第1話
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コンコン。
ドアがノックされる。
ドアが開くと、隙間から四十代くらいの顔色の悪い男性が顔をのぞかせた。彼が患者かと思い、竹田明彦は手元にある問診票に視線を落とす。しかしそこには「小林慶子」という女性の名前が書かれている。
「失礼します」
男性は明彦に向かって小さく頭を下げると、すぐに自分の後ろに視線を転じた。
「さあ、母さん、中に入って」
すると、男性の後ろから、男性よりももっと顔色の悪い高齢の女性が顔をのぞかせた。彼女が患者のようだ。自分の意思がここには存在しないというかのように視線は虚ろで、どこか幽霊のような感覚を見るものに感じさせる。
「こちらの椅子にお座り下さい」
明彦がデスクの前に置かれた二つの丸椅子を指し示すと、二人はのろのろとその椅子に座った。
その間に明彦は問診票の記載内容にざっと目を通す。
「ええと、今回、患者としていらしたのが、こちらの女性で、ええと、あなたは……」
「私は、息子です」
「息子さんですね」
問診票には症状として「目的や道順が分からず、同じ場所を歩き回る。感情のコントロールが難しくなり、怒りっぽくなる。入浴や食事などの介護を嫌がり、受入れない」と書かれている。典型的な認知症の周辺症状だ。
明彦は正面に座った女性を見る。やはり視線は虚ろで、明彦の後ろの空間を見るともなく見ていた。
「小林さん。私の声は聞こえていますよね。あなたの下のお名前を教えてもらえますか?」
女性はやはり何も答えなかった。
息子が言い訳をするように「すみません。母は気分の変動が大きくて、今日のように落ち込んでいる日は僕が話しても何も答えないんですよ」と言う。
「そうですか……」
認知症とは別にうつ状態も併発しているのかもしれない。
別の質問をいくつか女性にしてみたが、女性は何も答えなかった。明彦は女性に話しかけるのを諦め、隣りに座る息子に話を振る。
「小林慶子さんの症状についてですが……」
問診票を見ながら、一つ一つ詳細を確認していく。息子は問診票に書かれている以上のことは話さなかった。特に問診票に書かれているもの以上の情報は無いようだ。一応、彼の話の内容を簡単にカルテに書き込んでいく。
「認知症の症状とともにうつ病も併発していると思われます。薬を処方するので、受付にてお受け取り下さい」
そこで診察は終わった。
息子はどこかほっとしたような表情を見せて、「さあ、母さん。帰るよ」と女性を無理やり立たせ、引っ張るように診察室の外に出ていった。
明彦は無意識にふうと小さく溜息を吐く。
明彦がS病院の精神科に勤務するようになって三年になる。
S病院で働く前は大学病院で働いていたが、事情があって三年前にこの病院に移った。それ以来、ベルトコンベアに載せられてくるかのように、毎日、何かしらの精神の異常を訴える患者を診続けている。いつしか、患者が異常なのか、あるいは、自分が異常なのか、その境界線が曖昧になっていくかのような感覚を覚えることもあった。そんなとき、以前に読んだニーチェの言葉を思い出す。
かつてニーチェは次のようなことを言ったという。
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」
人間の心の闇という深淵を覗き込み続けるうちに、自分のその深淵に取り込まれているのではないのだろうか。そんな思いを心のどこかに抱いていた。
明彦は小さく首を横に振る。
今日は疲れているのかもしれない。
と言っても、目の前の患者は待ってはくれない。
明彦は無理やり心を無にする。そして、先ほどの患者のカルテにいくつか書き込んでいった。




