第17話 逃避と相対
リアンは腹の上の振動を感じて目を覚ました。そこが事務所のソファの上であることを思い出すよりも先に、震えながら腹の端へと移動して行く携帯電話を捕まえ、画面に表示された見知った女の名を目にする。そのまま右手の親指を赤い受話器に合わせ─────沈黙した携帯電話を再び腹の上に戻して、リアンは天井を見つめた。
「…………そんなことしてる場合じゃねェんだよ」
思い返せばいつからだったろうか。
初めてそれを彼に覚えさせたのは一体誰だったろうか────。それが思い出せないほど、彼にとって女との絡みは日常の一部だった。食事や睡眠と変わらない。
朝に女ものの香水の香りをつけて帰って来る自分を見て、嫌な顔をする眼帯の男の顔を思い出した。あの顔だけは何だかしっかりと覚えている。どれだけ自分の行為を否定されようがやめられなかった。そもそもそうでなければ自分はそこにはいないのだ。リアンを情報屋たらしめたのは、他ならぬ噂好きの女たちだった。
誰一人として本気の恋などしなかった。自分も相手も、一時の関係に身を委ねるだけだった。それがほんの少し長いものだったとしても、相手を本気で好きだと思ったことは────少なくともリアンは───なかった。
理由など忘れた。ただリアンは彼女たちに縋りながら生きていたのは確かだ。白きあの人に拾われるまでは。色んなことを教えてそれまでを生かしてくれたのは、もはや顔も名前も忘れた女たちだった。
────ただ一人だけ、忘れられない女がいるが。
はぁ、と大きなため息を吐いてリアンは体を起こした。立ち上がり、静かな空間に声を漏らして伸びをすると、仕事の相方の席へと歩み寄った。
ローエンの出勤時間にはまだ早い。窓のブラインドから漏れる朝日が、誰もいないデスクを照らしている。ローエンは几帳面だ。デクスの上は全く散らかっていない。階下のリアンの居住空間と、反対側に置かれた彼のデスクは散らかり放題だ。片付けは苦手だ。物も、記憶も。
「……気付かなきゃ良かった」
独り言。しんと虚しく言葉は壁に吸い込まれて行く。
「何で俺を助けたんだよ」
こん、とデスクを拳で叩く。
「何でお前が助けたんだよ」
顔を上げ、ブラインドのかかった窓を見る。むしゃくしゃして、髪を手で掻き乱した。
(……無責任だ。無責任だよ。だから……だからこそ逃げちゃいけない。でも────)
はぁ、とまたひとつため息を吐いてリアンは俯き、手を下ろす。
「……お前なら責めてくれるだろ、なぁ、ルチアーノ」
その言葉に答える者は、そこには誰もいなかった。
*
ローエンは鍋をかき混ぜながら携帯の画面を叩いていた。宛先はリアン、内容は『少し遅れる』。それだけ。
送信ボタンを押して調理台に携帯を置くと、混ぜていた鍋の様子を見る。ソーセージと玉ねぎとじゃがいものコンソメスープ。いい香りがしている。今日も上出来だ、と思っているとリビングに人が入って来る気配がした。
「おはよう」
「おはようヴェローナ」
部屋着でまだ髪も整えていない彼女は、ローエンの隣までやって来て鍋を覗き込む。
「……二階までいい匂いがしてたわ」
「今日は仕事だろ。しっかり食べてけ。パンそこにあるの焼いといてくれ」
「はぁい」
「焦がすなよ」
「はぁい…」
後で起きてくるであろうソニアとルーカスの分も含めて四人分のロールパンをトースターに突っ込むヴェローナ。タイマーを5分過ぎまで回して2分くらいに戻す。放置して彼女はあくびをしながら洗面所へと向かった。
ローエンはちらりと時計を見る。7時少し過ぎ。平日の今日はそろそろ子供たちも起きて来る頃だ。ソニアは毎日ちゃんとした時間に起きるが、ルーカスはなかなか起きない。一体誰に似たのだろうとローエンは内心ため息を吐いた。この生活になるまではローエンもそんな規則正しい生活はしていなかったが、家族が出来て朝ご飯を作り、決まった時間に子供たちを送り出して仕事に出るようになってからは自然と規則正しくなった。ヴェローナもちゃんと起きるし夜は寝る。かつては夜型生活だったがそれも仕事のためだ。
そんな誰に似たのか分からないルーカスを起こすのはもっぱらソニアの役目になっている。彼女は容赦なくルーカスを起こすが、あまりにも起きない時は容赦なく見捨てる。ソニアは遅刻だけはしない。勉強も出来る優秀な子だ。
(……ソニアの親も賢かったのかね……?)
