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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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60話 割って入る

 朝、目が覚めた。


 社務所の畳。秋の冷気。陽太は身を起こした。男が壁にもたれて立っていた。


 陽太は箱を膝に置いた。マリアの祈りの温度——ぬるい。今日は普通。


 陽太は準備リストを確認した。最初の項目「逆流の延長訓練」。今日、社務所の境内で、男と一緒に試す。


 「やるぞ」


 陽太が告げた。


 「無理はするな」


 男が、釘を刺した。


 「ああ。だが、伸ばさないと、間に合わない」



      *



 陽太は境内に出た。秋の朝の光。男が斧を肩に担いで、陽太の前に立った。


 訓練が始まった。


 陽太は紋に意識を集中した。逆流を発動した。男の力の一部が、綱を介して陽太側に流れた。陽太の体が、わずかに重くなった。橋道の力の感覚。


 時計を見た。


 一秒。二秒。三秒。四秒——鼻血が、出始めた。


 陽太は耐えた。五秒。指先が痺れ始めた。六秒。視界が、わずかに白んだ。


 「やめろ」


 男が止めた。


 陽太が逆流を解除した。地面に膝をついた。鼻血が、口元まで垂れていた。視界が、ぼやけていた。


 「……六秒、いけた」


 陽太が呟いた。


 「だが、その先は、お前が壊れる」


 男が答えた。男の表情が、いつもより硬かった。


 「分かってる。でも、もう一回」


 「お前、本気で壊れる気か」


 男が、低く問うた。


 陽太は、男を見た。男の目が、いつもの飄々さを脱いでいた。陽太を心配する目。陽太は、それを見て、自分の決意を、もう一度確かめた。


 「壊れない。でも、伸ばさないと、お前一人に守らせることになる」


 「俺は、それでいい」


 「俺が、それでいやなんだ」


 陽太の声が、低かった。


 男は、それ以上、止めなかった。


 陽太がもう一度試した。今度は、五秒で止めた。鼻血は出るが、軽い。五秒なら、戦闘で使える。


 戦闘に使えるのは五秒まで。六秒は、命懸け。陽太は、それを記憶に刻んだ。


 訓練の限界が見えた。それが、今日の収穫だった。



      *



 訓練の後、陽太と男は嵐山を出た。


 今日は、市街地に向かう。葛城が現れる気配のある場所に、陽太から行く。受動的ではなく、能動的に。陽太の判断だった。


 電車。市街地へ。


 車内、陽太は箱を膝に置いた。マリアの祈りの温度。ぬるい。だが、今日は、警戒している、陽太の中の感覚。昨日の影の視線が、まだ背中に残っていた。今日、何かが起きる予感があった。


 「気をつけろ、坊主」


 男が呟いた。


 「ああ」



      *



 鴨川沿いに着いた。


 昨日、影に囲まれた場所の近く。だが、今日は普通だった。観光客が川沿いを歩いていた。秋の昼。穏やかな風景。


 陽太と男は、鴨川沿いを歩いた。葛城が現れる気配はなかった。陽太は、もう少し待つことにした。


 しばらく歩いた頃。


 風が、止まった。


 昨日と同じ前兆。観光客の声が遠のいた。陽太は息を飲んだ。


 「来た」


 男が呟いた。


 陽太は紋を見た。手の甲の紋が、強く熱を持ち始めていた。境界に反応していた。


 箱を確認した。マリアの祈り——深く冷えていた。昨日以上の冷え方。


 観光客が、いつの間にか消えていた。鴨川沿いに、陽太と男だけがいた。


 そして——昨日とは違うことが、起きていた。


 影が、いきなり集まっていた。


 昨日は、もやが立ち始めてから影が形を取った。今日は、そのプロセスが省略されていた。いきなり、複数の影が、陽太と男を取り囲んでいた。十体以上。昨日より多い。


 「観察じゃねえな」


 男が斧を構えた。


 「ああ」


 陽太も身構えた。



      *



 影の一体が、動いた。


 剣のようなものを構えていた影が、陽太に向かって突進した。


 速い。


 だが、男が斧で受け止めた。乾いた音。鉄と何かがぶつかる音。


 影の刃が、男の斧と噛み合ったまま、止まった。陽太は、影の輪郭を、近くで見た。顔がない。輪郭が薄く揺らいでいる。だが、刃を持つ手だけは、硬く実体化していた。生前の戦闘の癖が、形だけ残っているような動き。


 「やっぱり、力の断片を持ってる」


 男が呟いた。


 「ああ」


 別の影が、男の背後から襲ってきた。槍のような長い武器を構えていた。男が振り返って、斧の柄で打ち払った。影は、もやに戻った。


 その奥で、また別の影が、弓のようなものを構えていた。矢を、引き絞っていた。


 「坊主、弓だ」


 男が叫んだ。


 陽太は身を屈めた。空気を裂く音。何かが、陽太の頭の上を通り過ぎた。視覚で捉えられないほど速い。だが、何かが確かに飛んでいた。背後の石畳に、薄い切り傷のような線が走った。


