急
◇◆◆◆◇
家の前に人だかりができていた。
なんだろうと訝しく思ったいづみが近づくと、自然、ざわめきがぴたりとやまり、人の群が左右に割れた。
「?」
家の前に、物々しい形相で立ち尽くしているのは、二人の武士である。
両足を地面に踏ん張り、槍を手に立っている。
家の入り口である桧皮葺の屋根がのっている門は、竹を交差させて封印がなされていた。
どくんと、不吉な予感に胸が鳴る。
「じいさま、じいさまは?」
近くにいた顔見知りのおかみさんに詰め寄ると、痛々しげな表情をして、顔を背けた。
「どうしたんだよ」
「なにがあったんだ」
悲痛な叫びに、武士の片方がいづみに近づき、
「鍛冶師が殿に無礼を働いたゆえに、明朝、処刑されることとなった。そのほうも城につれてくるよう命が下っておる」
「なんだよそれっ! じいさまが無礼を働いたって。そんなこと、じいさまがするわけない」
それには何も答えず、詰め寄るいづみを後ろでに縛め、二人の武士は、いづみを引き立てていった。
「いづみちゃん」
ゆうの引き攣った悲鳴が、いづみの耳を射た。
今にも泣き出しそうなゆうに、笑って見せ、いづみはそのまま二人に従ったのだ。
「いづみっ」
「じいさま」
祖父が、庭の隅に縛められていた。
寝殿造りの館の、おそらくは領主の居室だろう部屋の外、縁側を見上げる庭に連れてこられたいづみは、その場に平伏させられた。
後ろ手に縛められたままでのこれは、辛い。
苦しさと不安と血まみれの祖父に加えられたのだろう仕置きに対する怒りに震えながら、いづみは静かに姿勢を保った。
そのうち、誰かが近づいて来る気配がした。
「っ」
前髪を掴まれたと思えば、顔を上げさせられた。
痛みに涙がにじむ。
霞む視界に、身形のよい男がぼやけて映った。
「なかなかの美形じゃの」
男の命に、縛めが解かれ、いづみが大きく息をつく。
金襴を身にまとった恰幅のよい四十ほどに見える男が、閉じたままの扇で口元を覆いながら、いづみを見下ろしていた。その手に、白い包帯が巻かれているのが目につき、いづみは、まさかと、疑った。
いづみの視線に気づいたのだろう、男は、
「そうじゃ。これは、そのほうの祖父がやったのじゃ」
と、いづみの目の前に手を突き出した。
「あのようななまくらを儂に献上し、あまつさえ、傷を負わせるとは、刀鍛治にあるまじき粗相よの」
「じいさまの刀がなまくらなわけない!」
「ならば、そのほうの目で見てみるがいい」
ほれ、そこに転がっておろう―――と、扇で指し示した先には、無惨にも刃の折れた刀の柄から数尺ばかりと刃先の部分とが転がったまま打ち捨てられていた。
試し斬りをしていて、折れた刃が領主の手を傷つけたらしい。
「そんな……」
刀を確かめようと伸ばしかけた手を、領主の扇が情け容赦なく打ち据えた。
「触るでないわ。儂の前で刀を持つなど、謀反人と見なすがよいのか」
「なんで刀が折れたのか、確かめたっていいだろう!」
必死の形相で、噛みつくように見上げてくるいづみに、領主の顔が邪に歪んだ。
「そのほうに、わかると?」
「わかる!」
「ならば、の。確認させぬでもない」
「ほんとうに?」
ぱっと顔を輝かせたいづみに、
「そのほうが、酒の相手をするというなら、確認させようぞ。しかし、確認したとて、折れたが鍛冶師の腕の悪さのせいよりないとなれば、どうする? 隠そうとはせぬか?」
「そんなことしない! わたしはじいさまを信じてる!」
「ならば、酒の相手をするのじゃな」
「よしなさい。いづみっ! そんなことをしてもらっても、じいさまは嬉しくない」
祖父のかすれた声が飛んだ。しかし、
「そちは黙っておれ。で、よいのじゃな?」
にたりと、領主が笑う。
「わかった。その代わり、折れたのがじいさまの腕のせいじゃないときは、じいさまの命を助けてくれますよね」
「よかろう。何もとがめだてはせぬと誓おうぞ」
そう言うと、
「この娘に湯を」
と、誰にともなく命じ、居室の奥に戻っていった。
手伝おうとする女たちを振り切り、どうにかひとりで着物を脱ごうとしたいづみの袂から、何かが転がり落ちた。
「なに?」
拾い上げると、それは、川で拾った抜き身の懐剣だった。
「すっかり忘れてた」
