人の記録が必要です」
「はい」
私は頷いた。
その規定は、昨日読み返した。
いいえ。
昨日だけではない。
この婚約式が決まってから、何度も確認していた。
そういう性格なのだと、人は言う。
公爵令嬢らしい慎重さだと、母は微笑む。
けれど本当は少し違う。
私は、どこまで待てばよいのかを、規定の中に探していたのだ。
ディオン様は優しい人だった。
それは間違いない。
困っている人を見捨てられない。
弱っている人の声を、無視できない。
その優しさに、私はかつて惹かれていたのだと思う。
けれど、優しさは、向ける先を間違えれば誰かを置き去りにする。
そのことを、私はこの二年で知った。
一度目は、王宮舞踏会だった。
初めて二人そろって王妃殿下へ挨拶する夜。
ディオン様は途中で帰った。
幼なじみのセシリア・ロイス男爵令嬢が発熱したという知らせが届いたからだ。
二度目は、両家の晩餐だった。
セシリア様が夜に強い不安を訴えたという使いが来て、彼は食後の挨拶を待たずに席を立った。
三度目は、観劇の日。
四度目は、慈善市。
五度目は、王妃殿下への正式挨拶の打ち合わせ。
六度目は、私の母の病後回復祝い。
七度目は、私の妹の成人祝い。
数えるのをやめたのは、十度を過ぎた頃だった。
数えなくなったのではない。
数えたくなくなっただけだ。
それでも、私の中には一つずつ残っている。
白い手袋のまま冷めていった紅茶。
ひとりで踊らなかった舞踏会の隅。
父の向かいで空席になった晩餐の椅子。
王妃宮の控え室で、二刻待った夜。
そして、そのたびにディオン様が言った言葉。
「君なら分かってくれると思った」
分かっていた。
セシリア様が病弱であることは、彼女の罪ではない。
不安になる夜があることも、きっと本当なのだろう。
幼い頃から共にいた相手に頼りたくなる気持ちも、理解できないわけではない。
けれど、分かることと、待ち続けることは違う。
私は、今日それを確かめるために来たのかもしれなかった。
控え廊下の向こうから、足早な音がした。
私ではなく、ミレーヌ女官長が先に顔を上げる。
現れたのは、ディオン様本人ではなかった。
ハーグレイヴ家の従者だった。
彼は礼装のまま、顔色を失っている。
その手には、封をされた短い伝言があった。
「エルヴェイン公爵令嬢」
従者は深く頭を下げた。
「ディオン様より、急ぎの伝言でございます」
「読み上げてください」
私は封に手を伸ばさなかった。
触れたくなかったのだと思う。
従者は一瞬ためらい、それから封を開けた。
「セシリア様が強く不安を訴えられ、呼吸が乱れておいでです。ディオン様は、ロイス男爵邸へ向かわれました。落ち着かれ次第、すぐ神殿へ戻られるとのことです。アリシア様には、どうか少しだけお待ちいただきたい、と」
少しだけ。
その言葉が、白い廊下に落ちた。
軽い言葉だ。
けれど、何度も重ねられれば、人の時間を削るには十分な重さになる。
「医師は」
「え?」
「ロイス男爵家の主治医は、ディオン様が行かなければ命に関わると診断なさったのですか」
「そ、それは」
「神殿医師へ連絡は」
「存じ上げません」
「そうですか」
私は頷いた。
「伝言は受け取りました」
従者は、ほっとしたような顔をした。
私がいつものように待つと思ったのだろう。
困った顔をして、少しだけ目を伏せて、それでも最終的には許すと思ったのだろう。
たぶん、ディオン様も同じように考えている。
私なら待つ。
私なら分かる。
私なら、今日も自分の時間を後ろへ下げる。
でも。
今日は、婚約式だった。
私は、扉の方へ目を向けた。
向こうには、参列者が待っている。
父も、母も、ハーグレイヴ侯爵夫妻も、王家婚姻登録院の監督官も。
そして、誓約書がある。
婚約式は、待つためのものではない。
相手の時間に、自分も出席するためのものだ。