 影は、それぞれが別の力を持っていた。剣、槍、弓、そして陽太がまだ見ていない何か。生前、別々の戦士だった者たちの、力の断片の寄せ集め。


 だが——もやは、すぐに形を取り直した。


 倒せない。


 「こいつら、消えねえな」


 男が呟いた。


 「形だけ残ってるから、か」


 「ああ」


 影は実体を持っているように動いた。だが、決定的な一撃を受けると、もやに戻った。そして、すぐに再形成された。倒し切れない相手。


 陽太は紋を見た。橋道の紋が、最大に熱を持っていた。逆流を発動できる状態。


 「使うか、坊主」


 男が問うた。


 「ああ」


 陽太は逆流を発動した。男の力の一部が、陽太側に流れた。陽太の体が、わずかに強化された。逆流による束の間の防御力。


 陽太は男の側に立った。影の攻撃を、自分でも弾けるようになった。一秒、二秒、三秒——。


 影が、四方から襲ってきた。陽太の右側に二体、左側に三体、男の背後に五体。陽太は男に背中を預けた。男も陽太に背中を預けた。二人で円を描いて、影を捌いた。男の斧が次々ともやに戻し、陽太の腕がそれを弾いた。だが、もやはすぐに形を取り戻した。終わらない戦闘。



      *



 戦闘が、続いた。


 影は減らない。倒しても、再形成される。男の斧が一体を斬る間に、別の二体が形を取り直す。男の動きが、徐々に速くなった。一撃が二撃に。二撃が三撃に。だが、その都度、後ろから別の影が現れる。


 男の斧の刃に、薄く血のような線が走った。男の体ではない。影を斬った時に飛び散る、もやの残滓。男の腕に、それが付着していた。


 陽太の逆流は、四秒に達していた。鼻血が、流れ始めた。


 「下がれ、坊主」


 男が言った。


 「まだ、戦える」


 陽太が答えた。


 「無理だ。お前、限界だ」


 男が、影の一体を斬りつつ、陽太を振り返った。男の表情が、いつもより険しかった。


 陽太は五秒に伸ばした。視界が、わずかに白んだ。だが、続けた。六秒——指先が痺れた。七秒——。


 ——壊れる。


 陽太は、自分の体が壊れる音を、内側で聞いた気がした。


 逆流を解除した。膝をついた。視界が暗くなった。鼻血が、口の中まで流れていた。意識が、遠のき始めた。


 「坊主——」


 男が叫んだ。だが、男は影に囲まれていた。陽太のところに戻れない。


 影の一体が、陽太に向かってきた。


 陽太は、立てなかった。逆流の代償が、体を縛っていた。


 その瞬間。



      *



 二刀が、影を斬った。


 影が、もやに戻って——消えた。再形成されない。完全に消えた。


 陽太は顔を上げた。


 御影 凛花が、立っていた。


 宮本武蔵が、二刀を構えて、陽太の隣にいた。実体化。陽太を守るように、武蔵の刀が、影と陽太の間に立っていた。


 武蔵の身なりは、剣豪そのものだった。袴。鬢のほつれ。両手に長短の刀。だが、目だけが、現代的に冷たかった。御影と契約した英霊らしい、無駄のない構え。


 「遅れて悪いわね」


 御影が、淡々と言った。


 「……御影」


 陽太が呟いた。


 「立てる?」


 「ああ、たぶん」


 陽太は立ち上がろうとした。膝が震えた。


 武蔵が、影の群れに突入した。同時二撃。長刀と短刀が、別の影を同時に斬った。一閃。二閃。三閃——影が、もやに戻る前に、空気に溶けて消えた。再形成されない。完全に消えた。それが、武蔵と男の斧の違いだった。


 陽太は、武蔵の動きを見ていた。男の斧とは、別の質の戦い方。男は一撃で重く打ち、武蔵は二撃で軽く斬った。男は影をもやに戻し、武蔵は影を空気に消した。同じ「英霊の残骸」を相手にしても、結果が違っていた。