布をほどいて刃を見ていると、よく鍛えられた鉄が、いづみを安心させるかのように光った――ような気がした。
懐剣を持ったまま湯気が立ち込めている湯殿へと入り、腰掛けの上に置いた。
錆びるとやばいなとは思ったものの、こんなところに懐剣を持ち込んでいるなどと思われては、これ以上ない嫌疑をかけられてしまうかもしれないからだった。
「酒の相手をするのに、風呂? 下々は汚らわしいってことか」
領主のことばのとおり、本当に酒の相手をするだけなのだと思っているいづみだった。
脱衣所に戻ったいづみは、懐剣を湯殿に持ち込んだことが正解だったとほっと溜息をついた。
脱いだはずの着物はなく、目に鮮やかな刺繍のほどこされている、やけにきれいな着物が用意されていたからだ。
「これを着ろって?」
すべすべした生地は、はじめての感触だった。
「もしかして、絹……とか」
まいっかと、さっさとからだを拭いて、それに着がえた。忘れずに懐剣もよく拭い、固く結んだ帯の間に挟み込む。
「うんっ」
弾みをつけるために、いづみは自分の頬をぺちぺちと叩いたのだった。
領主に仕えている女たちに先導され、領主が待ち構えている部屋へとたどりついた。
板敷きの間の中ほどに、数枚の畳が引かれ、その上で、領主は既に酒肴をつまんでいる。
うっすらと赤く染まった顔が、なんともいえず好色そうで、いづみは、部屋の入り口で硬直した。
「きたか」
手招く領主に、しかし、足が動かない。
「なにをしておる」
「あっ」
ゆらりと立ち上がった領主がいづみの手首を掴み、部屋へと引きずり込んだ。
御簾を下ろして女たちが無言で下がってゆく。
いたたまれなくて、領主の隣に無理矢理座らされて、いづみは顔を背けた。
「はずかしいのか」
領主は、くつくつとひとり悦にいった笑いを漏らす。
「そのからだつき。男は、まだ知るまいの?」
そうでなければ、おもしろうないでな――と、独り語散る領主に、それまでのいたたまれなさを忘れたいづみが、
「酒の相手するのに、なんでそんなことっ」
と、食ってかかる。
それが、領主の気に入ったらしい。
「そうか。知らんのじゃな。よいよい。初々しゅうてよい」
「!」
肩を抱かれ、ぞわりと不快な感触が背筋を這い上がった。
自分が何か大変な勘違いをしていたことに、遅蒔きながら気づいた。
領主の手が、衿をくつろげようとするのに抗う。
「えい! 少しは静かにせぬか。鍛冶師を助けたいのだろう」
「あっ」
痛いところを突かれて、いづみの抵抗が止まる。
「おとなしゅうしておるほうがよいぞ」
ねつい視線をいづみの薄くひらかれたくちびるにあて、領主が顔を近づけた。
ぷんと、酒の匂いが鼻を射る。
(鷹巳っ!)
刹那、いづみの脳裏をよぎったのは、つい数刻ばかり前に知りあった、おそらくはひとではないだろう美貌の男だった。
熱く不快な息が、頬をかすめる。
先ほどのこぜりあいで弛んだ帯から、懐剣が音をたてて転がり落ちた。
しかし、領主もいづみも、気づかない。
懐剣はその刃にいづみが領主にくちづけされようとする瞬間を映すばかりであった。
◆◆◇◆◆
「っ」
突然脳裏を掠めて去った映像に、鷹巳が立ち尽くす。
いづみと遭った、川のほとりである。
いづみを追いかけもせず、ここにいたのは、自分の感情を整理しようとしてのことだった。
感情のままに行動することは容易い。
衝動のままいづみにくちづけた、あの心地好さは、まだ身内を去ってはいなかった。
だからこそ、愚かなまねをしないようにと、ここに残ったのだ。
月白の湖の女主の先見に煽られて、意識がはじめて会った人の子へ人の子へと向かっただけなのかもしれない――と。
(女主もどうせ先見をしたのなら、詳しく言いおいてくれればいいものを)
愚痴た後、鷹巳は静かに、自分の心を覗き込んだ。
そうして、数刻が過ぎたころ。
それは、あまりにも唐突な映像だった。
心地好い木々の吐息の中で見るに相応しからざる光景でもあった。
嫌がるいづみがなにものかにくちづけられようとしている場面が、脳裏をよぎったのだ。
刹那、身の内に、心臓をぎりりと握りこまれるような苦しさが生じた。
くちびるを噛みしめ、鷹巳は、意識を研ぎ澄ませた。
常に静謐な空気をまとってはいるが、その本性はかつて上見の魔物と恐れられたことすらある魔神である。
