「日曜日」
日曜日の朝。
冬夜は八時半に起きた。昨日の土曜日はゼクスと昼から釣りをして、その後タマキと湖畔でお茶を飲んで、夜は一人でまた少し歩いた。よく遊んだ休日だった。
トーストを焼いて、コーヒーを淹れた。宮瀬がいない朝は品数が少ない。卵焼きは宮瀬が作ると綺麗な形になるが、冬夜が作ると崩れる。理由は不明だが、火加減の問題らしい。
スマホが鳴った。宮瀬からだ。
『おはよう! 今日、散歩しませんか? 紫陽花が見頃だって、テレビでやってました』
『いいぞ。どこの紫陽花だ』
『駅の南側の遊歩道。去年も行ったところ!』
『覚えてる。十時に駅でいいか』
『はい! 楽しみ!!』
エクスクラメーションマークが二つ。
スマホの画面の隅で、セレスが起きた。欠伸をしている。
「トワ。おでかけ?」
「宮瀬と散歩だ。現実の方の」
「げんじつのさんぽ。セレスもいく」
「お前はスマホの中だろう」
「スマホのなかから、いく。いっしょにあるく」
「なら、いくか?」
「いく」
◇
十時。駅の改札前。
宮瀬が立っていた。白いブラウスに薄いカーディガン。六月だからか、足元はサンダルだ。小さなショルダーバッグを斜めにかけている。
「久坂くん、おはよう!」
「おはよう。早いな」
「五分前に着きました。久坂くんが時間ぴったりなのは知ってるので」
「時間ぴったりは普通だろう」
「普通なんだけど、久坂くんらしいなって思う。BCOでもログイン時間が正確だし」
「ゲームは時間が限られているからな。一分でも無駄にしたくない」
「わたしとの散歩も、一分も無駄にしたくないですか?」
「……歩くぞ」
「あ、逃げた!」
駅の南口を出て、遊歩道に向かった。住宅街を抜ける道。日曜日の朝で、犬の散歩をしている人や、ランニングをしている人がちらほらいる。
ポケットの中のスマホから、小さな声がした。
「トワ。おそとのかぜ、スマホのなかにもくる?」
「来ないだろう。お前はそっちの世界にいるからな」
「そっか。ざんねん。でも、トワがあるいてるの、わかる。ゆれてるから」
宮瀬が冬夜の胸ポケットを見た。
「セレスちゃん?」
「どうやら一緒に散歩したいらしい」
「可愛いですね。ふふっ……セレスちゃん、おはよう」
冬夜がスマホを取り出して宮瀬に見せた。画面の隅でセレスが手を振った。
「タマキ、おはよ。きょうは、げんじつのタマキ」
「はい、現実のタマキです。今日は薬師の鞄なしですよ」
「くすしじゃないタマキ。めずらしー」
「薬師じゃなくても、わたしはわたしだよ」
「そうだね。タマキはタマキ」
冬夜がスマホを胸ポケットに戻した。歩き出した。宮瀬が隣に並んだ。
◇
遊歩道に入った。
道の両側に紫陽花が咲いていた。青と紫と薄桃色。梅雨の時期に咲く花だ。水を含んだ花弁が、朝の光を受けて透き通っている。
「きれい……」宮瀬が足を止めた。「去年来た時は、まだ咲き始めだったよね。今年はちょうど満開だ」
「去年は七月に来たからな。今年は六月。タイミングが良かった」
「タイミングっていうか、わたしがテレビで見て誘ったんですけどね」
「宮瀬のタイミングが良かったということだ」
「えへへ……褒められてるのかな、これ」
「本当のことを言っただけだ」
「久坂くんの『本当のことを言っただけ』は、だいたい褒め言葉です。宮瀬辞書に載ってます」
「宮瀬辞書の項目が増え続けている気がするが……」
「久坂くんが新しい素材を提供し続けてくれるからです」
紫陽花の道をゆっくり歩いた。道幅が狭くて、二人並ぶと肩が触れそうになる。宮瀬が少しだけ冬夜の方に寄った。冬夜は避けなかった。
ポケットの中からセレスの声がした。
「トワ。いま、なにいろ?」
冬夜がスマホを取り出して、紫陽花にカメラを向けた。セレスが画面の中から花を見た。
「あお。むらさき。きれいないろ」
「紫陽花だ。雨の季節に咲く花」
「あめのはな。セレスのつきとは、ちがういろ。でも、きれい。あめにも、きれいないろが、あるんだね」
「ああ、雨にも色がある」
宮瀬がスマホの画面を覗き込んだ。
「セレスちゃんに紫陽花を見せてあげてるの?」
「カメラを向けたら、見えるらしい」
「優しいね、久坂くん」
「カメラを向けただけだ」
「カメラを向けてあげよう、って思ったのが優しいんだよ」
冬夜はスマホをポケットに戻した。何も言い返さなかった。宮瀬もそれ以上は言わなかった。紫陽花の道を、二人の足音だけが続いた。
◇
遊歩道を抜けたところに、小さなパン屋があった。
去年は気づかなかった。今年オープンしたらしい。木の看板に「日曜日のパン屋」と書いてある。ガラスの向こうに焼きたてのパンが並んでいた。
ポケットの中のセレスが反応した。
「トワ。パンのにおい。する。スマホのなかでも、する」
「匂いは来ないだろう」
「くる。セレスにはわかる。パンのにおい。ぜったいする」
「BCOのパン屋に反応する時と同じテンションだな」