「ミレーヌ女官長」
「はい」
「立会神官と公証人、それから登録院の監督官へお伝えください」
私は、ゆっくり息を吸った。
これを言えば、もう戻れない。
けれど、戻りたい場所など、もう残っていなかった。
「定刻より半刻まで、規定どおり待機します」
「承知いたしました」
「半刻を過ぎてもディオン様が不在であれば、延期ではなく、不成立確認へ移ります」
従者が息を呑んだ。
「アリシア様、それは」
「あなたへの伝言ではありません」
私は静かに言った。
「ハーグレイヴ家の正式な使者であれば、立会神官の前で記録を受けてください。ただの従者として伝言を届けに来たのであれば、これ以上の発言は不要です」
従者は顔を白くして、深く頭を下げた。
ミレーヌ女官長がすぐに別の女官へ合図を出す。
動きは早かった。
王妃宮は無能ではない。
神殿も、婚姻登録院も、手続きを知らないわけではない。
ただ、これまでは私が待つことで、手続きが動く前にすべてが曖昧になっていただけだった。
半刻。
長い時間ではない。
けれど、待つには十分長い。
私は控え廊下の椅子に座った。
母が選んでくれた白い婚約式用のドレスが、膝の上で静かに広がる。
袖口には小さな銀糸。
胸元にはエルヴェイン公爵家の真珠。
花嫁衣装ではない。
婚約式のための、清楚で控えめな白だった。
この服を着るために、私は朝から何度も鏡の前に立った。
侍女たちは嬉しそうだった。
母は、少し泣きそうな顔で髪飾りを挿してくれた。
父は不器用に「よく似合う」と言った。
それらを思い出すと、胸が痛んだ。
私は何を失っているのだろう。
ディオン様だろうか。
ハーグレイヴ家との縁だろうか。
今日の式だろうか。
それとも、何度も待てばいつか報われると思っていた、昔の自分だろうか。
廊下の端に、ひとりの男性が立っている。
深い紺の礼装。
銀の飾り紐。
静かな灰青の目。
王家婚姻登録院の監督官として出席している、ヴィクトル・レオニス大公子だった。
レオニス大公家の次男。
王家の婚姻登録や神殿式の不備を監督する立場にある方で、王妃殿下の甥でもある。
私はこれまで、数度しか言葉を交わしたことがない。
けれど彼は、こちらを憐れむ目では見ていなかった。
怒ってもいない。
気の毒がってもいない。
ただ、何が起き、誰が何を選ぶのかを見ている。
その目が、今の私にはありがたかった。
「アリシア・エルヴェイン公爵令嬢」
ヴィクトル様が、こちらへ一歩だけ近づいた。
近すぎない距離で止まる。
「確認します」
「はい」
「あなたは、半刻後に不成立確認へ移行する意思を示しました」
「はい」
「これは、感情的な拒絶ではなく、神殿規定および王家婚姻登録院規定に基づく意思表示ですね」
「はい」
「延期ではなく、不成立確認を選ぶ理由を聞いてもよいでしょうか」
私は少しだけ目を伏せた。
理由。
たくさんある。
数えきれないほどある。
けれど、公的な場で残すべき理由は一つだった。
「誓約者本人が、婚約式の時刻に出席していないためです」
「よろしい」
ヴィクトル様は頷いた。
「私情ではなく、記録に残せる理由です」
「記録に残せない理由も、あります」
「でしょうね」
その返答が、あまりにも淡々としていたので、私は思わず顔を上げた。
ヴィクトル様は続ける。
「ですが、今あなたを守るのは、記録に残せる理由です」
胸の奥が、少しだけ震えた。
慰めではない。
優しい言葉でもない。
けれど、今の私に必要な言葉だった。
「ありがとうございます」
「礼は、まだ早い」
「はい」
「半刻後までに彼が戻れば、あなたには改めて選ぶ権利があります」
「戻らなければ」
「あなたがすでに示した意思どおり、不成立確認へ移ります」
「分かりました」
「それから」
ヴィクトル様は、ほんの少しだけ声を低めた。