かつてひとが彼の逆鱗に触れた時に、いくつの山が壊滅し湖となっただろう。また逆に、同じく薙ぎ倒された森や林、干された湖には、永の年月の後に今では新たな人里ができて久しい。
いづみがどこにいるのか、鷹巳は即座に看破した。
もう、悩んでいる時ではない。
逡巡しているあいだにも、いづみは、あの醜いものに汚されてしまうかもしれなかった。
そう考えるだけで、いてもたってもいられない。そう自覚した次の瞬間、川岸から鷹巳の姿は消えていた。
領主の、酒気と欲望とにそまった、のっぺりとした顔が近づいて来る。
嫌悪に身を粟立たせながら、それでもいづみは覚悟を決めて目を閉じた。
しかし、いつまで経っても、くちびるに何も感じなかった。
恐る恐る目を見開いたいづみは、眼前の光景に、硬直した。
咄嗟に、理解できなかったといったほうが正しいだろうか。
領主が、自分の襟首をつかんで泡を吹いてもがいている。
そうして、その後ろ首を締め上げているもの―――それは、
「鷹巳!」
いづみの顔が歓喜に輝く。
それを見下ろし、鷹巳は、自分の中の感情が、愚かな一時の欲望などではないのだと、強く感じた。
そんな場合でも状況でもないと、わかってはいた。
それでも、心の奥底から湧き出す感情を、ことばにしたかったのだ。
「いづみくん、愛していますよ」
いづみの鳶色の瞳が眼窩からこぼれ出しそうなほど大きく見開かれ、次の瞬間、いづみは、全開の笑顔で鷹巳を見たのだ。
領主が板敷きの床に投げつけられる音が鈍く響く。
「大丈夫でしたか?」
「たかみ」
それだけを返すのがやっとだった。
差し出された手を握り、立ち上がる。が、足が震えて立っていられなかった。
「肩を貸しましょう」
そうしていづみの腕を自分の方に回したときだった。足元に、何かがちかりと光ったような気がした。
「すこし我慢してください」
そう言い置いて、屈みこんだ。
「ああ。知らせてくださったのは、あなたでしたか。ありがとうございます。母上」
小さくつぶやいた鷹巳は、懐剣を床から取り上げると、持っていた鞘に戻し、懐にしまった。
一部始終を見ていたいづみが、なにが自分を救うきっかけをつくってくれたのか、理解する。
「さあ、ここから出てゆきましょうか」
「まって。じいさまが、じいさまが殺されるかもしれない」
「なら、君のおじいさまも助け出さなければいけませんね。どこに?」
「そっちの庭だと思うんだ」
いづみの指差す先の御簾を開こうとした時、領主の郎党を呼ぶ悲鳴じみた声が響いた。
「まったく。殺生はしないでおきましょうと思っていたのですけれど、ね」
軽い舌打ちとともに、吐き捨てるように鷹巳がつぶやく。
聾がわしい足音と仲間を呼ぶ大音声とともに現われたのは、二十人ほどの武士だった。
「殺さないで」
いづみの訴えに、鷹巳の整った口角がゆるりと上にもたげられた。
「しかたありませんね。君の頼みとあれば、そのように」
囲まれながらも余裕綽々の鷹巳といづみを中心に、激しく空気が渦を巻き始めた。
「それでは、行きましょうか」
男たちの悲鳴を耳に心地好いものと聞きながら、鷹巳がいづみの祖父だろうと目星をつけた老爺に向かって進む。
唸り狂う竜巻が、御簾を梁を柱を、城のありとあらゆる部分を力まかせに引き千切り、吹き飛ばしてゆく。
庭の片隅で、自分にと近づいて来る竜巻を恐怖に呆けたようになって凝視していたいづみの祖父は、目の前で竜巻が止まったのに、目を剥いた。
「じいさま」
竜巻の中から現われた孫に抱き起こされ、見たこともないほどの美貌の青年に気づいた。
「あなたは?」
「上見山の主」
ことば少なに返した鷹巳に、いづみまでもが驚愕を隠せず鷹巳を振り返る。
「もうここには住んでいられないでしょう。ふたりして、私の館へおいでなさい」
「じいさまも行こう」
(………まさか)
孫のことばに、老爺は、頷いた。
事実、ここまで派手なことをしてここに残っていたのでは、殺されるのを待つだけだろう。
「それでは、ご厄介になりますかな」
「歓迎しますよ」
鷹巳がにっこりと微笑んだ。
領主と郎党が這う這うの態で彼らに追いついた時、三人は、一同の前から忽然と姿を消したのである。
後には、無残に破壊されつくした平城が残るばかりであった。