はたと、そんなことを考えた。思えば彼女はかつての両親のことを話さない。気にしていないようだった。昔は時折眠っている時に、実母の夢を見ているようだったが。
ソニアの実母のことは、彼女と出会った日に、ローエンが殺した人攫いたちに殺されたということしか知らない。あの場にあった死体の顔を確認もしていない。どんな人で、どんな顔をしていたのか────ただ、ソニアは母親に虐げられていたらしいということは聞いている。消えた父親が原因で。
(………結局父親のことは分からないままだ)
死んだものと思っていたが、考えてみればそうとは限らない。ローエンがかつて潰したあのファイトクラブで死んだかも、だなんて───心のどこかでローエンは、“そうであって欲しい”と願っていたのかもしれない。そんな、女と子供を見捨てて逃げた男なんて────。
コト、とスープをよそったカップを置いて、ローエンはぎり、と歯を食いしばった。
(父さんだって逃げ出した。そんでひょっこり現れた。いないものはいないって考えてたのに)
まだ許せやしない。一生をかけて許しはしないだろう。頭を下げて謝られても、償いとして自分の言いなりになっても、この身に刻まれた傷は癒えやしない。
(無責任だ、どいつもこいつも。逃げ出すなよ)
逃げたくせに戻って来て。未練がましく名乗るなと、そう思う一方で───……少しだけ、心のどこかで淡い期待を抱いているのも確かだった。それに、気付かないふりをしているだけで。
雑念を追い払うように、ローエンは首を振る。朝からつまらないことを考える。ソニアの父親は自分で、母親はヴェローナだ。それでいいし、それ以外はない。
階段から足音がして、リビングに制服姿のソニアが現れる。
「おはようお父さん。ご飯出来てる?」
「おう。……あ、パンが」
「え」
ヴェローナが突っ込んでいったパンの様子を慌てて見る。とっくにタイマーは切れているが予熱ですこしだけこんがりしている。
「………セーフだな」
「お皿用意するね」
「おう」
パンはソニアに任せてローエンはスープをよそる。テーブルに朝食の準備が揃った頃に、身支度を整えたヴェローナがやって来る。ルーカスは相変わらず起きて来ず、ソニアがやれやれとため息を吐いて起こしに行った。
「……どうしたの?」
「ん?」
席に着こうかという時に、隣に先に座っていたヴェローナが顔を覗き込んで来る。
「変な顔」
「何がだよ」
「夢でも見てるみたい」
「……はぁ?」
怪訝な顔をすると、くすりとヴェローナは笑った。
「これでいつも通りね」
「ほんと何……」
いただきます、と手を合わせてヴェローナは朝食に手をつける。そうだ。自分も今日は用事があるのだったと、その隣にローエンは座る。叩き起こされて寝ぼけ眼なルーカスと、ソニアもやがてやって来て同じ食卓に座る。
毎日の変わらぬ風景に、ふと舞い込んで来た違和感を、飲み込むようにローエンはスープを口に流し込んだ。
*
「何で俺も……」
「当事者だからだ」
「うえぇなんか緊張する……」
ローエンはアントニオと共に警察署に来ていた。中に入るとすぐそこの喫煙所に見知った顔を見つけ、ローエンは軽く手を上げる。
「何や。珍しいやんか」
「調査に進展……というか、気になることが出て来たからな。報告だ」
タバコの匂いを纏いながら出て来たダミヤに、ローエンは視線でアントニオを指す。その顔を見たダミヤは目を細める。
「……ん? 何やどっかで見た顔やな」
「…………あ、おっさんあん時の」
「おぁ? ………あ!」
ダミヤはポンと手を叩いて、アントニオを指さした。
「ボランティア団体の代表や!」
「………あんたあれだろ、こいつと一緒に助けに来てくれた……」
「ん? 何のことや、覚えないわ」
きょとんとするダミヤに、ローエンはため息を吐いた。
「十年前だよ。あんた俺の仕事について来たことあるだろ」
