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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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59話 境界を歩く

 朝、目が覚めた。


 社務所の畳。秋の冷気。陽太は身を起こした。男が壁にもたれて立っていた。


 陽太は昨夜作った準備リストを、もう一度確認した。第一項目「紋の使い方の研究」。第二項目「京都の境界の地図化」。


 「今日は、京都の他の境界を回る」


 陽太が告げた。


 「北は除いて、か」


 「ああ。御影が『北には行くな』と言った。だから、北以外を回る。京都の境界が薄い場所を、自分の目で見て、紋の反応を測る」


 男が薄く笑った。


 「準備、ってのは、こういうことか」


 「ああ」


 陽太は地図を広げた。京都の地図。北以外の方角を見た。


 候補は、いくつかあった。六道珍皇寺。五条大橋。鳥辺野。化野。


 陽太は二つに絞った。六道珍皇寺と五条大橋。一日で回れる距離。最も「境界」と関わりが深い場所と、男との縁が深い橋。


 「行くぞ」


 「ああ」


 男が短く頷いた。



      *



 電車。バス。徒歩。


 東山方面へ向かった。これまでの北行きや一条戻橋行きとは違うルート。陽太は車内で地図を確認しながら、京都の東を意識した。


 箱を膝に置いた。マリアの祈りの温度。ぬるい。普通。


 「六道珍皇寺、どんな場所だ」


 男が問うた。実体化を解いた状態。陽太の肩のあたりから声が聞こえた。


 「あの世への入口、って言われてる。平安時代の役人が、冥府に通った井戸があるらしい」


 陽太が説明した。観光案内程度の知識だった。


 男が、わずかに反応した。


 「あの世への入口、か」


 男の声が、いつもより低かった。男は、あの世から渡ってきた存在。あの世への入口と聞いて、何かを感じていた。



      *



 六道珍皇寺に着いた。


 東山区松原通。観光客は少なめだったが、いた。境内に入った。


 寺は普通だった。寺の方が掃除をしていた。秋の朝の普通の風景。船岡山のような無人化はなかった。


 陽太は紋を見た。手の甲の紋が、薄く熱を持っていた。境界に反応していた。だが、船岡山ほど強くなかった。


 「ここも、境界が薄い」


 陽太が呟いた。


 「だが、船岡山ほどじゃねえな」


 男が答えた。


 「ああ」


 陽太は箱を確認した。マリアの祈り——ぬるい。普通。船岡山では警戒の熱を持っていたが、ここでは反応していなかった。


 「ここは、安全か」


 陽太が問うた。


 「いや」


 男が即答した。


 「安全じゃねえ。だが、敵がいねえ。違いが、ある」


 境界が薄くても、敵が干渉していなければ、安全な場所。船岡山は境界が薄く、かつ敵が干渉していた。だから箱が警戒した。六道珍皇寺は境界が薄いが、今は誰も干渉していない。


 陽太は記憶に刻んだ。境界の薄さは、危険そのものではない。敵の干渉の有無こそが、危険を決める。


 陽太は境内を歩いた。井戸の前に立った。冥府に通じると伝わる古い井戸。覗き込むと、深い暗闇。秋の朝の光が、井戸の縁を白く照らしていた。


 陽太は紋の反応を確かめた。井戸の前で、紋がわずかに強く反応した。だが、強烈ではなかった。


 「ここが、最深部、って言われてる場所か」


 陽太が呟いた。


 「ああ」


 男が、井戸を見下ろしていた。男の表情が、いつもと違った。飄々さの中に、何か別のものが混じっていた。


 「お前、ここで、何か感じるか」


 陽太が問うた。


 男はすぐには答えなかった。井戸を見続けていた。


 「呼ばれてる、ような気がする」


 ようやく、男が呟いた。


 「呼ばれてる?」


 「ああ。だが、無視できるくらいの呼びかけだ。心配するな」


 男の声が、いつもの口調に戻った。陽太は、男のわずかな揺れを見ていた。男にとって、この場所は、ただの観光地ではなかった。


 陽太は井戸の縁に手を置いた。冷たい石の感触。井戸は、ただ、深かった。


 「今日は、ここまでだ」


 陽太が言った。


 「ああ」


 二人は寺を出た。



      *



 次の目的地、五条大橋。


 電車で移動した。陽太は車内で考えた。五条大橋は、男と陽太が堂島と戦った場所。あの夜、男が橋という領域で初めて圧倒的な力を見せた場所だった。久しぶりだ、と思った。


 五条大橋に着いた。


 鴨川に架かる橋。観光客が多かった。秋の昼。普通の風景。


 陽太は橋の手前で立ち止まった。男も、隣に立った。


 「久しぶりだな、ここは」


 男が呟いた。


 「ああ」


 二人が並んで橋を見た。あの夜、男はここで堂島のハサンと戦った。橋の上、男の領域。


 堂島が、最後に娘の名を呼んだ。陽太は、その場面を覚えていた。橋の中央、男の斧の前で、堂島が膝をついて、娘の名を呟いた。勝った、と陽太は思った。だが、勝った後に残ったのは、虚しさだった。あの夜、陽太は男と一緒に戦うと決めた。


