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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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26話 日々

 渡月橋で訓練するようになった。


 嵐山の渡月橋。五条大橋は境界石の範囲内にある。葛城に監視されている可能性がある。渡月橋は市街地から離れていて、境界石の密度が低い。凛花が境界石のデータを照合して「ここなら安全」と判断した。


 朝。四人が橋の上にいる。俺と男。凛花と武蔵。渡月橋は五条大橋より幅が広い。車は通らないが、歩行者用の広い橋。朝の時間帯は観光客も少ない。橋の上を秋風が吹き抜けていく。嵐山の山肌が赤く染まっている。


 訓練の内容が変わっていた。五条大橋での訓練は「二人」だった。俺が方向を叫び、男が正面を合わせる。今は「四人」。俺と凛花が交互に叫び、男と武蔵が連携して動く。盾と剣。不退橋と二天一流。


 「12時!」——俺が叫ぶ。男が正面を向く。

 「武蔵、3時!」——凛花が叫ぶ。武蔵が右に跳ぶ。

 「6時、上!」——俺が叫ぶ。男が体を回す。武蔵が上を斬る。


 最初は噛み合わなかった。俺の叫びと凛花の叫びが被る。男と武蔵が同じ方向に動いてしまう。指揮系統が二つあると、混乱が起きる。


 三日目に、ルールを決めた。俺は男だけに叫ぶ。凛花は武蔵だけに叫ぶ。互いの英霊にだけ指示を出す。——だがそれだと、俺が男の死角を見て、凛花が武蔵の死角を見ることになり、全体を見る人間がいなくなる。


 五日目に、もう一つルールを足した。全体の状況を見るのは——マスター同士が互いを見ること。俺が凛花の位置を把握し、凛花が俺の位置を把握する。マスターが動けば、英霊も動く。マスターの位置取りが、連携の鍵になる。


 四人の声と動きが噛み合っていく。あの境界石の結界で6〜7割だった連携が、日を追うごとに精度を上げている。7割が8割になり、8割が9割に近づいていく。


 だが——10割にはならない。必ず隙間がある。二人の英霊と二人のマスターが完璧に同期することは、たぶん不可能だ。でも9割まで来れば——残りの1割は運と覚悟でカバーする。男ならそう言うだろう。「まあ、なんとかなるだろ」と。



      *



 訓練の合間に、渡月橋の河原で休憩する。嵐山の紅葉が水面に映っている。赤と橙と黄色。観光客がカメラを構えている。美しい秋の京都。殺し合いの合間に見る紅葉は——やはり美しかった。


 凛花が河原の石の上に座っていた。いつもの和装に革ジャケット。裾はあの結界戦の焦げ痕を縫い直してある。器用だ。


 俺は隣に座った。少し離れて——いや、前より距離が近い。初めて会ったときは二メートル以上離れていた。今は一メートルもない。


 「……弟の名前、聞いてなかったな」


 聞いてみた。なんとなく。凛花が弟の話をするとき、いつも「弟」としか言わない。名前を出さない。


 凛花が少し間を置いた。目が遠くなった。きつさが薄れている。


 「蓮。御影蓮。——八歳だった」


 八歳。堂島の娘の年齢は知らないが——小学生だったのだろう。凛花の弟も小学生だった。儀式に巻き込まれる子供たち。


 「どんな子だったの」


 「うるさい子よ。いつもあたしの後ろをついてきて。凛花姉ちゃん凛花姉ちゃんって。鬱陶しかった」


 声が柔らかくなっていた。きつい女の、柔らかい声。初めて聞いた。


 「……鬱陶しかった。でも——いなくなったら、静かすぎた」


 沈黙。嵐山の紅葉が風に揺れている。赤い葉が一枚、川に落ちた。水面に赤い点が浮かんで、流れていった。


 蓮。八歳。凛花姉ちゃんと呼んでいた子供。——堂島の娘も、きっとそうだったのだろう。名前を呼んで、笑って、ついてきて。そういう子供が、儀式に巻き込まれて消えた。


 凛花と堂島は——似ている。失った子供を取り戻したい。方法が違うだけ。堂島は「取り戻す」。凛花は「復讐する」——だが、境界の力のことを知った今、凛花も「取り戻す」に変わっている。復讐ではなく、奪還。弟を返してほしい。ただそれだけ。


 凛花が俺を見た。目がきつくなった——だが、いつもの鋭さとは少し違う。確認するような目。


 「あんたは——境界の力、使わないの? 取り戻したい人がいないんでしょ」


 「ああ。母親は生きてる。取り戻す必要がない」


 「……贅沢ね」


 嫌味ではなかった。本当に、そう思っている声だった。取り戻す必要がないことが——贅沢。凛花にとっては。


 「あたしは使う。何があっても」


 目がきつくなった。決意の目。あの杭林の中で見たのと同じ。だが今回は——俺に向けて言っている。確認している。「あたしの目的を、あんたは理解しているのか」と。


 「……分かってる」


 答えた。凛花が境界の力を使えば、次の儀式が早まる。代償がある。それを知った上で、凛花は弟を取り戻す。俺はそれを——止められない。止める権利がない。凛花の弟を失ったのは俺じゃない。