「……あぁ〜あったなそんなこと」
「その時助け出した子供の一人だよ」
「そうなん? 覚えてへんわ」
ケロッとした様子のダミヤ。彼の方からすればアントニオは大勢いた子供の一人に過ぎないし、あのあとすぐに警察署に戻ったダミヤが覚えていないのも無理はないだろう。
「ほんで? 感動の再会言うわけやないやろ」
「こいつがそう……あんたが調査を頼んだ団体の一つの代表なわけだけど、色々あって今俺はここに協力してる」
「ふーん。ほな問題ない言うわけやな」
「AFT自体には……。ただ少しスラムでトラブルが」
ローエンがそう言うと、ダミヤは手を突き出して止める。
「ちょい待ち。長なりそうやな。ちゃんと座って話そうや」
*
通されたのは取調室だった。
「……捕まった気分…」
「まぁなんや、ここやったら立ち聞きするもんもおらんし」
がら、と慣れた様子で椅子に座るダミヤ。椅子が一つしかないのでアントニオを座らせ、ローエンはその後ろに立つ。
「その腕どしたん」
「……殴られて……」
「その話を今からするんだよ。こないだスラムで襲われたらしい」
「ほぉ」
ローエンの言葉に、しょり、と無精髭を撫でるダミヤ。アントニオは首を振って続ける。
「襲われたってか……いつも通り支援物資とか怪我の治療とかしてたらさ、怒鳴り声が聞こえたんだ」
「怒鳴り声」
「廃屋からだった。女の人の悲鳴も聞こえたから急いで駆けつけたら、男たちが男の人を殴ってて……」
その時のことを思い出すように、険しい顔をしてアントニオは無事な手を顎に当てる。
「女の人は部屋の隅で縮こまってた。子供を抱えてて。男の人は多分父親だ。慌てて俺が止めに入ったら殴られて……」
ギプスをした腕を撫で、一呼吸置いて彼は続けた。
「頑張ったけど俺、体が強張って戦えなくて。そこからそいつらを追い出そうと必死に暴れてた……と思うけど、気が付いたらソニアが全員ぶっ飛ばしてて……」
「………俺が聞いた話となんか違う気がするけど」
ローエンはびっくりしていた。まさかソニアがそんなに腕が立つとは思わなかった。そもそもソニアはその場にいなかったような話し方をしていたし、自分が手を出した話もしていなかった。
「痛かったり必死で俺もあんま覚えてないけど……とりあえずどうにか男たちを全員追っ払って、殴られてた人も助けてその家族に話を聞いたんだ。そしたら……」
アントニオは歯を食いしばって続けた。
「……スラムで暮らしてる子供を引き取って育てる団体だって……。でもその親御さんたちは子供を手放したくないから断ったら、無理矢理連れて行かれそうになって、抵抗したら殴られた……って話だった」
「……それって……」
ローエンはそれが何を意味するか知っている。聞こえが良いように言ってはいるが……
「人攫い……やな」
ダミヤがボソリとそう言った。ローエンはソニアがトラブル先を“ボランティア団体”と言っていたのを思い出す。……彼女はよく人攫いの実態を知っているはずだが、聡い彼女のことだ。憶測に過ぎないとあえてそう言ったのかもしれない。
「そいつらの顔覚えてるか?」
「……うん……多分」
ダミヤはごそごそと机の下を探るとノートパソコンを取り出し、いくらか操作するとアントニオの方へカメラを向けた。そこにはローエンに渡された資料が写っている。
「見覚えのある顔は?」
「……ない……」
「そぉか……」
ローエンも調べた限りでは調査対象に問題はなかった。だから新しく流れて来たものか、ひっそりと隠れて動いていたものだろう。
「お手柄かもなアントニオ」
「え?」
「人相書きを作ってくれ。俺の方でも調べてみるよ」
「……調べてどうするんだ?」
「そりゃ捕まえるんだよ。俺は警察の協力者だからな」
せや、とダミヤは頷いた。
「ほな人相書きの担当呼んでくるさかい、待っとき。カツ丼とかは出ェへんけど」
「腹減ってねェよ……」