 あの夜と同じ橋。だが、橋の手前に立っている自分は、あの頃とは違っていた。


 「変わったか、俺」


 陽太が、ぽつりと呟いた。


 「ああ。変わったな」


 男が、短く答えた。


 陽太は紋を見た。手の甲の紋が、薄く熱を持っていた。境界に反応していた。六道珍皇寺と同じくらいの強さ。


 「ここも、境界が薄い」


 陽太が呟いた。


 「ああ。橋ってのは、境界の上に架かるもんだ。橋がある場所は、ほぼ全部、境界が薄い」


 男が答えた。


 この一言が、男の橋道の本質を、改めて示していた。男が橋の上で無敵に近いのは、橋という構造が境界の上に架かるからだった。橋は、境界そのものだった。


 陽太は橋を渡った。中央まで進んだ。鴨川の水が下を流れていた。秋の昼の光が、水面に反射していた。


 箱を確認した。マリアの祈り——ぬるい。普通。


 「ここは、敵がいねえ」


 男が呟いた。


 「今は、な。だが、いつでも敵が来られる場所だ」


 二人は橋を渡り切った。対岸に立ち、もう一度橋を見た。


 陽太の中で、京都の境界マップが、少しずつ形になっていった。一条戻橋——最も薄く、儀式の中心地。船岡山——薄く、第七陣営が干渉した形跡あり。六道珍皇寺——薄いが、現在の干渉なし。五条大橋——薄いが、現在の干渉なし。橋は、境界の上に架かるもの。だから、京都の橋全てが、境界の薄い場所だった。



      *



 夕方が近づいていた。


 陽太と男は、鴨川沿いを北上した。嵐山に戻る前に、もう少し歩きたかった。


 秋の夕日が、鴨川の水面を赤く染め始めていた。観光客が川沿いを歩いていた。普通の夕方。


 陽太は歩きながら考えた。


 今日、二つの境界を回った。京都には、もっと境界の薄い場所があるはずだった。鳥辺野。化野。下鴨神社。上賀茂神社。だが、一日で全部は回れない。明日以降、続ける。


 陽太は箱を抱えていた。マリアの祈り。今日は、ずっとぬるかった。警戒の熱を持たなかった。今日は安全だった、と陽太は思った。


 そう、思っていた。



      *



 鴨川沿いを歩いている途中。


 風が、止まった。


 秋の夕風が、ずっと水面を撫でていた。それが、一瞬で止んだ。陽太の頬に当たっていた風が、ふと消えた。


 次に、音が遠のいた。観光客の声、学生の笑い声——どれもが、急に遠くなった。


 陽太は気づいた。


 ——観光客が、消えていた。


 ついさっきまで、川沿いを歩く観光客がいた。学生がいた。地元の人がいた。だが、いつの間にか、誰もいなかった。鴨川沿いに、陽太と男だけがいた。


 「……また、来た」


 陽太が呟いた。


 「ああ」


 男も気づいていた。男の手が、斧の柄に触れた。


 陽太は紋を見た。手の甲の紋が、強く熱を持ち始めていた。境界に反応していた。


 箱を確認した。マリアの祈り——冷えていた。深く冷えていた。船岡山以上の冷え方。


 「敵が、いる」


 男が呟いた。


 「どこに」


 「分からねえ。だが、近い」


 二人は鴨川沿いに立ち尽くした。観光客のいない川沿い。秋の夕日。赤く染まる水面。風が止まっていた。


 その瞬間、陽太は感じた。


 何かが、見ていた。


 陽太は周囲を見回した。誰もいない。だが、視線があった。複数の視線。陽太と男を、四方から見ている何か。


 「囲まれてる」


 陽太が呟いた。


 「ああ」


 男が斧を抜いた。



      *



 鴨川沿いに、薄いもやが立ち始めた。


 あの日の橋の上のもやと、同じ質感。だが、今度は橋ではなく、川沿いの開けた場所。陽太と男を取り囲むように、もやが集まってきた。


 もやは、形を取りつつあった。


 あの日は、揺らぐ輪郭だった。今度はもう少し、形が定まろうとしていた。複数の影が、もやの中に浮かび上がっていた。人型に近い影。だが、顔がなかった。背丈もまちまちだった。一つの影は、剣のようなものを手にしている。別の影は、何かを構えるような姿勢を取っている。