「あなたは、待たされているのではありません」
私は瞬きをした。
「今は、規定上の待機時間を使っているだけです」
その言い方に、少しだけ笑いそうになった。
待たされているのではない。
待機時間を使っているだけ。
あまりにも事務的で、けれどひどく正確だった。
「では、私はこの半刻を、私の意思で使っているのですね」
「その通りです」
「そう考えると、少し楽です」
「なら、そう記録しておきましょうか」
「それは困ります」
「では、私の記憶にだけ」
「それも少し困ります」
ヴィクトル様の口元が、わずかに動いた。
笑ったのかもしれない。
ほんの一瞬で、すぐに監督官の顔へ戻ったけれど。
半刻は、静かに過ぎていった。
扉の向こうからは、ときおり低い声が聞こえる。
ハーグレイヴ侯爵夫人の不安げな声。
父の抑えた声。
立会神官の説明。
誰も大声を出していない。
それが、かえって式の重さを示していた。
小鐘が二度鳴った。
半刻が過ぎた合図だった。
ディオン様の足音は、まだ聞こえない。
ミレーヌ女官長が、私の前へ進み出る。
「アリシア様。規定の待機時間を過ぎました」
「はい」
「改めて、ご意思を確認いたします」
私は立ち上がった。
白いドレスの裾が、石床の上でかすかに鳴る。
「本日の婚約式は行いません」
声は、静かだった。
自分でも驚くほど。
「婚約不成立の確認をお願いいたします」
ミレーヌ女官長が深く一礼する。
ヴィクトル様が公証人へ合図を出す。
立会神官が、神殿の扉を開いた。
その向こうに、両家と参列者が待っている。
私の父は立ち上がっていた。
母は扇を強く握っている。
ハーグレイヴ侯爵夫妻の顔は、青ざめていた。
私は、その中へ歩き出した。
婚約式のためではない。
終わらせるために。
祭壇の前には、署名台がある。
本来なら、そこに私とディオン様が並び、誓約書へ署名するはずだった。
けれど、署名台の上には別の書面が用意されていた。
青い縁取りの紙。
婚約不成立確認書。
公証人が、静かな声で読み上げる。
「アリシア・エルヴェイン公爵令嬢。本日、聖アリア神殿において、ディオン・ハーグレイヴ侯爵家嫡男との正式婚約式を執り行う予定であったこと」
「はい」
「定刻より半刻を過ぎても、相手方誓約者が不在であること」
「はい」
「延期ではなく、婚約不成立として記録することを望むこと」
「はい」
「以上に相違ありませんか」
「ありません」
ペンが差し出される。
私は白い手袋を外した。
素手でペンを取る。
指先が少しだけ冷たい。
けれど震えてはいない。
アリシア・エルヴェイン。
まだハーグレイヴではない名。
そして、これからもハーグレイヴにはならない名。
私はその名を、ゆっくりと書いた。
公証人が確認し、立会神官が署名する。
ヴィクトル様が監督官として記録欄へ印を入れる。
最後に、青い封蝋が押された。
音は小さかった。
けれど、その音で何かが確かに終わった。
私は深く息を吐いた。
その瞬間、胸の奥が鋭く痛んだ。
悲しくないわけではない。
悔しくないわけでもない。
今日のために整えたドレスも、母の髪飾りも、父の言葉も。
全部、婚約式のためのものだった。
それを自分の手で不成立に変えたのだから、痛くないはずがない。
でも。
私はもう、空席の隣で待つためにここへ来たのではなかった。
神殿の大扉の向こうで、慌ただしい足音が響いた。
誰かが息を切らして走ってくる音。
白い廊下に響く、遅すぎた足音。
私は振り向かなかった。
まだ、振り向く必要はない。
なぜなら、手続きはもう終わっていたからだ。
読んでいただきありがとうございます。
短編版とは一部展開を加筆・再構成しています。
本日は第三話まで投稿予定です。
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