 だが——止められないことと、賛成することは違う。


 複雑な感情が、胸の中でもつれていた。



      *



 コンビニでスマホを充電した。いつもの店。いつもの店員。もう顔を覚えられている。店員が「また?」という目で見たが、パンを一つ買えば(凛花がくれた食料の残りの金で)何も言わない。


 母親からの返信が来ていた。


 「待ってる。ずっと待ってる」


 短い。だが——温かかった。


 「ずっと」。いつまでも。母親は諦めていない。捜索届を出して、チラシを配って、近所の人に頼んで——それでも見つからない息子を、「ずっと待ってる」。何日も。何週間も。あの狭いリビングで。テレビのワイドショーを見ながら。一人で。


 俺が儀式で戦っている間、母親は母親の世界で待っていた。何もできずに。ただ待つことしかできずに。


 返信を打った。


 「大丈夫。必ず帰る」


 前回は「もう少しだけ待ってて」だった。「待ってて」は——母親に行動を求めている。待っていてくれ、と。今回は「帰る」。俺が動く。俺が帰る。母親に待ってもらうのではなく、俺が戻る。動くのは俺のほうだ。


 送信した。画面を消した。



      *



 夕方。渡月橋の上。


 訓練が終わった。四人が橋の上にいる。夕日が嵐山の紅葉を照らしている。鏡のように静かな川面に、赤い山が映っている。


 橋の戦士と武蔵が並んで立っていた。斧と二刀。巨漢と剣士。手合わせ以来——この二人は言葉が少なくなった。だが通じ合っている。訓練中に言葉を交わさなくても、互いの動きを読んでいる。千年前の戦士と巌流島の剣士。橋の上で退かなかった男と、島で退路を断った男。背水の覚悟を知る者同士。


 武蔵が橋の欄干に寄りかかって、渡月橋から嵐山の紅葉を見ていた。静かな目。いつもの静寂。だが——手合わせの前と、今とでは、静寂の質が違う。前は「閉じた」静寂。今は「開いた」静寂。橋の戦士を認めたことで、武蔵の中の何かが緩んでいる。


 「……いい橋だ」


 武蔵が呟いた。「渡月橋。月を渡す橋。——風流な名だ」


 橋の戦士が隣で斧を肩に担いでいる。「俺は橋の名前なんか知らねえがな。立ってるのが好きなだけだ」


 「名前を知らずとも、橋の上に立つ者に変わりはない。——お前さんらしい」


 武蔵が微かに笑った。あの静かな剣士の笑み。手合わせで見せた笑みと同じ。


 橋の戦士も笑った。いつもの薄い笑み。「お前もな。橋の上に立ってる分には、悪くない相棒だ」


 相棒。その言葉を、男が使うのは初めてだった。俺のことは「坊主」。武蔵のことを「相棒」。——英霊同士の、戦士同士の関係。俺と男の関係とは別の、もう一つの繋がりが生まれている。


 凛花が俺の隣にいた。腕を組んで。嵐山の紅葉を見ている。


 「……そろそろだと思うの」


 「何が」


 「葛城。待ってたら、向こうから来る。境界石で偵察して、データを集めて、対策を立てて——完璧な状態で仕掛けてくるわ。あの男はそういう男よ」


 あの男のことを思い出す。葛城冬真。分析。計算。管理。あの秋明菊の活けてある書斎で、あの男は今——俺たちの対策を練り上げている。待てば待つほど不利になる。


 「だから——こっちから仕掛けに行く」


 凛花が俺を見た。きつい目。だが迷いはなかった。


 「葛城を倒す。そして——境界の力を手に入れる」


 俺は答えなかった。すぐには。


 凛花の言葉の中に——二つの目的がある。「葛城を倒す」と「境界の力を手に入れる」。一つ目は俺も同じだ。葛城を倒さなければ先に進めない。だが二つ目は——凛花の目的であって、俺の目的ではない。


 境界の力。使えば弟を取り戻せる。だが代償がある。俺は使う必要がない。凛花は使う。——ここに、ずれがある。今はまだ小さなずれ。だが。


 「……ああ。葛城を倒す。それは同じだ」


 答えた。二つ目には触れなかった。


 凛花は何も言わなかった。だが——分かっているのだろう。俺が二つ目に答えなかったことを。


 夕暮れの渡月橋。紅葉が風に舞っている。四人が橋の上に立っている。盾と剣。マスターと英霊。共闘。——だがその共闘の下に、小さな亀裂が生まれ始めていた。


 そろそろ——葛城を仕掛けに行く。

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