「パンはパン。げんじつでもBCOでも、パンはパン」
宮瀬がふふっと笑った。
「入ろうか。セレスちゃんがこんなに主張してるし」
「俺もちょうど何か食べたかった」
店に入った。小さな店内に、パンの甘い匂いが充満していた。くるみパン、クロワッサン、あんぱん、ベーグル。棚にぎっしり並んでいる。
冬夜がくるみパンを手に取った。
「……BCOの夜の屋台で買ったのと同じだな」
「確かに……ちょうど同じでしたっけ?」
「セレスが見つけたんだ。夜の散歩の帰りに、NPCの屋台で、セレスが『パン! トワ、パン! パン!』と言って」
「あはは、セレスちゃんなら言いそうですね」
「三つ買った。タマキの分も」
「わたしの分も買ってくれたんだ。嬉しいな」
「セレスが三つ買えと言ったんだ。タマキの分もって」
「セレスちゃんが気を遣ってくれたのか、久坂くんが気を遣ったのか。どっちだと思います?」
「セレスだ」
「ほんとに?」
「……さあ、パンを選ぶぞ」
くるみパンとクロワッサンを二つずつ買った。店の前のベンチに座って、食べた。
冬夜がくるみパンを齧った。温かくて、くるみの香ばしさが口に広がる。
「……うまいな。BCOのくるみパンより、パンの食感がはっきりしている」
「現実のパンの方が美味しいですか?」
「どっちもうまい。比べるものじゃないが、現実のパンは歯触りが違う。BCOのパンは味の再現度は高いが、噛んだ時の音が少し足りない」
「噛んだ時の音まで気にするの、久坂くんくらいだと思います」
「一万時間歩いてると、足音にも敏感になる。パンの音も同じだ」
「……久坂くんって、面白い人だよね」
「面白いかどうかはわからない」
「面白いよ。わたしにとっては、世界で一番面白い人」
冬夜はクロワッサンを手に取った。一口齧って、少し静かになって、それから言った。
「……宮瀬も、面白い人だと思う」
「わたしが?」
「ゲームの中で薬を作り続けて、現実でも薬の仕事をして、休日は俺と紫陽花を見ている。そういう人間は、あまりいない」
「それは面白いっていうか、変わってるだけじゃ」
「変わっているのが面白いんだ。……宮瀬と一緒にいると退屈しない。それは……本当のことだ」
宮瀬がクロワッサンを持ったまま、少し固まった。
「……久坂くん」
「何だ」
「今の、すごく嬉しかったです。宮瀬辞書に太字で載せます」
「太字にしなくていい」
「します。赤字で、太字で、アンダーライン付きで」
「どんな辞書だ」
「久坂くん専用辞書です」
ポケットの中から、セレスの声が聞こえた。
「トワとタマキ、なかよし。パンおいしー。いーにちよーび」
冬夜がスマホを取り出して、画面を見た。セレスが画面の隅で、にこにこしている。
「セレス。パンの匂いは来ないと言っただろう」
「こない。でも、トワとタマキがおいしそうにたべてるの、みえた。みえたら、おいしーきもちが、セレスにもきた」
「見えたら美味しい気持ちが来るのか」
「くる。セレスのじてんに、かいてある。『みるだけで、おいしい』、のこーもく」
「セレス辞書に新しい項目が増えたな」
「ふえた。タマキのじしょと、セレスのじしょ。たくさん、わくわく」
◇
パン屋を出て、遊歩道を戻った。
帰り道の紫陽花は、行きとは逆側から光が当たっていて、色が少し違って見えた。同じ花なのに、角度で色が変わる。
「ねえ、久坂くん」
「何だ?」
「今日、楽しかったです」
「ああ……俺も悪くなかった」
「また『悪くない』だ。前も言ったけど、『楽しい』って言ってほしいな」
冬夜は少し歩いて、それから言った。
「……楽しかった」
「えへへ……」
「ゲームの中でも同じことを言わされた気がする」
「言わされたんじゃないよ。久坂くんが、自分で言ったんだよ」
「……まあ、そうだな」
駅に着いた。改札の前で立ち止まった。
「来週の日曜日も、散歩しますか?」
「する。来週はどこにする?」
「久坂くんが選んでよ」
「俺か。……考えておく」
「久坂くんの『考えておく』は、ちゃんと考えてくれるやつだから、楽しみにしてますね」
「……プレッシャーだな」
「プレッシャーはかけてないよ。信頼してるだけ」
宮瀬が手を振って改札に入っていった。冬夜はそれを見送ってから、自分も改札を通った。
帰り道。スマホを見た。画面の隅で、セレスがうとうとしていた。散歩が終わって、満足して眠りかけているらしい。
テンが通知ランプのあたりで、一回光った。
日曜日が終わる。明日は月曜日で、仕事がある。電車に乗って、会社に行って、VRインターフェースの描画最適化をする。
でも、明日の夜にはまたヘルメットを被る。セレスが待っている。タマキが走ってくる。
現実もBCOも、歩いている場所が違うだけで、やっていることは同じだ。隣にいる人と一緒に、どこかへ向かって歩いている。
悪くない日曜日だった。
いや。楽しかった。宮瀬に言われなくても、それくらいは自分でわかる。