 陽太は息を飲んだ。


 「あれは——」


 「英霊の残骸だ」


 男が即答した。


 「過去の儀式で、彼岸に飲まれた英霊たちの、形だけ残ったやつだ。あいつらは、自我がねえ。だが、力の断片を持ってる」


 男が、感覚で読んでいた。これらの影が「英霊の残骸」だと。マスターの正体まではまだ分からない。


 「誰が、こんなものを集めてる」


 陽太が問うた。


 「分からん。だが、こいつらを集めて使ってる奴がいる。あいつらは、その操り人形だ」


 男が答えた。


 陽太は、影の一つを見続けた。顔がない。だが、その影は、かつて誰かだった。今は、形だけが残って、誰かに操られていた。


 影たちは、陽太と男を取り囲んだまま、動かなかった。攻撃してこなかった。ただ、見ていた。


 陽太は紋を見た。手の甲の紋が、最大に熱を持っていた。逆流を発動できる状態だった。だが、男が止めた。


 「使うな、坊主。こいつらは、戦う気がねえ。様子を見てる」


 「様子を、見てる?」


 「ああ。お前を、観察してる」


 あの日の橋の上のもやも、「観察し終わったかのように」消えた。今回も、影たちは攻撃ではなく、観察を目的としていた。


 だが、観察の対象が、変わっていた。前は橋という場所だった。今度は、陽太自身だった。


 陽太は震えた。第七陣営が、陽太に焦点を合わせ始めていた。



      *



 しばらく、影たちは動かなかった。


 陽太と男は、影に囲まれたまま、立ち尽くした。秋の夕日が、川沿いを赤く染めていた。風が、ぴたりと止まっていた。


 その後——影たちは、一斉に、消えた。


 風が吹き戻った。観光客が、いつの間にか戻っていた。学生の笑い声。地元の人の足音。普通の夕方の風景が、何事もなかったかのように、戻っていた。


 陽太は紋を見た。熱が引いていた。箱を確認した。マリアの祈り——ぬるい温度に戻っていた。


 異変は、終わった。


 だが、前回までの予兆とは違っていた。


 あの日の異変は、街全体や橋の上が舞台だった。今回は、陽太と男が特定された。第七陣営は、陽太の存在を認識した。次は、観察ではなく、何かを仕掛けてくる。


 陽太は、急に、自分の体が小さく感じられた。


 影たちは、陽太の顔を見た。陽太の体を見た。あいつらは、陽太を覚えた。明日、家を出る時にも、見られているかもしれない。電車に乗っている時にも、誰かが横で見ているかもしれない。


 陽太は、その想像を打ち消そうとした。だが、完全には消えなかった。葛城や堂島や御影は、陽太を「マスターの一人」として見ていた。だが、影たちは、陽太を「観察対象」として見ていた。人として扱われていない感覚だった。



      *



 陽太と男は、嵐山に戻った。


 電車。秋の夕日。窓の外の風景。京都の街は普通に動いていた。何事もなかったかのように。


 陽太の中の感覚は、戻らなかった。


 「次は、観察じゃ済まねえな」


 男が呟いた。


 「ああ」


 陽太が答えた。


 「向こうは、お前を見つけた。次に来る時は、何かを仕掛けてくる」


 「分かってる」


 陽太の声が、低かった。


 明日、どうすべきか。今、北に向かう準備はできていない。御影の警告もある。だが、第七陣営が陽太に焦点を合わせ始めた以上、ただ待っているわけにはいかなかった。


 陽太は箱を抱えた。マリアの祈り。御影が「守れ」と言った力。


 「準備を、急ぐ」


 陽太が呟いた。


 「ああ」


 男が頷いた。



      *



 深夜、嵐山の社務所に戻った。


 誰もいない社務所。陽太が灯りをつけた。畳。秋の夜気。


 陽太は箱を畳に置いた。準備リストに、新しい項目を書き足した。


 「第七陣営の動きへの対応」


 その下に、明日からの行動を並べた。


 逆流の延長訓練。男は「壊れる」と言ったが、状況が変わった。鼻血が出る四秒を、五秒、六秒に伸ばす。


 御影への再接触。葛城への情報引き出し。箱の力の解明——マリアの祈りは、影たちの前で深く冷えた。敵対する力なのかもしれない。


 陽太の準備が、新しい局面に入った。


 男が壁にもたれて立っていた。


 「明日は、どうする」


 男が問うた。


 「分からない。今日、向こうが俺を見つけた。明日、何かが来るかもしれない」


 陽太が答えた。


 男が、陽太を見た。視線が、いつもより重かった。飄々さの奥に、別のものがあった。


 「お前は、お前で、できることをやれ。俺は、お前を守る」


 男の言葉が、静かだった。


 陽太は頷いた。


 鴨川沿いで陽太を囲んだ影たちの視線が、まだ、背中に残っていた。

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