 「あの斧の坊やは、影を消せないのね」


 御影が、男の方を見ながら呟いた。


 「ああ。再形成される」


 陽太が答えた。


 「私の武蔵は、消せる。たぶん、刃道だから。境界そのものを断ち切る力」


 御影が、武蔵の能力について部分的に説明した。陽太は理解した。刃道は境界を断つ力。男の橋道は境界を守る力。同じ「境界」に関わる道だが、機能が逆。


 武蔵が、影の大半を消した。残った影は、撤退した。もやに戻って、風に流れて、消えた。


 戦闘が、終わった。



      *



 鴨川沿いに、観光客が戻り始めた。誰も、先ほどの戦闘に気づいていなかった。


 陽太は、地面に座り込んでいた。鼻血が、まだ流れていた。男が、陽太の隣に立っていた。


 御影が、陽太を見下ろしていた。武蔵は、実体化を解いて、御影の肩のあたりに気配だけ残していた。


 「あんた、無茶したね」


 御影が呟いた。


 「ああ」


 「あの斧の坊やに守らせてるだけじゃ、足りない。あんた自身も戦おうとしたのは、いい。でも、限界を超えそうだった」


 御影の言葉が、いつもよりわずかに柔らかかった。船岡山の参道で見せた、感情の輪郭。それが、今日も少し見えていた。


 「なんで、来てくれた」


 陽太が問うた。


 「箱を守るためよ」


 御影が即答した。


 「あんたが死んだら、箱が本家に渡る可能性がある。だから、あんたが死ぬのは、困る」


 冷たい理由。だが、それだけではないことを、陽太は感じた。御影は、陽太を「箱の運び手」としてだけ見ているのではなかった。


 「ありがとう」


 陽太が短く言った。


 御影が、わずかに目を細めた。陽太の顔を見て、それから、視線をふっと逸らした。鴨川の水面の方へ。何かを言いかけて、別のものを見ることで、その何かを飲み込んだような動き。


 「礼は、いらない」


 御影が、それだけ呟いた。


 御影の中に、まだ言えない何かがあった。だが、陽太はそれ以上問わなかった。



      *



 御影が、背を向けた。


 「もう一度だけ、助言する」


 御影が、振り向かずに言った。


 「あんた、第七陣営に観察された。次は、もっと強い影が来る。あるいは、もっと別のものが来る。私が、毎回、間に合うとは限らない」


 「ああ」


 「準備を、急ぎなさい」


 御影が、歩き出そうとした、その時。


 男が、口を開いた。


 「嬢ちゃん」


 御影が、わずかに振り返った。


 「悪くなかった。お前の武蔵、いい腕だ」


 男が、短く告げた。


 御影が、口元を、ほんの一瞬だけ緩めた。


 「あんたの斧も、悪くなかったわ。橋以外でも、よく持ちこたえた」


 御影が、それだけ返して、紅葉が落ち始めた川沿いを歩いていった。武蔵の気配が、御影に続いた。


 陽太は、御影の後ろ姿を見ていた。御影は、振り向かなかった。


 「行っちまったな」


 男が呟いた。


 「ああ」


 陽太が答えた。


 御影は、同盟を結ぶとは言わなかった。だが、今日、御影は陽太と男を救った。武蔵の能力を見せた。事実上の援助関係が、成立していた。明示的な同盟ではない。だが、御影が陽太側に立つ気配が、確かにあった。



      *



 夕方、陽太と男は嵐山に戻った。電車の窓に、秋の夕日。陽太は、まだ体が痛かった。逆流の代償。


 「無理したな、坊主」


 男が呟いた。


 「ああ」


 「御影が来てくれて、助かった」


 陽太が呟いた。


 「ああ。今日は、俺たちの側だった。それで充分だ」


 男の言葉が、いつもの飄々さに戻っていた。



      *



 深夜、嵐山の社務所に戻った。


 誰もいない社務所。陽太が灯りをつけた。畳。秋の夜気。


 陽太は箱を畳に置いた。マリアの祈りは、ぬるい温度に戻っていた。今日の戦闘で、影たちの前で深く冷えた。マリアの祈りは、影たちと敵対する力——その仮説が、強まった。


 陽太は紋を見た。手の甲の紋。橋道の紋。今日、五秒の逆流で、戦闘に貢献した。だが、七秒で壊れかけた。陽太の戦闘力は、五秒の中にしかなかった。


 陽太は準備リストを開いた。新しい項目を、書き足した。


 「刃道の力を、もっと知る」


 御影の武蔵は、影を消せた。刃道は境界を断つ力。男の橋道は境界を守る力。陽太は、両方を理解する必要があった。男の能力だけでは、第七陣営に勝てない。


 男が、壁にもたれて立っていた。


 「明日は、どうする」


 男が問うた。


 「分からない。だが——今日、分かったことがある」


 陽太が答えた。


 「俺一人では、影を消せない。お前一人でも、消せない。御影の刃道が、必要だ」


 「ああ」


 「同盟、組まなきゃいけないかもしれない」


 陽太の声が、静かだった。


 御影との同盟。第七陣営に対抗するための、明示的な手の組み方。今日までは、それぞれが別々に動いていた。だが、明日からは、違うかもしれない。


 男が、頷いた。


 「それで、いいんじゃねえか」


 男が、短く答えた。


 鴨川沿いで、影の刀が陽太を斬りに来た瞬間の感覚が、まだ、手の甲に残っていた。

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