「おん? なんやテレビとか見ィひんのか」
意味が分からない、というアントニオの横を通り過ぎてダミヤが部屋を出て行く。ローエンは机に腰掛けると口を開いた。
「……殺して欲しかったか」
「え?」
「人攫いのこと」
アントニオが見たローエンの目は、昔見た殺し屋の目だった。
「そういう期待をしてただろ」
「……してねーよ」
「お前だって昔人攫いに攫われた。あぁいう存在はやっぱり……憎いんじゃないのか」
「そりゃ……俺の両親を殺したのは人攫いだし……」
幼い時の記憶が蘇る。アントニオを連れ去ろうとする人攫いの足に縋り付いて、無惨に殴られて蹴られて殺された両親を彼は鮮明に覚えている。喉が裂けるくらい叫んで、入れられた牢の中でずっと泣いた。暗くて臭い牢の中には絶望しかなくて、そのうち泣くことも考えることもやめた。
「……少しだけした」
観念したように、アントニオはため息を吐いた。
「…………俺たちだって、人間なのに。どうして物みたいに扱おうとするんだアイツらは……」
「悪いことを考える奴っていうのは裁かれない方法を考える。スラムの人間には市民権がない。役所に登録されてないんだ。だからいないのと同じ……いないものをどうしようがバレないってわけだ」
「そんなの……!」
「許せるわけない。分かってるよ。だから……」
助けたかった? 違う。ローエンは心の中で首を振った。死んだものは冷たく見捨てた。助けられないと傍観したことさえあった。自分の目的は依頼されたターゲットの抹殺。それだけ。そこにいた被害者がどうなっていようと────。
────かつてはそうだった。今は違う。
「俺だって助けてやりたい。……だからこそ違う方法でやらなきゃいけないんだ」
「……俺たちのやり方で、あんたは出来ると思うか」
少しだけ考えて、ローエンは答える。
「………根本的な解決にはならない」
「それは確かに……」
「じゃあどうすればいいと思う?」
「うーん……」
アントニオは俯く。彼はローエンたちとは違う。そこで生まれ育ち、かつては自分も虐げられ、そして救われ、ここにいる。だからこそ彼なら何か違うことを思いつくんじゃないかと────ローエンは思っていた。
「……復興だ」
「………復興?」
青年は顔を上げ、輝いた目をしてローエンを見た。
「スラム街を復興するんだ! 人がちゃんと住めるような街に戻すんだよ!」
それは突飛な発想に思えた。誰も思わなかった。廃れた旧い市街地を元に戻そうなど。新しくて綺麗な街がそこにあるのに。
「新市街みたいまでにはならなくても……ちょっとした町くらいには出来るだろ⁈」
「……それは、まぁ……分からん……」
「何でだよ⁈」
「そんなふうに考えたことなかったから……」
リアンは言った。全員を救いたければ政府に訴えかけろと。でも、そんなことは無理だと思っていた。ローエンにはそれを起こす力がなかった。だが、彼の言う方法なら、もしかしたら……。
「……でもどうする、そんな簡単に出来ることじゃねェぞ。金だってかかる。ただの学生のボランティア団体には無理だ」
「無理無理って言うなよ! つか俺は学生じゃねェし。それはその、大人の力を借りるしかねェかもだけど。でも……そうか、金か…………」
うーんと考え込むアントニオ。学校の課題に悩むソニアのような顔だとローエンは思った。
「………フィリアスさんに頼る、とか……」
「そこまでは出来ねェだろ、さすがに。事業と関係なさすぎる」
あくまで製薬会社だ。薬品とある程度の資金提供の依頼しかしていない。ローエンは彼をとことん利用するつもりではあるが、大企業という組織である以上限度があるのも分かっている。
「……あ、じゃあ! じゃあさ!」
「ん?」
アントニオの目が輝いた。その光の強さに、思わずローエンはたじろいだ。
「会社を作ろう! 俺たちで!」
「………え?」
#17 END




